間章 毒を食らわば

二十九、お元気で、クソ野郎

 その日、亜矢は母から呼び出されて自宅へ戻ってきていた。彼女が寄宿する学園は謡川家から程近いが、改まって帰宅する機会はそれ程多くない。

 何の用かと思えば、母は血相を変えて桐箪笥きりだんすの中身をひっくり返していた。この間仕立てたばかりの訪問着やドレスを質に入れると言う。


「お母様、どうして!? ドレスがなくなったら、天長節舞踏会に出られないわ!」


 十一月の天長節舞踏会は、もう十日後に迫っている。


「うるさいわね、それどころじゃないのよ! このままじゃあんたが学園にいられなくなるどころか……屋敷を売らなきゃならなくなる!」

「はっ? ど、どうして?」


 金の算段に忙しい夫人はそれ以上答えなかった。

 先日、加納中将からの一本の電報で支援の取り止めを告げられて以来、彼女の心を占めるのはこれまでの贅沢のツケを如何に払うかだった。

 取り急ぎ真新しい贅沢品を返品なり処分して当座をしのぐ。その上でどうにかして加納中将に接触し、支援の再開を取り付けて――。


「ごきげんよう謡川夫人、ミス・謡川亜矢」


 突然、障子のさんをコンコン、と誰かが叩いた。夫人と亜矢が驚いて振り返ると、外廊下にひとりの男が立っている。


「何度呼んでも出迎えがないので、勝手に上がらせていただきました」

「みすた・いえーがー……!?」


 折り目正しい濃灰の背広スーツ。右手には銀の持ち手のステッキ。背は和室の鴨居より高く、肩口まで伸びた白金の髪を緩やかに束ねた異人の男。亜矢の学園でお雇い英語講師を務めるフリッツ・イェーガーその人である。


「先生が何故謡川うちに……?」

「いいえ。今日の私は君の知るフリッツ・イェーガーではない。私の名はフリードリヒ・フォン・カレンベルク。用件はつまらない商談ですよ」

「商談?」


 亜矢のおうむ返しの問いに、腕を組んだ男はにやりと笑った。


「ええ。商談――正確には債権回収借金取りだがね」



 洋間に案内されたフリッツは、顔の引きつった夫人に席をすすめられると悠々と客用の木椅子に腰掛け脚を組んだ。その向かいの長椅子に、亜矢と夫人が並んで座る。


「さて、ここに一枚の契約書がある。謡川夫人、貴女と加納宣彦中将――その代理人が交わした金銭支援にまつわるものです」


 出された茶を優雅に口へ運んだフリッツは、胸ポケットから一枚の紙を取り出した。三つ折りのそれをぺらりと広げて、向かいに座ったふたりへ見せる。

 細かい字で整然と要項が書き込まれた契約書。その最下段には、加納宣彦中将、その代理人、そして謡川夫人の三者の署名が為されていた。


「実はこの契約書を用意したのは私です。更に言うなら、これまでの支援金の出処でどころも私だ」


 亜矢が目を見開く。夫人は無言で膝に爪を立てていた。


「二年前、私が謡川家に金銭を援助するにあたって出した条件はふたつです。ひとつ、『揺川芳喜氏の遺品を適切に管理すること』。そしてもうひとつは『支援金は家計の健全な運営に資すること』」


 ピンピン、と人差し指で紙を弾く。そして冷たい冬空の瞳で目の前の夫人を見た。


「夫人。このどちらも、貴女は守っておられない。そして契約書にはこうも書いてある。『以上の約定に違反せし時は、速やかに支援の全額を返済する』と」

「……!?」


 言葉を失くして固まる亜矢とは裏腹に、夫人は慌てふためいて弁解を始めた。


「そっ、そんなことはありませんわ! 主人の遺品は全て、書斎にそのまま……」

「ほう。確かに、価値の知れない医学関係の資料は手つかずでほこりを被っているようだが――。では、謡川氏の遺品の時計は? 彼は懐中時計の収集が趣味で、いくつもコレクションしているとよく自慢していましたが」

