二十七、甘っちょろい理想

 甘い感傷の時は、日暮れと共に終わりを告げる。太陽は西へかえり、匣根はこねの山に夜の暗幕が落ちた。

 今宵は満月、人ならざる怪異が狂気に溺れる日。人狼ヴァラヴォルフはその身を獣に変え、吸血鬼ヴァムパイヤーは獲物を求めて動き出す。


 黒の中折れ帽にインバネスコートをまとったフリッツは、注意深く夜の気配に耳をすませていた。既に匣根に着いた日から入念に、吸血鬼ヴァムパイヤーをこの地に縫い付けるための策を施している。


 加納中将によると、匣根に現れた吸血鬼ヴァムパイヤーはこの一週間で既にふたりの人間の生き血をすすった。フリッツもひとりの被害者を検分したが、その様相は学園の事件とは明らかに異なり、一目で間違いなく純種の吸血鬼ヴァムパイヤーの仕業と断定できた。


 吸血鬼ヴァムパイヤーは自身が長大な寿命を持つからか、吸血により仲間を増やす習性故か、種の保存への関心が薄い。たわむれで人間の女をはらませることがあるが、半鬼人ダムピールと呼ばれる混血は、吸血鬼ヴァムパイヤーの如き強靭きょうじんな肉体を持ちつつも、寿命は人とそれ程変わらない。故に両親のどちらとも相容れない、日陰の存在である。

 これらの事情から、吸血鬼ヴァムパイヤーは次第にその数を減らしていた。遥か昔は支配者階級として君臨し、公然と生贄いけにえを要求した吸血鬼ヴァムパイヤーも存在したが、現代では大抵、人に紛れて細々と生きている。


 しかし、だからと言って彼らから吸血の本能が失われるわけではない。吸血鬼ヴァムパイヤー吸血鬼ヴァムパイヤーである限り、人の敵であることに変わりはないのだ。


「――満月の夜は、嫌でも思い出す」


 紙巻煙草シガレットを踏み消して見上げた青白い月は、伯林ベルリンの空と同じように煌々こうこうと輝いていた。



 ◇



 獨帝国で伯爵位を預かるフリッツが、月乃の父・謡川芳喜(うたがわ・よしき)と出会ったのは三年前。まだ伯林ベルリンに雪が残る頃のことだった。


 フリッツは自領とは別に、首都に邸宅といくつかのタウンハウスを所有している。その一室に住み込んだのが謡川氏だった。


「やあやあはじめまして伯爵! 僕は謡川うたがわ芳喜よしき、見ての通り医者です」


 彼は祖国から金銭支援を受けて渡航してきた国費留学生だった。

 人懐っこい笑みの小柄な男。カタコトの英語交じりの獨語を操り、童顔に無理矢理生やした口髭が全く似合っていない。見ての通りと言われても、彼の医者らしきところと言ったらせいぜい年季の入った黒い革鞄くらいだった。随分若そうだなと思ったのだが、聞けばフリッツよりかなり年上で、祖国に妻子がいるのだという。東洋人は皆若く見えるが、彼はその中でも殊更ことさらだった。


 伯林ベルリンに滞在する謡川氏は医大の聴講生として過ごすかたわら、持ち前の社交力でとある医学界の権威の研究室にまで出入りするようになる。更に、何の因果かフリッツが悪魔殺しデモントーターの“狩人イェーガー”だと知ると、怪異――特に吸血鬼ヴァムパイヤー獣人ティアスロープについて執拗しつように尋ねてくるようになった。何でも、彼の専門研究分野は怪異絡みなのだという。


「伯爵、吸血鬼ヴァムパイヤー狩りの時は教えてくださいね? 彼らの血のサンプルがどうしてもほしい」

「素人を連れて行けるか」

「僕はこう見えてサムライの家系の生まれですよ! どうです、なかなか強そうでしょう?」


 そう言って構えてみせた彼のへっぴり腰にフリッツは嘆息した。

 どれだけ冷たくあしらっても、謡川氏は全くめげなかった。あまりのしつこさに根負けして、フリッツは付きまとわれる代わりに自分の住まう邸宅の書庫を彼に開放した。そこには一般には流通しない、怪異に関する貴重な書物がいくつもある。ところが初め喜んで日参していた謡川氏は、今度は帰るのが面倒だと言っていつの間にか邸宅の客室のひとつに居着いてしまった。


「資料を閲覧するのは認めたが、誰が住み着いていいと言った?」

「いやあ、いちいちタウンハウスに戻るのが億劫おっくうで……。この屋敷のベッドと食事があまりに素晴らしくてね!」


 彼はいつの間にかメイドやコックとまで親しくなって、当たり前のように寝食の提供を受けていた。


「お前の図太さと研究熱心さは尊敬に値するよ。だがこの屋敷は――」

「まあそう固いことを言わずに。ではお近付きの印に、特別に僕の宝物をお見せしましょう!」


 いや頼んでない、というフリッツの声は全く無視されて、彼が三つ揃えの上着の隠しから取り出したのは一冊の紙束だった。


「なんとこれは僕の娘が描いたんだ! 素晴らしいでしょう? 彼女はデューラーもびっくりの天才だよ!」

「ふぅん」


 それは手のひら程の大きさの、手作りの絵本だった。厚口の四六版を折って束ねた表紙には、青白い月の絵が描かれていた。題名は“さみしそうなおつきさま”。添えられた署名は、TSUKINO.U。


