二十六、俺の女神

 フリッツは目の前に積み上がった白い封筒をしばらくぼんやりと見ていた。月乃がミスタァKへつづった手紙は、この二年強で三十通近くになる。


 この国へやって来る前から、加納中将を通じて月乃に援助をしていたのは紛れもなく彼自身だ。だがフリッツは心のどこかで、彼女が思い慕うミスタァKと自分を別もののように捉えていた。


「俺は彼女に何をしてやった? ただ人づてに金を渡していただけだ」


 優しい言葉をかけるでもなかった。月乃の苦境を知ろうともしなかった。そもそも偶然の出会いがなければ直接会うこともなかったろう。そんな自分が彼女の心の支えになっていたとは、どうしても思えなかったのだ。

 自分へ宛てられた手紙のはずなのに、その中身を読むのは他人のプライベェトを覗き見るかのような後ろめたさがある。


“貴方はそれを知るべきだ”。


 暁臣の言葉に背中を押されて、ようやく白い山の中から無作為に一通を取った。腰のベルトの背面から薄刃のナイフを取り出して、封を開ける。


“拝啓、ミスタァK

 余寒の候、朝の空気は冴え冴えと澄んで、心まで洗はれるやうです。ミスタァKに置かれましては、つゝがなくお過ごしでせうか――”


 冬頃書かれたものだろうか。

 時候の挨拶で始まる書き出し。一字一字丁寧に書かれたとわかる整った文字。義母や義妹に虐められ、困窮していることなど微塵も感じさせない内容だった。けれど決して去勢を張ろうだとか、優秀な学生に見せようといった虚飾や欺瞞ぎまんは感じられない。


“昨夜、帝都に雪が降りました。学園の庭一面に真綿まわたのやうな雪がうつすらと積もつて、白い景色の中に、黄色の水仙が一輪、スツと佇んでゐます。彼女には遥か遠く、春の気配が見えるのでせうか”


 むしろ手紙の大部分を占めているのはささいな日常の一場面。学園の周囲の森で見かけた鳥や草花。授業でのちょっとした失敗。新しく学んだ知識――。それは普通の人間であれば見逃してしまいそうな程の小さな発見と、ささやかな喜び達。

 いつの間にかフリッツはその言の葉にせられて、二通、三通と読み進めていた。


“拝啓、ミスタァK

 葉桜の緑が日ごと鮮やかになつて、その根元でつゝじのつぼみ達が今か今かと開花の期待に身を揺らして居ます。ミスタァKに置かれましては――”


“今朝、起き抜けに学園の森から郭公かっこうの声が聞かれました。何かとても好い事が在りさうな、ワクワクした心持ちが致します。郭公は学名をクヽルスカノルスと言ふのださうです。クヽルスと鳴くからださうです。可愛らしいと思はれませんか”


“炎天の赤土のうゑを、ありが行列を作て、大きな荷物を一生懸命運んでゐるのです。ジリジリとけるやうな熱さでも、文句も言はないのです。思はず傘をかしげて日陰を設けたは、余計なお世話だつたでせうか”


“生垣の薔薇は真ツ赤にほころんで、まるで夕焼けを緑の額に収めたかのやうです。貴方にもお見せしたい――”


 そしてその手紙の全てには、四季折々の景色を切り取った美しい水彩画が同封されていた。

 梅雨の季節には雨露をいただ花菖蒲はなしょうぶ。夏には青空に両手を広げる向日葵ひまわりの群れ。今にも匂い立ちそうな赤い薔薇の絵には、本物の薔薇の花弁が添えられて。春には桜かと思いきや、軒下で微睡まどろむ猫が。時には蝶が羽化する瞬間を。「私の親友」と題された、柔らかな笑みを浮かべる千代の絵姿もあった。


 この手紙には手触りがある。温もりがある。そして何より、他者に向けられる優しい眼差しがあった。

 読めば読む程、謡川月乃という少女の輪郭が鮮明になる。目の前に現れた彼女が、そっと心の小箱を差し出して、自分にだけその中身を打ち明けてくれたかのような錯覚を抱く。もっと知りたい、永遠に見ていたい。その心に詰まった、美しい宝石を――。


「〈参ったな……〉」


 フリッツはずるりと背もたれに体重を預けると手で口元を覆った。中折れ帽の合間から覗く横顔は耳まで赤い。白い便せんを傾きかけた陽に透かせば、彼女からのメッセェジが逆光の幻の中に浮かび上がる。


 ミスタァK、あなたのことばかり考えています。

 ミスタァK、お慕いしています。

 ミスタァK、あなたに会いたい――。


 実際のところ、文中でミスタァKに直接呼びかける言葉はせいぜい体調を気遣う言葉くらい。


 ああ、でも。

 紡がれた言葉のひとつひとつが。行間から零れる熱が。水絵の具で描かれた鮮やかな世界が。全てが熱烈に語りかけるのだ。“あなたを愛しています”、と。

 それは敬愛か、親愛か、はたまた友愛か。受け取る者によって答えは変わるだろう。だが間違いなく、その手紙は愛があふれていた。

 こんな手紙を読まされて、しかもその想いの全てがたったひとり、自分へ向けられていると知ったなら。


 一体誰が、この少女を愛さずにいられるだろうか。


「ああ、月乃……。俺は――」


 心の奥底から湧き上がる熱情を持て余して、ついにフリッツは卓子テーブルの手紙の束に突っ伏してしまった。その横に白いふくろうが降り立って、つんつんと主人の上着の袖を引っ張る。


「わかってる……わかっているさ。とっくの昔に、俺の心は囚われていた」


 苦しくてたまらない左胸を、上着の上からぎゅうと掴む。すると内側のポケットの中、肌身離さず持ち歩いている小さな絵本の紙束が、まるで生き物のように熱を持って脈打った。


“さみしそうなおつきさま”。


 一度目は三年前、この絵本に出会った時に。

 二度目はこの一ヶ月、くるくる変わる彼女の表情を間近で見ているうちに。

 そして三度目は、たった今。


 孤高の悪魔殺しデモントーターフリッツ・イェーガー。

 巨万の富を持つ伯爵フリードリヒ・フォン・カレンベルク。


「Sie ist meine Selene.〈彼女は俺の女神だよ〉」


 彼は三度、ひとりの少女に恋をする。

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