「そんなものまで取っておけとは聞いてないわ!」


 つまりもう手元にはないと。鎌かけにあっさりと背信を白状した夫人に、フリッツは淡々と二の矢を放つ。


「ふむ。ではもうひとつの条件は? 『支援金は家計の健全な運営に資すること』。継子ままこ襤褸ぼろを着せ、ご自分と実子だけが着飾るのは健全な家計のあり方だと?」

「そんなことが支援の条件だなんて知らないわよ!」

「それはおかしい。きちんと契約の際に代理人が説明したはずだ。貴女はご納得の上で署名されたのでは?」

「最初から私を騙すつもりだったの!?」

「いいえ。全ては貴女の行いが招いたことだ」


 そもそもフリッツにとって、これまで謡川家に支援した金は頓着する程の額ではない。夫人らが真っ当な生活さえしていれば、この先も支援は続けていただろう。あえて返還を求めるのは、あくまで彼女の愚かな行いへのむくいである。


「卑怯者……っ!」

「結構。私は慈善家だが、事業家でもあるのでね。金は信用するが人は信用していない。よく読みもせずに契約書にサインをしてはいけませんよ、謡川夫人」


 ギリ、と奥歯を噛み締める夫人。フリッツは子供に言い聞かせるように、微笑みすらたたえて言葉を続ける。


「さてどうなさいますか? そちらのお嬢さんを下働きにでも出しますか? 私は女衒ぜげんではないが、働き口がほしいと言うのならご紹介しましょう」

「この金の亡者! 亜矢に売女ばいた下婢はしための真似をさせるわけがないでしょう!」


 さすがに実娘をおとしめされて黙っていられないのか、これまでの自分の行いを棚に上げて罵倒する。さんざん口悪くののしったところで、ハッとして手を叩いた。


「そっ、そうだわ月乃! うちにはもう一人女手がいますのよ! あの子を代わりに連れて行ってくだされば……!」


 その言葉がフリッツにとっての禁句であることを、彼女はわかっていなかった。目の前の男のまとう空気が急激に冷えてゆくことにすら気が付かない。

 もはやこの女とは議論にならない。フリッツは大きく嘆息した。


「残念だ。貴女が実の娘にかける愛情、そのほんの一部でも彼女に分け与えていれば、こんな真似をせずに済んだ」


 この話は終わりだ、そう宣言するようにフリッツは席を立つ。


「謡川夫人、年末まで待ちましょう。これまで貴女に援助した全額、きっちりとお返しいただく」

「そっ、そんな大金、この屋敷を売らなければ到底返せません! せ、せめて春までお待ちいただけませんか」

「まだお分かりでないのですか?」


 苛立いらだちに声量が大きくなる。右手のステッキでドンと木床を叩くと、夫人の肩がびくりと跳ねた。


「この家の戸主は本来、直系の長女である月乃だ。既に彼女が成人した今、この屋敷は彼女のものであって、貴女はその扱いに口を出す権利すらない」


「では」。軽く頭を下げて立ち去ろうとする。すると突然、これまで一言も言葉を発さなかった亜矢がゆらりと立ち上がった。


「あなたもあの女の味方なの……!?」


 身体の底から沸き上がるような怒りの声。フリッツをにらみつけるその顔ににじむのは憎悪だった。


「どいつもこいつも、お姉様のことばかり気にかけて! 虫唾が走る! あんな、自分は優しい、心のきれいな娘だと信じ込んでる偽善者を!」


 飲み残された茶が震える程の大声で亜矢は叫んだ。

「偽善者?」フリッツが振り返ると、「そうよ!」とまるで幼子のように地団駄を踏む。


「あの女、お母様とお父様の再婚が決まって初めて私に会った時にこう言ったのよ。『あなたに私の宝物をあげる。仲良くしてね』って。悩みなんて何もないみたいににこにこ笑って、たくさん持っている中から一等きれいな人形を私に差し出した!」


 それの何が悪いのか、フリッツにはわからなかった。むしろ他人に与えることを惜しまない、月乃らしいとさえ思った。


「あの女は私を見下してるのよ! お母様とかばんひとつで謡川家へやって来た私を、可哀想だから恵んであげるって馬鹿にしたのよ! だから決めたの。あの子の持ち物は全部奪ってやる。可哀想なのは私じゃない、あんたの方なんだって!」


 完全な逆恨みだ。この娘の考えは歪んでいる。だが彼女にとっては、それが真実なのだろう。


「それで、彼女から奪ったもので君は満たされたか? 幸せになれたのか?」

「…………」


 突き放すフリッツに、亜矢は答えられなかった。両の拳を握り締め、真っ赤な顔で口を引き結んでいる。


 亜矢と月乃、ふたりは似ても似つかない。だがそのどちらも、多感な時期に親を亡くした。元々たった独りで生きていたフリッツには、それがどれ程の喪失を意味するのかがわからない。

 だが――もしも謡川芳喜が生きていたら。あの優しすぎる男がここに居たなら。亜矢も月乃のように、他者の痛みのわかる娘になれたのだろうか?

