二十五、謡川氏の遺産
帝国陸軍で対怪異特別隊に所属する兄と、紡績事業者として西欧との取引きを目論む父。暁臣はそのいずれもから、奇妙な獨国人の話を聞かされていた。
決して金にはなびかない、孤高の悪魔殺し。滅多に社交の場に現れない、謎めいた富豪。この二者が同一人物だと悟るのは、それ程難しいことではない。
「貴方は二つの顔を持っている。怪異退治の専門家である“イェーガー”、そして莫大な富を持つ資産家であり、自ら手広く事業も手がけるカレンベルク家の若き当主」
「今は英語教師もしている」
「ふざけないでください!」
暁臣の生み出すひりついた空気が、かえってフリッツに冷静さを取り戻させていた。彼は間に置かれている木製の丸
「――いかにも。俺の名はフリードリヒ・フォン・カレンベルク。だが“
先程まで珍しく戸惑っていると思いきや、自分のこととなると途端に余裕じみた態度。
――否、逆なのだ。月乃だけが彼から冷静さを奪うことができる。その事実が、暁臣の心をざわつかせる。
「自身がミスタァKであることはお認めにならないんですか」
「いや、認めるよ。――月乃に金を支援していたのは俺だ」
思いの外あっさりと。フリッツは暁臣の推理を肯定してみせた。望んだ答えは得られたはずなのに、その真意ははぐらかされたようで暁臣は歯噛みする。
「どうして突然支援を打ち切ったのですか!」
フリッツは月乃の嘆きを知らない。暁臣の腕の中で、今にも崩れ落ちそうになった月乃の姿を。
「月乃への支援をやめるつもりはない。俺は電報にこう書いたはずだ。“学園を通じた全ての支援は停止す”と」
「……! 何故、そんな紛らわしい真似を……!」
「これまで月乃に渡るはずだった金がどこへ流れているのか。それを知るのに手っ取り早いと思ったまでだ」
悪びれもせずに言い放つ。
確かに彼の一本の電報は、これまで隠されていた大人の悪意を易々と暴いてみせた。月乃を追い込んだのはあくまで学園長や義母で、フリッツのせいではない。暁臣も頭ではわかってはいるのだが、それでも理不尽な怒りは簡単に収まりそうにない。
「安心したまえ。金はこれまで通り払う。謡川家への支援は止めるつもりだが」
「そもそも何故、お嬢様や謡川家に金銭援助をなさろうと?」
「――“
贖罪。罪をあがなうこと。つまりは罪滅ぼし。
暁臣がその理由を問う前に、フリッツは新しい煙草に火をつけた。新鮮な煙をゆっくりと吸い込んで、彼方へ吐き出す。その動作のひとつで、容易く暁臣の気勢を
「俺の素性を明かしたのだから君にも答えてもらおう、
「……俺に、答えられることであれば」
「俺が知りたいのは
暁臣の目が見開かれた。
「貴方は……。それが何だか知っているのですか」
「
研究医であった月乃の父の、生涯の主題。それは本能と理性の狭間で苦しみ、それでもなお人に紛れて生きる怪異達に福音となり得るものだった。
「
場に少しの静寂が訪れた。
暁臣は答えなかった。口を真一文字に引き結んで、じっと相手を見返している。するとフリッツはトンとステッキで芝生の地面を叩いて、こともなげに沈黙を割った。
「君は
ごくり、と暁臣の喉が鳴った。
人狼――それは
「――正確には、人狼とは少し違います」
この男に見抜かれていることは知っていた。だが面と向かって言い放たれると、野生の警戒心はさざ波を立てる。暁臣は
「
「ふむ。いわゆる“先祖返り”か。だが実態は同じだろう? 満月の夜は原始的な衝動を抑えられず、身も心も獣になる」
例えば今夜も。
フリッツは吐き出した紫煙で、青空に浮かんだ白い満月を指し示す。
「今は制御できています」
「つまり、それこそが
「……はい」
上手く誘導されたと思いつつ、暁臣は頷くしかなかった。彼が幼い頃謡川家に預けられていたのは、先天性の病の治療――つまりは先祖返りによる、人狼の力の暴走を抑えるためなのだから。
