二十八、ようやく見つけた

 一方その頃。

 月乃は宿の一室でひとり、溜め息をついていた。


「まさか、加納中将がミスタァKではないだなんて……」


 出会って早々、自分は支援者ではないと打ち明けてきた加納宣彦中将。月乃が驚きに固まると、「少し向こうで話そうじゃないか」と、彼が出てきたばかりの西洋茶室ティールームに案内された。


「すまん。わしは君の本当の支援者に頼まれて、諸々の手続きを代行していたに過ぎないんだ」


 月乃と向かい合い、奥方を隣に座らせた中将は、珈琲カヒーを注文するなり再び頭を下げた。例の電報はあくまで金の流れを把握するための布石で、ミスタァKは月乃への支援そのものを止めるつもりはないことも付け加える。


「何故、支援の代理を……?」


 中将は目を泳がせる。どこまで明かしていいのか考えあぐねているようだった。


「実は、君の支援者は異国の方でな。それ故細かい事務をこちらで請け負っていたのだ。いやぁ実は……たまたま彼も今、匣根ここに来ておるんだが……」

「!」

「うーん何せその……非常に気むずか、あ、いや奥ゆかしい方なのでな……」


 言葉を詰まらせる中将に、隣に座った奥方が助け舟を出す。


「あなた。舞踏会でなら、お会いできるんではないかしら」

「おお、そうか。天長節舞踏会! 天長節舞踏会でなら、彼に会えるぞ! いや、それまでには説得しておこう。君も御納戸小町なら参加するだろう?」


 不参加の予定だ、とは言えなかった。中将はその提案に気乗りしたらしく、「うんうんそれがいい。舞踏会で顔を合わせる男女! うん、いいじゃないか」と顎髭あごひげを撫でながらしきりに頷いている。加納夫人はそんな夫をちらりと見って、今度は直接月乃に尋ねた。


「ところで、今晩のお宿はどちらに?」

「あっ、まだ……、決めていません」


 ここより更に山あいに、真上家の別荘がある。だがさすがに暁臣と同宿するわけにもいかず、かと言って一方だけが宿を取るとなるとお互いに譲り合ってしまって。それ故、まだはっきりと宿を定めていなかったのだが。


「それなら貴方、一部屋融通してさしあげては? わざわざ匣根までご足労いただいたお詫びに」

「おお、それはいいな。せっかくだから夕飯を一緒にどうかな? わしも本物の支援者ではないとはいえ、一枚噛んでたわけだしな。是非、君の学園生活を聞かせてくれたまえ」


 こうして、あれよあれよと言う間に月乃は匣根の高級旅館に一泊することになってしまった。戻ってきた暁臣に事情を話すと「陸軍中将のご提案をおいそれと反故ほごにはできないでしょうから」と笑っていた。


「その代わり、と言っては何ですが。お嬢様、今夜は決して外に出ないでください。色々とが辺りをうろついているようなので」


 月乃はそれを浮浪者や物盗りのことだと思って頷いた。

 こうして、この宿で中将夫妻と夕食を共にして、温泉にまで浸かってしまい、自身にあてがわれた客室に引き上げたところで現在に至る。


 夕食の席で、これまでの学園生活について話すと加納夫妻はとても喜んで聞いてくれた。一方、中将は始め口が重かったのだが、だんだんと酒が入るうちにたがが緩んだらしい。食事が進み打ち解けるにつれ、かなり核心に迫る内容を月乃に漏らした。その情報を繋ぎ合わせるとこうだ。


 ミスタァKは異国の人物である。陸軍では以前から彼を招聘しょうへいしようと接触していたのだが、非常に気難しい人物で、なおかつ本人が途方もない資産家であるため金にはなびかない。そんな折、彼の方から月乃の話を持ち出してきた。ひとりの少女とその家族への支援を仲立ちしてくれるのなら、いずれは日本行きをんでもいいと。こうして、彼に恩を売りたい加納中将とミスタァKの思惑は一致したらしい。


 これらの事実は、月乃に冷水のような衝撃を浴びせた。何故なら、加納中将から聞いた人物像に合致する男を月乃はひとり知っている。いやむしろ、彼の他に誰がいるというのだ。

