二十二、生きてさえいれば

 その日、真上まかみ暁臣あきおみは最悪の朝を迎えていた。


 いつも通り朝食を終え、さあ本日は休講だ、何をして過ごそうかという時刻に、いきなり謡川夫人――月乃の義母だ――が下宿先に乗り込んできたのだ。

 突然連絡もなくやってきた上に朝からギャアギャアと金切り声でわめかれて、対応した主婦も苦笑いである。既に退院し快復したはずの同宿の俊雄としおなど、「傷に響いてまた倒れそうだ」と皮肉を言っていた。

 蹴りつけて追い出したかったのは山々だが人目もある。なんとかなだめすかして話を聞くと、まったく筋はぐちゃぐちゃながら、要約すると内容はこうだ。


 今朝、謡川家に一本の電報が入った。“キンセンケイヤクハコレヲソクジカイジョス”。ミスタァKより今後謡川家への一切の支援を停止、金銭に関する契約を解除するという通達だった。


「つまり、謡川家は月乃お嬢様個人への援助とは別にミスタァK――すなわち加納かのう宣彦のぶひこ中将から、年間数百えんもの支援を受けていたと?」


 ミスタァKの正体、謡川家との金銭支援契約――。にわかにもたらされる衝撃の情報の数々に、暁臣は目眩めまいがした。目頭を揉んで海より深いため息をつくと、向かいに座る謡川夫人はふんぞり返ってそっぽを向く。


「契約の際に代理人から、これは謡川家の屋敷の管理料と思ってくれればいいと言われたわ! つまり正当な報酬よ!」


 そもそも何のために屋敷を管理するのか、なぜ加納中将が謡川家、ひいては月乃のためにそこまでするのか。疑問は尽きないが、今ここで夫人を問い詰めても真相は得られそうになかった。


「それで、その件が俺にどういう関係があるんですか?」

「あなたのお兄さんは士官学校を優秀な成績で卒業して将来を嘱望しょくぼうされているのでしょう!? 加納中将に口利きしてほしいのよ! お金を止めないでほしいって!」

「は?」


 確かに暁臣の兄は陸軍中尉で、加納中将は彼の上官にあたる。ただし中将は一個師団、一万の兵を束ねる立場である。個人的な――しかも軍務外の用件をいちいち取り次ぐはずがない。無茶を通り越して無謀、あまりに浅はかな考えである。


「俺や兄にそんな伝手つて縁故コネもありません」

「でもこのままではお金が! お金が入らなくなってしまうのよ!」


 この期に及んであくまで金の心配をする謡川夫人を、暁臣は心底軽蔑した。

 この女はミスタァKの正体を知りながら月乃に黙っていた。金を受け取っていることすらも。その使いみちなぞ、彼女の金襴きんらんの帯や黒瑪瑙くろめのうの指輪を見れば一目瞭然である。これまで漫然と金を受け取っておいて、そのくせ電報一本で途切れるような浅い縁しか繋いでこなかったというのか。呆れる他ない。


 謡川夫人はかなり粘ったが、暁臣は最後まで知らぬ存ぜぬを貫いた。そして夫人が帰った後はすぐさま兄に連絡を取った。あの調子で、真上家の名前を出して軍部に乗り込まれでもしたらたまったものではない。


 ようやく兄と情報の共有を終えて一息ついたところで、次に気に掛かるのは月乃のことだった。謡川夫人の話によれば、学園にも同様に支援の打ち切りが告げられたらしい。もう月乃の耳にも入っただろうか。彼女はミスタァKを心の拠り所にしていたのだ、きっと深く傷付くに違いない。

 そしてもし、彼女が学園を去ることになるならば、その時は――。


 結局居ても立ってもいられず、月乃を訪ねるため学園を訪れることにした暁臣。正門前の道を薔薇の生垣沿いに歩いてきたところで、視線の先にひとりの女の姿を捉えた。


「お嬢様?」


 正門を通り過ぎた向こう側、道の遥か先をふらふらとおぼつかない足取りで川の方へ歩いてゆく御納戸小町がいる。常人より優れた暁臣の目は、その背中が月乃のものだと瞬時に見分けた。

 

「お嬢様……お嬢様!」


 追いかけて呼びかけるが、振り返る様子がない。よく見れば両手に箱のようなものを抱え、左足を引きずっている。普段と違う。様子がおかしい。ただならぬ気配を感じ取った暁臣はそのまま走り寄って、後ろから彼女の上腕を掴んだ。


