三十三、お戯れも程々に

 たまたま曲の切れ目が重なった。だがその瞬間、確かに会場中の視線が入口の男に釘付けになった。


 カレンベルク卿。彼は西欧を股にかける事業家であり、同時に滅多に社交の場に姿を見せない謎多き人物として知られていた。

 その男が今、鹿茗館の舞踏場に立っている。シャンデリアの明かりを受けて輝く白金の髪はしっかりとひとつに束ねられていて、濃紺の燕尾服からは黒蝶貝の飾りぼたんと懐中時計の金の鎖がきらりと覗く。

 人並み外れた容貌、紳士然とした佇まい、全てが圧倒的な存在感を放っていた。


「彼があの、カレンベルク伯爵……」

「我が国にいらしていたというのは本当だったのか!」

「あの方、みすた・いえーがーではなくって?」


 一瞬の沈黙は破られて、すぐにざわめきに変わった。どうにか彼と親交を得たい紳士達が我先にと近付いて、見る見る間に人の輪ができる。淑女達は離れたところからうらやましそうにその姿を眺めているのだった。


 この国の男達に囲まれても頭ひとつ背が高いフリッツ。人だかりを張り付けたまま堂々と広間を進む歩みはまるで別世界の人のようである。

 月乃はその他大勢の婦人達と、遠くからその姿を追うことしかできなかった。近付くことすら叶わないと落胆しかけたところで、不意に、複数の黒い頭越しにこちらを見る彼と目が合った。

 大広間の端と端で、月乃とフリッツの視線がぶつかる。その瞬間、彼の冬空の瞳が柔和な笑みをたたえたのがわかった。

 途端に月乃の心は跳ねた。しかし離れた場所からどう返すべきかわからず、手を振ってしらせるのも淑女らしくないような気がして。ただぎゅっと胸にかけられた銀細工を握った。カレンベルク卿のイニシアル、“K”のサインが入った舞踏手帳を。するとフリッツは器用に片目をつぶって応えてみせた。わかっているよ、君に気付いているよと合図するように。


「お嬢さん、次のお相手はお決まりですか?」


 ふと流暢な日本語で話しかけられて振り返る。すると月乃の前に立つのは、縦にも横にも重量のある大柄な異人の紳士だった。その後ろに、見知らぬ異国の男達が連なっている。全ては月乃の舞踏手帳に自身の名を刻むための順番待ちの列であった。

 そうしてあれよあれよと言う間に舞踏手帳の空白は埋められて、月乃はそのまま一時間近く、様々な紳士と踊り続ける羽目になった。その間、フリッツは部屋の隅で談笑していたり、時折紹介された夫人の手を取って踊りの輪に加わったりしている。


(フリッツさんが社交の場に出たがらない理由がわかった気がするわ)


 ここでは彼は一介の英語講師ではない。人知れず怪異を滅ぼす悪魔殺しデモントーターでもない。誰も彼を放っておかない。誰もが彼に心ときめかずにはいられない。


(“さみしそうなおつきさま”。まさに彼のような人を指す言葉だったのかもしれないわ)


 フリードリヒ・フォン・カレンベルクという男は、多くの星に囲まれながら、決してその一部にはなれない孤独な月だった。

 けれどその彼が、今日という日に鹿茗館の扉を開けた。それは他の誰でもなく、ただ月乃ひとりと踊るためだと――そう自惚うぬぼれてもいいのだろうか。


 くるりくるりと大広間の舞踏の海をたゆたう間、月乃は何度も何度も人の波に彼の姿を探した。時折遠くから目が合うと、その度フリッツは片目を瞑って合図を送る。

“君を見ている、ひとときたりとも忘れはしない”。そう語りかけてくる彼のしぐさは、今この会場でふたりだけが知る秘密の暗号だった。

 彼のメッセェジを目で受け取る度、月乃は高揚して、心はそわそわと落ち着かなかった。代わる代わる目の前に現れるダンスの相手パァトナーはそれぞれお国の言葉で月乃を褒め称えたけれど、どれも彼女の心を捕らえることはあたわず、空しく宙に消えるだけだった。


 ワルツ、ガヴォット、マズルカ。

 延々と踊って、踊り疲れて。落ち着いたミニュエットにさしかかったところでようやく、一曲分の空白ができた。踊り詰めから解放された月乃はふらふらと部屋の隅に置かれている椅子に座る。

 薔薇学園の女生徒は皆優秀に踊り手の役割を果たしていたが、その中でも月乃と千代の忙しさは群を抜いていた。特に千代などほとんど口も開かず微笑んでいるだけなのに、予約が後から引きも切らない。今も恰幅の良い異人の紳士と踊っている。


 フリッツは少し前、複数の人物と連れ立って舞踏場を出て行った。別室で煙草をたしなむのか、はたまた撞球ビリヤードに誘われたのか。舞踏会の夜は長い。月乃と彼が踊る最後のダンスは、日を跨いだ先のこととなりそうだった。

 しばらく踊る人の輪をぼうっと眺めていた月乃は、ある瞬間、急に背筋がぞわぞわと警戒に粟立つのを感じた。虫の知らせというやつか。何だろうと背筋を張り直して辺りを見渡す。すると少し遠くから、不躾ぶしつけにこちらを見るある男と視線が絡んだ。


(い、伊藤首相だわ!)