 だがその名を直接加納中将に尋ねるのははばかられた。もしもそうだと肯定されたら。もしも違うと否定されたら。自分はその時どんな顔をすればいいのだろう。真実に踏み込む勇気が出なかった。


(まさか、もしかして、本当に彼が――)


 頭では既に確信している。けれど気持ちが追いつかない。何故、どうして――。

 様々な疑問が頭を駆け巡ってふたたび溜め息をついた時。コツコツ、と小石が窓を打つような音がした。


 辺りはすっかり夜になっている。何の音かと疑問に思って引き違いの窓を開けると、その瞬間、白い何かが部屋に転がり込んだ。


「フロッケ!」


 それはふくろうのフロッケ。弾丸のように飛び込んできて、バタバタと和室の天井の下を飛び回る。そして月乃の前に一枚の紙きれを落とした。


「あなたがどうして匣根ここに……あっ、ねえ! ちょっと落ち着いて!」


 室内を一周してようやく窓辺に留まったので、彼女が落とした足元の紙を拾う。

 

「……これって……!」


 それ見た瞬間、月乃は左足を引きずりながら部屋を飛び出した。湯上がりの浴衣に、備え付けの綿入り一枚だけを羽織って。

 フロッケがもたらした紙。月乃はそれを知っていた。かつて自分が描き、父親に贈った絵本の表紙――“さみしそうなおつきさま”。

 だが革紐で束ねられていたはずのそれは裂いたように破り取られて、今しがた付いたばかりと思われる真っ赤な血に濡れていた。


 どちらへ、という玄関番ドアマンの問いかけを無視して外に出る。フロッケに導かれて、温泉街を川沿いに上る。

 ぎこちない足取りで走って、走って、やがて石畳の道が途切れ、手つかずの山へ分け入る少し手前。開けた草原に、一本の杉の木が立っていた。そしてその下でひとり、静かに紫煙をくゆらせるのは――フリッツ・イェーガー。


「フリッツさん!」

「月乃……!?」


 フリッツは杉の木に背中を預け、力なく地面に座り込んでいた。月乃の顔を見て少し驚いた顔をしていたが、羽ばたいたフロッケが杉の木の枝に降り立ったのを見上げて、彼女の仕業だと察したようだった。


「どうなさったんです!? 酷いお怪我を!」


 彼の周囲に、懐かしい絵本の残骸がバラバラと散らばっていた。その上に血が点々と落ちて、杉の木の下まで続いている。インバネスと上着は何かで引き裂かれており、左脇腹を押さえる彼の手の下ではシャツが真っ赤に染まっていた。

 動揺する月乃をよそに、フリッツは平然と煙草を一口吸って、フーと吐き出した。


「少ししくじった」

「これが少しなわけがないでしょう!」


 今こうやって会話していることが不思議なくらいの大怪我である。月乃は慌てて彼の手から煙草を取り上げた。そのまま投げ出された脚の間で膝立ちになると、彼の上着の胸ポケットから手巾チーフを抜き取る。それで血を押さえようとしたのだ。

 だが、フリッツの手の下にある傷は既に出血が止まっていた。恐る恐る確認すると、腹の傷はあることにはある。だがそれは、月乃の予想よりかなり小さい。上着の裂傷、周囲に流れたおびただしい血の量とは明らかに不釣り合いだった。


「放っておけばいい。ある程度の傷は勝手に塞がる」

「そんなことできるわけないでしょう!」

「俺は半鬼人ダムピールだ。普通の人間とは違う」


 つまり、この驚異の再生力はフリッツの体に流れる吸血鬼ヴァムパイヤーの血ゆえだと。突然の告白に月乃が目を見開くと、彼は苦々しい表情で遠くを見た。


「これまでもそうやって生きてきた。寝たら治る」

「でも!」


 被せるように、月乃が声を荒らげた。


「それじゃあ、あなたの心は。傷付いたあなたの気持ちは、誰が治してくれるんですか?」


 続く声は今にも泣き出しそうにかすれていた。


「あなたが傷付いた時、たったひとりでそれに耐えなきゃいけないなんて、そんなのいやです。半鬼人ダムピールかそうじゃないか、そんなことは関係ないんです。私はあなたを……放っては、おけません」


(他の誰でもない、あなたが大切なんです)