 かえらない時を思って、フリッツはハァ、と息を吐いた。


「俺とて慈悲の心はある。――そうだな。これから言う条件を呑めるのなら、金は返さなくてもいい」

「! 何でもお聞きします! 何でもいたします!」


 すがりつく勢いで駆け寄る夫人に、フリッツは静かに吐き捨てた。


「今すぐこの屋敷を出ていけ。そして二度と月乃に関わらないと言うのなら、追い銭くらいはくれてやろう」


 冷たい声、冷たい瞳。夫人が思わず怯えて固まると、フリッツは不意に、悲しげに睫毛を伏せた。 


「謡川夫人。貴女を二度未亡人にしてしまったことは、申し訳ないと思っている。ミス・謡川亜矢。義理とはいえ、貴女から父親を奪ってしまったことも」


 今度こそ本当に話は終わりだ。過ぎたる同情や感傷も。

 フリッツは振り返ることなく屋敷を後にした。



 ◇



「〈馬鹿馬鹿しい……〉」


 謡川家からの帰り道、お抱えの俥夫のくるまに揺られるフリッツは苦々しげに舌打ちした。

 これまでの人生で、事業でも怪異退治においても、泣いてすがりつく人間を冷たくあしらったことなど吐いて捨てる程ある。そこには何の感慨もなかった。なのに何故今更、妙に感傷的になるのだろう。


 ――いや、本当はわかっている。


 原因は月乃だ。彼女のお人好しが移ったのだ。そう考えると、不思議と悪い気はしない。彼女を想えば、ささくれ立った心はほころぶ。我ながら随分と単純になったものだとフリッツは自嘲した。


「ミスタァ・イェーガー!」


 だがそんな気持ちの高揚を、見事にぶち壊す男が現れた。

 学園に着いて俥を降りるなり、小太りの男が走ってきた。二重ボタンの背広にカイゼルひげの学園長である。

 ああ、そう言えばを忘れていたな、とフリッツは嘆息した。彼は謡川家の件とは別に、もうひとつの布石を打っていた。


「たった今、今しがた……何人も宣教師がやって来てね! この私を解雇すると言うのだよ!」


 ぶるぶると悲嘆に腹の肉を震わせる。かと思うと、強気にフリッツをにらみつけた。


「ミスタァ・イェーガー、貴様あの連中に何か吹き込んだな!?」


 大声で突然胸倉を掴まれる。なけなしの度胸を振り絞って反逆するその姿を、狩られる直前のいのししのようだとフリッツは内心であざけった。


「私は告解しただけですよ」

「コッカイ!?」

「神に罪を自白することです」


 穏やかな表情で学園長を見下ろしたフリッツは、そのまま芝居がかった調子でいけしゃあしゃあと言い放つ。


「私はある方の不正を知ってしまった。その罪の意識に耐えきれず、神の前で全てを告白したのです。『とある学園に、支援金を横領して私服を肥やしている教育者がいる。私はそれを知りながら、見ていることしかできない』と。幸い、私の住む外国人居留地には教会が星の数程あるのでね……」

「き、貴様……」


 フリッツの上着を掴む手が震え出した。


「貴様、わかっていてやったのだろう!? その教会こそが、だと!」


 薔薇学園は元々、帝都での布教を目的とした某教派により設立されたものである。学園長の叫びに、フリッツの口の端が不遜に吊り上がった。


「さあ。祈る神の区別をしたことはないので、よくわかりません」

「貴様ぁああ!!」


 逆上した学園長が拳を振り上げる。しかしフリッツが手首を掴むと、まるで石にされたようにぴたりと動けなくなってしまう。


「往生際が悪い。さっさと失せろ」

「な……!?」

「大人しく消えれば、お前の使い込んだ端金はくれてやると言っているのだが?」

「!」


 急に凄まれて、学園長は本能的な恐怖に竦んだ。少し勢いをつけて手を離してやると、反動でどしんと情けない尻餅をつく。フリッツはその姿を見下ろして、この男が同情の余地のない悪人であることに感謝すらした。


「ごきげんよう。お元気で、Archlochクソ野郎


 とびきり爽やかな笑顔で、しかし瞳は見た者を凍らせる絶対零度の光をたたえていた。

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