三十一、気高き淑女

 十一月三日、天長節。この日は朝から晴天に恵まれ、風も穏やかな小春日和であった。

 天長節とは天皇の誕生日を祝う祝日である。町には日の丸と屋台が並び、祭り風情でにぎわいを見せる。各国の要人を招いた鹿茗館ろくめいかんでの大夜会の他に、昼は観兵式も行われる。薔薇学園からも、日々谷ひびや練兵場で上がる昼花火の万雷が遠くに聞こえた。


 舞踏会は日が落ちてから始まるが、薔薇学園の上級生達はまだ日のあるうちから各々準備に余念がなかった。

 女生徒達が身に付けるのは腰の後ろが大きく膨らんだバッスルスタイルのドレス。どれも舶来品のため、国内で質の良いものを手に入れるのは困難だ。そのためレェスのよれたお下がりを着る者も多かったが、若い娘がきらびやかに装えばそれだけで辺りは華やぐ。髪もそれぞれ趣向を凝らし、みつ編みを耳の横で丸めた“ラヂオ巻き”、あるいは一本で大きな輪にした“まがれいと”など洒落しゃれた束髪に鮮やかなリボンを合わせている。

 競うように咲き誇るうら若き乙女らの中にあって、一際輝く名花が、千代と月乃のふたりであった。


 千代のドレスは赤い薔薇の織り込まれた重厚な柄織絹ジャカード。前身頃は飾り紐で編み上げられ、へちまえりから覗く胸元には大ぶりの首飾りが光る。髪はしっとりと耳を隠して小さく纏めることで、豪奢なドレスと釣り合いを取っていた。

 一方、月乃が身に付ける淡黄色のドレスは千代のものと比べて色柄は簡素だ。しかしそれ故つやがかった生地の上質さが際立つ。高襟ハイネックの意匠は体の華奢さを上手く覆い隠し、月乃の清楚な美を引き出していた。

 髪型はみつ編みを後頭部に巻き付け結い上げた流行の“英吉利イギリス結び”。唯一髪に挿された赤珊瑚あかさんごにべっ甲のかんざしは、以前匣根はこねへの旅費をまかなうために質に入れたはずのものである。母の形見と知ったフリッツが、密かに買い戻してくれていた。

 ふたりをたとえるなら大輪の薔薇と百合。両者のおもむきは異なるが、それぞれに気品があり美しい。口に差された揃いのべにが、どちらも白い肌に映えてあでやかだった。


 部屋で互いの髪を結い合ったふたりは、最後に鏡合わせのように立って全身を確認するとにっこりと笑った。


「千代ちゃん! 本当にきれいだわ。今夜鹿茗館へいらした方は、きっと皆ひと目で千代ちゃんのことを好きになってしまうと思うの」

「月乃ちゃんも、まるで月の精のようね。このドレスを用意された方は、きっと月乃ちゃんのことをよくご覧になっているんでしょうね……」


 月乃がはにかむと、千代も優しく微笑んだ。

 匣根から帰って以降、千代はあれこれと月乃に仔細を尋ねてこなかった。毎晩誰かと手紙のやり取りをしていることも、ドレスの贈り主についても何も聞いてこない。もしかしたら全てに気付いているのかもしれないし、あえて黙っていてくれているのかもしれない。


(千代ちゃんには、いずれ何もかもを打ち明けたい。だって、私のたったひとりの親友だもの。あるいはこの舞踏会が終わったら――)


 全ては天長節舞踏会が終わったら。

 慣れないドレスに包まれた胸の内で、月乃は小さな決意を固めていた。


 腹ごなしの軽食を済ませ、いよいよ日が沈んだ頃合。出立前に、一堂は講堂に集められた。


「皆さん大変に美しい。貴女方はこの学園の、いえ、この国の誇りです」


 集まった女生徒達を称賛したのは優しげな笑顔が印象的な細身の紳士。先日、この学園に赴任したばかりの新しい学園長である。その横に立った舎監の川村女史と礼法の講師が、それぞれ前に出て訓示を述べた。


「貴女方の務めは列国の貴賓きひんをもてなすこと。決して羅紗緬らしゃめんの真似事ではございません。華やかな気風に浮かれて、この国を代表する気高き淑女の立場であることをゆめゆめお忘れなきよう」


 羅紗緬とは、異人のめかけを蔑む差別用語だ。世間知らずの年若い乙女達が異国の男にもてあそばれぬよう、あえて強い言葉で釘を刺すのだった。


「扇を上手くお使いなさい。古くより、西欧では扇は口程に饒舌じょうぜつと申します。ご自分から殿方をお誘いするようなことはなさりませぬな。不遜ふそんやからは素早く見極めて、不躾ぶしつけな視線は扇でさえぎること。それでも近付いてきたなら、わざと面前で扇を落としなさい。これは古くからの“お断り”の合図です」


 礼法講師の忠言を、皆心に刻む。川村女史と講師は顔を見合わせた後、「それから」と付け加えた。


「伊藤首相には近付かないように」


 挙げられた名前に、ああ、という感じで一様に納得する。

 講師の言う伊藤首相とは、現・内閣総理大臣の伊藤博重(いとう・ひろしげ)その人である。彼は非常に好色なことで知られていた。

 その女癖の悪さは過去に何度も新聞に書き立てられていて、最近でも官邸で仮装舞踏会フワンシーボールなる催しを開いて狂乱にふけっただの、某伯爵夫人との不義の疑惑だの、散々な評判だった。


「そろそろ刻限ですね。それでは皆さん、良き夜となりますように」


 学園長が腰のベルトにぶら下げた懐中時計の盤面を見る。

 その一言で、ドレス姿の女生徒達はそろりと厳粛に講堂を出た。学園の前に停められた人力車にひとり一台、順に乗り込む。行き先は鹿茗館。いざ、天長節舞踏会。

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