三十ニ、鹿茗館
御納戸小町達を乗せた人力車の列は、明かりの少ない夜の町を静かに走り抜けた。
女生徒達の
「お嬢様!」
月乃が踊り靴で庭園の土を踏んだ時、俥の幌の向こうからよく知る声が聞こえた。燕尾服の裾をなびかせて、手を上げこちらへやって来るのは暁臣である。いつも通り、彼の鼻は月乃を遠方から正確に見つけ出していた。
「ごきげんよう、暁臣さん。いらしてたのね」
「ええ、刻限近くなってからでは混みますのでつい先程――」
近付いてきた暁臣は俥の
「? どうかなさった?」
「いえ。その……とてもお美しいので……」
提灯の黄みがかった明かりに照らされた月乃は幻想的な美を纏っていた。白磁の肌は
一方の暁臣も燕尾服に白い
「足の具合はいかがですか」
「おかげさまで、もうほとんど大丈夫よ。今日はおじ様もいらしているの?」
「はい。是非会ってもらえませんか。久しぶりにお嬢様の顔を見たら喜ぶと思います」
そう言って改めて手を差し出したので、月乃はその上に自分の手を重ねた。
鹿茗館の建物は、英国の建築家の手に成る擬洋風建築である。二階建ての建物の中央には赤い丸屋根を頂き、入り口の車寄せの上部は広い
「これが鹿茗館……」
その
まず視界に入ったのは一面の菊の花。正面に二階へ上る広い階段があり、その両側に大輪の菊の花が飾られていた。壁際には薄紅の菊の垣が立てられ、手すりの手前には黄色、更にその前には白の菊が帯のように連なって、階段沿いに花壇を造っている。敷き詰められた濃紅の
まだ舞踏会の開始前にもかかわらず、館内は人々のざわめきで賑やかだ。二階からは弦楽四重奏の優雅な調べが聴こえてくる。
「舞踏会場となる大広間は二階です。一階には玉突場などがあって……こちらが食堂です」
そこかしこに立ち止まり談笑する人の波を縫って、暁臣は一階の右手にある食堂へ月乃を案内した。そこは長
既に飾られている塔のような細工菓子をしげしげと眺めていると、暁臣が「後でアイスクリンも運ばれてくるようですよ」と耳打ちする。ならばその時には絶対にまた来なければと月乃は目を輝かせた。
「おお、そこな美しい御令嬢はまさか月乃嬢かね!?」
「おじ様!」
大仰な台詞と共に近付いて来たのは真上家の当主、暁臣の父だった。彼と最後に顔を合わせたのは父の葬儀の時だが、言葉を交わしたのは一体いつ以来か。久しぶりの対面に心が弾む。ドレス姿を褒められて、真上家の事業の順調ぶりなどを聞かされて。その後は懐かしい昔話に花が咲いた。
そろそろお
「間もなく、特別列車に乗った列国賓客の方々がご到着なさいます」
中央ホールの方から、舞踏会の始まりを告げる声がする。本格的に夜会の幕が開けようとしていた。
「暁臣、せっかくだから月乃嬢と一曲踊ってきたらどうだ?」
暁臣の父の言葉に、月乃は心の中で同意した。右も左もわからぬ舞踏会、一曲目に気心の知れた相手と踊れるなら心強いと思ったのだ。だがその提案を、暁臣はやんわりとした笑顔で辞退した。
「いえ。俺は……やめておきます」
「手を離せなくなってしまいそうなので」。最後のつぶやきは、誰にも聞こえることなく周囲の
◇
他の客に雑じって菊の階段を上れば、二階の正面に舞踏場の扉が開かれていた。みっつの部屋を開け放った大広間には、大きなシャンデリアが吊るされている。木床は鏡のように磨かれて、天井の光を反射してつやつやと輝いていた。
月乃はなんだか気後れして、他の女生徒達と共にひとところに固まっていた。千代は既に大勢の紳士――の装いをした好色漢に囲まれて、貼り付いた笑顔で応対している。
「内閣総理大臣
読み上げ人のよく通る声が響き、一組の夫婦が入場する。紫紺のドレスに身を包んだ細身の夫人と、人好きする笑みを浮かべた
「仏共和国ベルナール海軍中将閣下および海軍士官ご一行」
「大英国公使――」
「清国公使――」
次々と読み上げられる諸国要人の名前。そのうちに一曲目が始まって、辺りで和やかな会話が始まる。月乃も見知らぬ軍服の異人に話しかけられた。ダンスの申し込みである。
月乃は気もそぞろに誘いを承諾し、差し出された手を取った。ちらりと千代を
曲目は華やかな
そしてちょうど曲の終わり。
「獨帝国伯爵カレンベルク卿」
待ち焦がれていた人の名が、朗々と告げられる。その瞬間、会場中がにわかに静まりかえった。
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