 話はこうだ。ひとりぼっちで空に浮かぶ月が、ある時孤独の涙を流した。するとその涙が星になって、夜空に美しい物語を描き出す。小舟のように細く白かった月は輝き出した星達に囲まれて、徐々に幸福で満たされて黄色い満月になる――。


 月を孤高の存在と見做みなすのは古今東西お決まりの着想モチーフだ。決して珍しいものではない。子供の描いたものとしては良い出来だが、発想自体は陳腐とも言える。


 だが何故だろう。

 この絵本を読んだ時、フリッツはぎゅっと心臓を鷲掴わしづかみにされた気がした。心の奥を甘いとげさいなまれるような痛みを覚えた。

 驚いて二度、三度と読み返す。

 わからない。動悸の理由が。けれどこの時完全に、フリッツは少女の絵本のとりこになった。

 しばらく夢にすら見た。真っ暗闇に黄色い満月が浮かんでいる、自分はそれを掴もうとするが届かない――。正体不明の執着は熱病にも似ていた。最終的には謡川氏にその絵本を「言い値で譲ってほしい」とまで申し出ていた。


「う〜ん、これは僕が月乃からもらったものだからねえ。貴方が日本に来て、月乃に直接了解を得るならいいけれど……」


 さすがの謡川氏も、愛娘からの贈り物を金で手放すようなことはしなかった。だが手に入らないと思うと、ますます焦がれてしまう。


「伯爵はこの本の何がそんなに気に入ったんだい?」

「……わからない」


 困惑して頭を振るフリッツに、謡川氏は「僕はわかる気がするよ」と微笑んだ。


「この絵本の……いや、月乃の素晴らしいところはね、孤独の月を崇めるのでもなく、憐れむのでもない。ただ側に寄り添って、時に一緒に涙を流す。その眼差しこそが、尊いと思うのさ」


 なるほどそうかもしれないと思った。自分は月を包み込む、少女の無垢な優しさに惹かれたのかもしれないと。


「さしずめ月の守護者……“Selene”か」

「伯爵! 貴方は実にロマンチストだね。そう、なんてったって“月乃”だからね」

「君に似て、悩みなんてこれっぽっちもないような幸福な娘なんだろう」

「外からはそう見えるかもしれないね」


 自身が余程幸福でなければ、他人に心砕けるはずがない。フリッツの決め付けを、謡川氏はやんわりと否定した。


「月乃は他人の痛みも喜びも、自分のことのように感じることができる。とても感受性が強い子だよ。でもだからこそ、簡単に人前で涙を見せない。自分が泣くと、悲しむ人がいることを知っているからね。月乃は妻を――母親を亡くした時だって、僕の前では泣かなかった」


 夜空の月にさえ慈悲の手を差し伸べる娘が、自分のためには泣けない。長らく孤独に生きてきたフリッツにとって、にわかには理解できない感覚だった。

 知らぬ間に眉間にしわを寄せる彼に、謡川氏はおどけてみせる。


「ああでも、忠臣蔵で吉良きら上野介こうずけのすけが斬られた時はワァワァ泣いていたっけなァ。――あ、吉良って奴は赤穂浪士あこうろうしに成敗される悪党なんだけどね。立場が違うだけで誰も間違ってないのに、どうして争わないといけないんだろうって」


 そう言って、胸元から例の絵本を取り出すとぎゅっと握った。

 

「僕は月乃にいつまでも優しい心を忘れないでいてほしい。だから医者として、全ての人を助けたいのさ。その正体がどんなに恐ろしい怪異でも、その人が生きたいと望む限りは。……月乃が悲しまないようにね」


 それが、わざわざ異国に留学して貪欲に学ぶ彼の動機だった。


「甘っちょろい思考だ」

「ああ。だけど理想としては悪くないだろう?」


 その時は、絵空事だと思った。だが、謡川氏は決して口ばかりの夢想家ではなかった。彼は伯林ベルリン滞在中、実際に吸血鬼ヴァムパイヤーに襲われた何人かの人間を救ったのだ。

 吸血鬼ヴァムパイヤーに噛まれた者の多くは命を落とし、生き延びた者は吸血鬼ヴァムパイヤー眷属けんぞくとなって血を求めるようになる。だが彼は、何らかの方法で

「まだ研究中だから」と仔細は明らかにしなかったが、彼は怪異の野生を抑え、理性を呼び起こす薬を開発しているのだという。日本で人狼ヴァラヴォルフの血を引く少年を治験者として、ある程度成功しているとも。

