第四章 をとめの恋は月下に咲く
三十、一途な愛
月乃は生徒で、フリッツは英語講師。昼休みにはいつもの裏庭の
一見何も変わらない日常、しかし月乃の心は明確に変化していた。
授業で彼が聖書の一節を唱える時。黒板の字を指し示す時。月乃はあの唇が、あの指が、自分に触れたのだと意識せずにはいられない。彼の一挙手一投足から目が離せず、心はふわふわとして落ち着かない。
一方のフリッツは、月乃とふたりでいる時にはとても柔らかい表情をするようになった――ように見える。
だが距離感については相変わらず、紳士らしく節度を守っている。人前で教師と生徒という
あの夜交わした口付け、彼の唇から零れた愛の言葉。それは満月の見せた幻ではないかとふと思う。けれど体内でくすぶる熱と口内を
それに何より――。
“君がくれた想いの分だけ、君に返そう”。
あの時の言葉の通り。
匣根から戻って以降、フリッツから手紙が届くようになった。毎晩一夜も欠かさずに、白い封筒を携えたフロッケが寄宿舎の窓辺にやって来るのだ。
獨語で書かれたその手紙には、これまでのフリッツの過去がつぶさに明かされていた。
フリードリヒ・フォン・カレンベルクというもうひとつの名前。
自分がミスタァKであること。
月乃の父との関係。
彼を救えなかった後悔と謝罪――。
その内容は驚くべきことも多かったけれど、一方ですとんと腑に落ちた。少なくとも、父が異国の地で孤独に亡くなったわけではなく、友と呼べる人に看取られていたことは月乃にとって救いだった。
冷静で合理的なフリッツと明るくおしゃべりな父。一見正反対のふたりがどんな会話をしていたのかと想像すると、自然と笑みが浮かぶ。父の訃報を受けてからの二年、ずっと欠けていた心の空白が、フリッツからの手紙で埋められていくのがわかった。
さらに手紙の最後にはいつも、彼の
“君は俺の月の女神。俺の孤独を
“ただ君への愛にのみ
“一途な愛を捧ぐ”
いくら鈍い月乃でも、本気で口説かれているのだとわかる。読んでいて思わず赤面してしまう程の、真っ直ぐな愛の言葉。
昼間、学園では何事もないかのように見せている彼が、その胸の内にこれ程の情熱を隠し持っているとはにわかには信じられなかった。この手紙を読んで、彼に陥落しない女が果たしているのか。
(こんなの、反則だわ……)
何度も読み返し、その都度ひとり身悶えして。
毎晩一通、届けられた白封筒の封を切れば、心はせつなく満たされて、その度に宝物が増えてゆく。
そして十日目の日に、寄宿舎の月乃の部屋に大きな贈り物が届いた。――それは一着のドレス。
まるで月の光を集めたかのような、可憐な淡黄色のバッスルドレスだった。
親骨に象牙を用いた扇から揃いの靴まで、まるで
“俺の想いを受け入れてくれるのなら、天長節舞踏会の夜、このドレスを着て俺の手を取ってほしい”
添えられたカードには、フリッツからのメッセェジがしたためられていた。
(私が、舞踏会でフリッツさんと――)
自分には手の届かないものだからと、興味のないふりをして諦めていた。けれど本当は自分だって、他の娘達と同じように憧れていたのだ。美しいドレス、シャンデリアの灯り。そこで彼と手を取って踊る自分――。
隠された願望が露わになり、夢は形を持って目の前に広がった。
「でも。亜矢は――来られないのよね」
亜矢が学園を辞める、そう舎監から告げられたのは一昨日のことだ。
あれだけ天長節舞踏会を楽しみにしていたのに。素敵なドレスも仕立てたと言っていたのに。義母からも何も聞かされていない。まさに寝耳に水の出来事だった。
慌ててすぐに亜矢の元を訪ねたのだが、部屋の扉越しに「あんたには関係ないわよ!」と拒絶されてしまった。
「関係ないわけないじゃない。姉妹だもの」
「あんたのそういうところが一番大嫌いよ! この偽善者!」
好かれていないことはわかっていたけれど、大嫌いと言われて言葉が出て来なかった。しばらくその場で動けずにいると、扉が開いて亜矢が出て来た。いつも通り、自信たっぷりで、不敵な笑みでこちらを見下す亜矢だった。
「あんたはせいぜいこの学園で卒業面でもしていればいいわ。私はお母様の実家に帰って、さっさとお金持ちを見つけて嫁ぐから」
「さようなら、お姉様」。それだけ告げて、容赦なく扉が閉まる。それが義妹と交わした、最後の言葉だった。
(偽善者、か……)
姉妹らしいことはほとんどしてこなかったとは言え、情がないわけではない。
複雑な思いで部屋の隅に飾られたドレスを眺めていると、後ろからポン、と千代が肩を叩く。
「世の中にはわかり合えない人というものが存在するのよ。月乃ちゃんが心を痛めるだけ無駄だわ」
「ええ……」
千代の慰めに小さく頷いた。
きっかけは、何かの
(私と亜矢は、家族にはなれなかった。でも手に入らなかった過去を嘆いて、本当に大切なものを見落としてはいけないわ。今私の目の前にあるもの、私が本当に求めているもの、それは――)
飾り紐とレェスで彩られた、繊細なドレスの胸元に触れる。その首に掛けられた四角い銀細工を、ぎゅっと握った。
それはドレスと共に贈られたもののひとつだった。月乃の手のひらと同じくらいの大きさの、銀細工の首飾り。彫金でナイチンゲェルの意匠が描かれていて、首にかけるための長い鎖が付いている。
「あら、素敵な舞踏手帳ね」
「えっ? 首飾りじゃないの?」
「舞踏会で、踊る方の順番を間違えないようにお名前を書いておくためのものよ。殿方からすれば、ダンスの予約表のようなものね」
言われてよくよく見れば確かに、底辺の部分に付いている鍵型の飾りは小さなペンになっている。それを抜き取ると、蝶番が動いて銀の蓋が開いた。
「気が付かなかったわ」
中には千代の言う通り、小さな紙が入っていた。ここに、ダンスを申し込んできた紳士の名前を記すのだ。
そして、その紙の下部には既にこう書かれていた。
いつもの彼と同じ字で、はっきりと“K”と。
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