 込められた想いが伝わることを願って、月乃は目の前の冷たい頬に触れる。するとフリッツは顔を逸したまま、ぼそりと吐き捨てた。


「親子揃って、信じられない程のお人好しだ」


 それは一見、拒絶の台詞。けれどその中に、隠しきれない憧憬が滲んでいて。「だが」と本音が零れ落ちる。


「何故か、今はそれが喜ばしい」


 不意に表情を緩めて、フリッツは自分の頬を包む月乃の手を取った。そのまま指先に、そっと口付けを落とす。


「君に話さなければならないことが、たくさんある」

「はい。私も、フリッツさんに伝えたいことがたくさんあります」


 月乃の父のこと。彼自身のこと。聞きたいことは山程あった。けれど何となくわかる。フリッツは父に信頼されていた。父が大切にしていた絵本を、今はこうして彼が持っている。それが何よりの証拠に思えた。


「でも、今は治療が先です」

「それなら……少し、血をくれないか」

「えっ?」

「君の血がほしい」


 月乃は驚きの表情でフリッツを見る。じっとこちらを捉える灰の瞳は、凍れる炎を宿して揺らめいていた。


「血を通じて生命力を得れば、立ち上がることくらいはできる」


 生き血をすすって力を得る。それは彼が敵とする吸血鬼ヴァムパイヤーの生き様。だが目の前の少女は、それすら肯定するはずだから。

 少しの沈黙の後、月乃は無言で綿入れを脱いだ。山の夜風で冷えた身体から、湯上がりの石鹸サボンの香りが立ち上る。彼女は胸元で両手を組むと、フリッツの顔の前に自らの首筋を晒した。


「私の血で、お役に立つなら……」


 好きにして構わないという宣言。喉首に鋭い牙を突き立てられるのを覚悟して、ぎゅっと目を瞑る。するとフッとフリッツが小さく笑うのが聞こえた。「従順すぎるのも考えものだ」と。


 彼の右手が白い首筋に触れた。そのまま確かめるように撫で上げたかと思うと、頬に添えられる。親指が二度、唇の端をなぞった。今からここを穿うがつと、合図するように。


「月乃……俺のSelene」


 熱をはらんだささやきが吐息になって月乃の顔にかかった。


「愛してるんだ。ずっと前から」


 鼻先がむつむ。唇が触れる。ほんの一瞬、かすめるだけのキス。すぐに離れて、そして二度目は角度を変えて。

 フリッツの舌が唇をこじ開ける。歯列をなぞられて月乃が吐息を漏らすと、その刹那、彼は震える下唇をかぷりとんだ。そのまま半鬼人ダムピールの犬歯が、やわい皮膚に突き立てられる。


「っ……!」


 薄い唇はぷつ、と食い破られて、すぐに口の端から血の味が広がった。甘美な痛みに身をよじるももう遅い。頭をしっかりと固定されて、黒髪の間に男の指が絡まる。口蓋をぞろりとねぶられれば脳が粟立つ。息継ぎのように唇が離れれば、すぐにまた引き寄せられて。フリッツは丹念に、執拗しつように、唾液混じりの血を啜る。それは口付けよりも甘い蹂躙じゅうりん


 囚われてしまった。

 もう戻れない。


 ぼんやりとそう思って、月乃はぽろりとひとつ、破瓜はかのごとき涙を零した。


 互いの熱が絡まり合い、夜の闇に白い吐息が溶ける。やがてふたつの唇は、名残惜しそうに離れた。

 まだ思考が追い付かないのか、瞳を潤ませてぼうっとこちらを見つめる月乃。その口の端から流れる血を、フリッツはそっと親指で拭った。


「月乃。君がくれた想いの分だけ、君に返そう。帝都へ帰ったら、これまでのことを全て教える。その上で君に――俺を、選んでほしい」


“僕の研究の全ては、愛する者の元に残してきた”

“貴方がお嬢様の全てを愛するなら。――貴方の求めるものは、自ずと手に入るはずだ”


 謡川芳喜。真上暁臣。彼らの告げた言葉の真実が、強烈な実感となってフリッツに降り注ぐ。


「今理解した。ようやく見つけた。君の血は、あまりにも甘美だ。月乃、俺の探していたものは――――。だ」



〈第四章へつづく〉



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