 謡川芳喜という男は、確固たる信念の下に前進する尊敬すべき研究者だった。彼には揺るぎない理想と、それを成すだけの力があった。

 だが――――。



 ◇



「銀の杭と聖水で一帯を覆う結界を描いたやからは貴様か?」


 フリッツの思考を現在いまに引き戻したのは、地の底を這うような低音だった。

 灯りの消えた温泉街の奥地。開けた草原の暗闇の向こうに、誰かがいる。頭まで覆う漆黒の外套から覗くのは鷲鼻に赤毛、背はひょろりと高い異人の男だった。


「ああ。それが仕事なんでな」

悪魔殺しデモントーターか……!」


 男の上空で、飛んできたフロッケがばさばさと旋回する。フリッツの目も、彼こそが目的の吸血鬼ヴァムパイヤーであると見抜いていた。


「チッ、この国に狩人ハンターがいるとは……。オレの平穏を邪魔しにきたのか!?」

「平穏に暮らしたいのなら、週に二件はだ。欲にかまけるばかりではなく、少しは日光を浴びて運動でもした方がいい」

「貴様ぁっ!」


 吸血鬼ヴァムパイヤーは太陽の光を嫌う。フリッツの皮肉に、赤毛の男は逆上して襲いかかった。どうやら武器は携帯していないらしい。素手で肉を引き裂こうとするのをなんなくかわして、フリッツは無言で仕込み杖の細剣を引き抜いた。


 血を吸わねば死ぬ。血を吸われれば死ぬ。人には人の、吸血鬼ヴァムパイヤーには吸血鬼ヴァムパイヤーの事情がある。決して交わらない平行線――。故に、人と怪異が和解することは不可能だ。


 その証拠に。

 謡川芳喜は、吸血鬼ヴァムパイヤーに殺された。


 吸血鬼ヴァムパイヤーの魔手から人を救いたい。ひいては吸血鬼ヴァムパイヤー自体を守りたい。そう願った心優しい医師は、食糧として血を吸われるのではなく、吸血鬼ヴァムパイヤーの営みを妨害する愚か者として、むごたらしく殺された。

 彼が伯林ベルリンへやって来てちょうど一年。冬の終わり頃のことだった。


“伯爵……。僕には娘がいる。後妻と、その子供も。”


 異国の冷たい満月の下で、謡川氏はフリッツに死後を託した。あの絵本と共に。


“僕の研究の全ては、愛する者の元に残してきた。だから貴方に託すよ。僕の甘っちょろい理想と、月乃を、守ってほしい……。”


 不可能だ。彼の思想とフリッツの生き方は相容れない。そう思ったけれど、彼の目指した理想は伯林ベルリンの寒空に捨て置くには、あまりにもまぶしくて――。



「死ね! 死ね! 死ね!」


 怒りのままこちらへ向かってくる吸血鬼ヴァムパイヤーは、全身が隙だらけ。フリッツとはくぐってきた修羅場の数が違うのが明白だった。

 いなして、蹴りつけて、距離を取る。後はがら空きの胴に銀の刃を突き立てるだけで終わる。そうすれば吸血鬼ヴァムパイヤーは灰になり、その死後には肉体すらも残らない。


“医者として、全ての人を助けたいのさ。その正体がどんなに恐ろしい怪異でも、その人が生きたいと望む限りは“。

“異国の地でひとりぼっちなんて、なんだか可哀想ですね”。


 それはほんの一瞬の気の迷い。

 かつての謡川氏の、いつかの月乃の言葉が彼の思考をかすめて、刃を突き出すのが少しだけ遅れた。結果、吸血鬼ヴァムパイヤーの手刀はフリッツをえぐる。


「っく……」


 上着ごと上半身を引き裂かれて、だがフリッツは倒れはしなかった。そのままわずかに遅れて突き出された銀の刃が、吸血鬼ヴァムパイヤーの左胸を穿うがつ。


「あッ……ガ、貴様、何故――」


“――何故倒れない”。

 吸血鬼ヴァムパイヤーの口から驚愕のうめきが漏れた。己の右手は確実に悪魔殺しデモントーターを捕らえた。普通の人間ならば立っていられない致命傷だ。しかし今目の前で不敵に笑う男、彼が流す血から零れる匂いは間違いなく人ならざる者の――。


「貴様――半鬼人ダムピールか……!」

Richtigご名答


 武器の差が、経験の差が明暗を別けた。何重にも特殊な呪が施された刃に貫かれて、吸血鬼ヴァムパイヤーの身体はぼろぼろと木炭のように崩れ始めた。そしてそのまま、全身が灰となって消えてしまう。


Verdammtクッソ……」


 敵の完全な消滅を見届けて、フリッツはその場に膝を折った。上着から血塗れの絵本が滑り落ちて、バラバラと辺りに散らばった。

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