「お嬢様! 何をなさってるんです?」

「……暁臣さん……?」


 石橋の少し手前で、ようやく立ち止まり振り返った月乃。その顔を見て、暁臣は言葉を失った。

 彼を魅了してやまない愛らしい瞳は輝きをなくし、薔薇色の頬からは色が抜け落ちている。表情は虚ろで、まるで死人のようだった。


「手紙を、捨てに来たの」


 独り言のようにつぶやいて、両手で抱えた竹製の行李こうりに視線を落とす。暁臣が覗き見ると、中には大量の白封筒が無造作に詰め込まれていた。


「私の手紙……一通も届いてなかった……。ミスタァKに宛てた手紙が、ずっと学園長の部屋でほこりを被っていて……」

「……!?」


 力ない言葉、生気のない表情。しかし行李を持つ手はカタカタと震えている。月乃の断片的な言葉から暁臣はようやく状況を察した。同時に、はらわたが煮えくり返るような怒りが湧いてくる。


「それで川へ捨てに来たの……読まれない手紙なんて、あっても意味がないもの……」

「お嬢様、お気を確かに!」


 身体から離れかけたこころを引き戻そうと、両肩を掴んで強く揺すった。すると彼女の手から滑り抜けた行李がごとりと地面に落ちて、やがて月乃自身もその場にくずおれる。暁臣は必死に膝を折って、細い身体を抱き留めた。


「意味がなかった……! 全部、全部無意味だった!」


 暁臣の腕の中で、月乃の想いは決壊した。わあああと幼子のような声を上げたかと思うと、その目から次々と大粒の涙があふれ出す。


「わたし、私、真心まごころは通じていると思ってた! 直接お目にかかることはなくても、手紙を通じて感謝の気持ちは届いているはずだって。たとえ返事がなくっても、きっと伝わっているはずだって!」


 暁臣の着物の衿を握りしめ、すがるように額を押し付ける。これ程の彼女の激情を、暁臣は知らなかった。これまでの長い付き合いで、月乃が涙を流したのを暁臣は後にも先にも一度しか見たことがない。その一度とは、彼女が父親の訃報を受けた時である。


「でもそんなの、ただの言い訳よ。私はミスタァKにお会いするのが怖かった。私の心に存在する、理想のミスタァKを壊したくなかった! ちゃんと調べれば、彼の正体をもっと早く知ることだってできたかもしれないのに。私は、私は、それをおこたったのよ!」


 あふれるのは後悔と、己への怒り。穏やかで控えめな彼女の感情の発露、黒曜石の瞳から結晶して零れる涙を、暁臣は不覚にも美しいと思ってしまった。ずっと見ていたい、このままどこにもりたくない、くらい想いが湧き出すのを押し隠して、震える月乃の肩を抱く。


「ミスタァKは失望なさったんだわ。謡川の娘は大金を受け取っておきながら礼のひとつも寄越さない、とんでもない不義理者だと! 私……取り返しのつかないことを……!」


 そこで言葉は途切れて、月乃はしばらくしゃくり上げた。彼女の涙、彼女の吐息、吐き出された想いまでも。暁臣はただすべてを自分のものにしたくて、その嗚咽おえつを胸の中に閉じ込めた。

 さんざん泣いて、泣き疲れた月乃がようやく落ち着き始めた頃。暁臣は袖口から取り出した真っ白な手巾ハンケチを月乃へ差し出す。


「お嬢様。この世に取り返しのつかないことなんてそうそうありませんよ」

「でも……」


 受け取った白布を握りしめつつ、濡れたまつげを伏せる月乃。暁臣はその手ごと包み持つと、手巾ハンケチの角を彼女の頬に残る涙の跡に押し当てた。


「お嬢様が嘆いているのは、ミスタァKから寄付をいただけなくなったからではありませんね?」


 優しく問いかけると、月乃はコクリとひとつ頷く。


「お金なんてなくてもいいわ。ミスタァKが励ましてくださったから、“フアン”だって言ってくださったから私、がんばってこられたの」


「でしたら」と、手巾ハンケチを持つ彼女の手を強く握った。


「感謝の気持ちなら、今からでも伝えられる。謝罪なら、今からでも間に合う。互いが。そうでしょう?」

「暁臣さん……」


 父親が亡くなった時、もう二度と感謝や愛情を伝えることができないのだと、月乃はそれが悲しかった。けれどミスタァKは違う。彼は間違いなく、今この国、この地で生きているのだ。

 暁臣を見上げたふたつの瞳が、希望の光を宿してきらりと輝いた。


「ええ、そうね。あなたの言う通りだわ、暁臣さん。……でも……」

「――匣根(はこね)です」

「えっ?」

「加納中将は月初から、長期休暇で匣根はこね逗留とうりゅうしていると兄から聞きました」


 それは月乃の義母には決して明かさなかった、ひとつの情報の開示。


「――行きますか? 匣根に」


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