「教えてくれ。俺はそのために謡川家へ支援していた。遺族に屋敷を管理させ、彼の貴重な研究資料をそのまま保存し、散逸させないために。――だが陸軍の医官に揺川家の屋敷を捜索させたが、それらしきものは得られなかった」
ずい、と丸
「旦那様の研究は、ただ身近な人々を守りたいからという、ささやかなものでした。貴方の目的が金ならば、俺は死んでも口を割らない」
「言っただろう、贖罪だと」
「では、謡川家への支援が資料の保存のためなら、お嬢様は? 月乃お嬢様個人への援助は何のために?」
その言葉に、静かな圧力を伴う“狩人”の尋問はぴたりと止んだ。急に乗り出しかけた身を引いてしまい、
「ついでだよ。……ただの気まぐれだ」
顔を逸らして紫煙と共に吐き捨てる。その態度こそが告げていた。彼にとって月乃は特別なのだと。
「気まぐれであれだけの金を?」
「金額が誠意になると思った。それだけのことだ」
手の内は見せても、心の内までは明かさない。
「――お嬢様は恋しているんです。ミスタァKに」
フリッツは「へえ」と興味なさげに煙を吸い込む。
「夢見がちな少女の抱く、美化された幻想だ」
「はい。俺もそう思っていました。でも――今のお嬢様からは、“恋の香り”がする」
「……は?」
“恋の香り”。
急に場違いに詩的な表現が飛び出したので、フリッツは虚を
「もっと直接的な表現がお好みですか? 発情した雌の匂いがするって言ってるんですよ」
フリッツの目はますます丸くなった。
「ミスタァKへの想いが、貴方に出会って形を持った。未成熟だったお嬢様の心を、貴方が花開かせた」
「いや、だが――」
突然ダン、と暁臣が
「その香りに当てられそうになった俺の身にもなってくださいよ! 一日中! 隣で! 別の男のことを考えて女の匂いを立ち上らせるお嬢様と過ごした俺の身に! 今日は香水の香りで多少誤魔化されていましたけど――」
後半はブツブツと盛大な独り言になって、最後はハァーーーと大きなため息になる。その謎の勢いに圧倒されるあまり、フリッツは
「おわかりでしょう? 月乃お嬢様は貴方に会うために
「……だが……彼女が会いに来たのはミスタァKだろう?」
「そうだって言ってるじゃないですか!」
いいや、とフリッツは首を振る。
「彼女にとってのミスタァKは加納中将だ。俺じゃない」
「わかってない! 貴方は何もわかっちゃいない!」
ついに暁臣は、ずっと左手に携えていた柳の
「お嬢様が……! お嬢様がこの二年間、何を支えに、何を考え、どんな想いを育んで生きて来られたのか。貴方はそれを知るべきだ!」
蓋を開けて鞄の中からバラバラと零れ落ちたのは、大量の白い封筒。月乃が二年もの間書き続けた、ミスタァKへの手紙だった。
「これらは全て貴方へ宛てられた手紙です。ミスタァK」
暁臣は知っている。月乃がどんな想いでそれらの手紙を書いたのか。その手紙のひとつひとつに、どれ程の愛が、どれ程の尊敬が込められているのか。フリッツは目の前に積み上げられた封筒の山を、ぽかんと見ている。
「これを読んで、貴方がお嬢様の全てを愛するなら。――貴方の求めるものは、自ずと手に入るはずだ」
鞄をひっくり返して全ての手紙をその場に吐き出した。終わるとバタンと乱暴に蓋を閉めて、
「待て。君はなぜ――」
「俺は元々、大学を卒業したらお嬢様に求婚するつもりだった」
引き留めかけたフリッツの言葉を
「両親もそのつもりでいたし、貴方程ではないが彼女を幸せにするだけの稼ぎはできるでしょう。貴方が名乗り出ないとおっしゃるなら、その予定が少し早まるだけだ」
「……そうか……」
誰よりも月乃の幸せを願うから。
暁臣は長い間、己の想いを月乃に押し付けることはしなかった。いつか彼女が、彼女自身の意思で己を選んでくれればいいと。
「今夜は満月だ。
去り際の背中にフリッツが忠告する。暁臣はただ、無言で頷くだけだった。
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