 視線の主は歩く不祥事スキャンダル製造機、伊藤博重ひろしげ総理大臣その人だった。全身を値踏みするようにジトッとめつけられて、月乃の背中にまた鳥肌が立った。慌てて顔を逸らし、扇を広げて視線をさえぎる。


(気のせい、気のせいよね……)


 全身が嫌な汗をかき始める。動悸までし始めた。何事もなく今が過ぎ去ることを期待して、扇の合間からそっと床を見た。するとあろうことか、伊藤首相のぴかぴかのエナメル靴がこちらに近付いてくるではないか。


(どうしよう、どうしよう!)


 思い過ごしかもしれない。たまたまこちら側にいる別の人に用があるのかもしれない。そう考えて今度は扇から視線を持ち上げて見ると、まっすぐこちらへ歩いてくる伊藤首相は、どう見ても月乃本人に緩みきった笑みを投げかけていた。

 距離が近付く。あと数歩で話しかけられてしまう。

 次の瞬間、月乃はがばりと椅子から立ち上がった。そしてぱしんと扇を畳むと、目の前で堂々と床に落とした。伊藤首相の目を見て、あからさまに。


(こ、これこそ先生が言ってらした“お断り”の合図……!)


 月乃は礼法の講師の助言を完璧に実行した。だが。


「おお、可愛らしい扇を落としましたかな? どれどれ、その恰好では不便でしょう。わしが拾って差し上げよう」


 諸外国および国内のそうそうたる顔ぶれと、日夜侃々諤々かんかんがくがくの議論を繰り広げているこの男の前では、淑女の暗黙のルールなど全く無意味だった。伊藤首相は月乃の足元の扇をひょいと拾うと、下心満々の好色な笑みでこちらへ差し出す。


「……ありがとうございます……」


 受け取ろうと手を伸ばすと、そのまま扇ごと両手でぐっと手を握り込まれてしまった。首相はほのかに赤ら顔をしていて、どうも酒に酔っているらしい。


「うんうん、固まってしまって初々しいのう。どちらのお嬢さんかな?」

「は、はい。揺川月乃と申します。薔薇学園から参りました……」

「ほぉう! なれば未婚のご令嬢だな。列国の婦人に負けず可憐じゃないか。最近のおなごは皆自己主張が強くていかん。やはり大和撫子たるもの、お嬢さんのように楚々と慎ましいのが好ましい」

「ありがとう、ございます……?」


 つつつ、と手の甲を撫でられて、全身が総毛立つ。周囲を支配していた音楽が遠ざかり、間もなくミニュエットが終わろうとしていた。


「どうかね。儂と一曲踊らんか? こう見えてポルカはなかなか得意でな」

「えっ、あの、その」


 この次のポルカは、既に予約が入っている。相手パァトナーは英国公使一行のひとりだった。月乃が自国の首相と親しげにしているのを見たら、踊るのを諦めてしまうかもしれない。


「ほれ参ろうか。遠慮などせんでいいぞ」


 何とか断ろうにも上手く言葉が出てこない。その間にも首相の手が腰に回されて、ぐいぐいと密着される。近付く身体から煙草のむせ返るような匂いがした。彼――フリッツの身から漂うその香りは好ましいとすら思うのに、今は嫌悪感しか湧かない。

 いよいよ涙目になったところで、ぺちん、と音がして、急に腰に触れていた手が離れた。


「ごきげんよう、伊藤閣下」

「千代ちゃん!」


 振り返ると、すぐ後ろに立っていたのはちょうど踊りを終えたばかりの千代だった。右手にはべっ甲の扇が握られており、どうやらそれで首相の手の甲を叩いたらしい。


「彼女は今夜が初めての夜会ですの。おたわむれも程々になさって」

「ん? 君は……」


 叩かれた手を押さえた首相は、突然現れた薔薇のごとき淑女に痛みすら忘れたらしい。千代はにこりと妖艶に微笑むと、その場で美しいお辞儀カーテシーを披露した。


蓮舎はすや子爵家の千代でございます。まあひどい。わたくし、春の舞踏会にも父と参加しておりましてよ。今晩も閣下にお目にかかるのを楽しみにしておりましたのに……」

「おお、おお、そうだった。いやすまん。君のような美しいご令嬢を、ひと目見て忘れるはずがない。どうだ、あちらの露台バルコニーでゆるりと夜の庭でも見学せんかね?」


 首相はあっという間に鞍替くらがえして、今度は千代の腰に手を回す。月乃が「でも千代ちゃん……」と引き留めようとすると、千代は広げた扇の合間からちらりと露台バルコニーとは反対の部屋の端へ視線をった。あちらへ行け、と促しているのだ。


(千代ちゃんは、あしらいが下手な私を首相からかばってくれたんだわ……!)


 あっという間に、千代は首相と連れ立って露台バルコニーのガラス戸の向こうへ消えてしまった。そうこうしているうちに、少し離れたところから様子を伺っていた次の相手パァトナーが近付いてくる。

 始まったポルカは調子が速い。ちらちらと外を気にする余裕もなく、月乃は賑やかな音楽の波に引き込まれた。




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