二十三、きっと伝わるわ

“ミスタァKに会うために匣根はこねへ行きますか”。


 暁臣の問いに、月乃は首を縦に振った。それが無茶で突飛な選択だとわかってはいたけれど、今動かなければ一生後悔するような気がした。

 顔を強張らせたまま頷く月乃に、暁臣は「俺がついて行きますから大丈夫ですよ」と笑いかける。個人的な事情に彼を巻き込むのは気が引けたけれど、月乃ひとりでは匣根までたどり着けそうもないのも事実で。その日は一旦別れて、明日朝一番に出かける約束をした。暁臣は兄から加納中将の詳しい滞在先を聞き出すと言ってくれた。学園に戻った月乃は外出許可を取り、小さなかばんに申し訳程度の旅支度をした。


 そして翌朝。出発の準備を終えた月乃に羽織を着せかけながら、千代はハァ、とため息をついた。


「ああ、本当に大丈夫かしら。匣根は山だから、きっと冷えるわ。温かくしないと」


 ぶつくさと言いながら、袖を通した月乃の肩を辺りを調ととのえる。その美しい萌黄もえぎの絵羽織は、寒さを心配した千代が貸してくれたものだった。

 月乃は借り物の羽織の下にフリッツから贈られた朱赤の着物と金絲の入った帯を締め、髪はいつもの結流しではなく上げ巻である。陸軍の要人である加納中将に面会するためには、相応の身なりが必要だと思ったからだ。

 実は、少しだけ考えた。つい先日まで着ていたボロボロの着物をまとって、義母や学園長のこれまでの行いや窮状きゅうじょうを切々と訴えたなら、加納中将も援助の取り止めを考え直してくれるかもしれないと。けれどすぐに思い直した。


(今回の訪問の目的は、ミスタァKにこれまでの感謝とお詫びの気持ちを伝えることよ。お金は目的じゃない。真正面からでなければ、真心は届かないわ)


 この先、自分がどうなるかはまだわからない。いずれ学費がとどこおり学園を去ることになるなら、この旅は自分にとって、自由に出かける最後の機会になるかもしれない。

 不安が押し寄せかけたところで、不器用な千代が羽織の紐をもろ縄に結ぼうと苦戦しているのを見て思わず噴き出してしまう。


「ふふふ、千代ちゃんたら。そんなに心配して、お母さんみたい」

「そりゃあもう、心配に決まっているじゃない。しかもあの暁臣ってひとと一緒だなんて……間違いが起こったらと思うと」

「間違いって?」


 あんまり無邪気に月乃が小首を傾げたので、「なんでもないわ……」と千代は言葉を濁す。


「ところで月乃ちゃん。貴女、本当にお母様の形見のかんざしを質に入れてしまったの?」

「そうしないと、旅費が出せないから……。仕方ないわ」

「暁臣さんて、結構な資産家のご子息なのでしょう? 足代くらい出していただくわけには……」

「これは私の問題だもの。私自身がなんとかしなきゃいけないことなのよ」


 千代のすすめに、きっぱりと首を左右に振った。

 昨日質屋に持ち込んだべっ甲に赤珊瑚あかさんごのかんざしは、月乃の手元に残る数少ない母の遺品だった。正直それ程の値はつかなかったが、背に腹は代えられない。

 わずかな路銀に替えてしまった母の形見。帯の内に仕舞った小さながま口財布の重みをずしりと感じて、月乃はわずかに痛んだ胸を押さえた。


「でもね千代ちゃん。私……本当は少し怖いわ。ミスタァKに会うのが怖い。そもそも、会ってもらえるかしら」


「門前払いされてしまうかも」。あるいは口汚く罵られるかもしれない。考え出すと、とっくに決意を固めたはずなのに足がすくんでしまう。

 月乃の瞳が不安に揺れる。すると帯の上で握り込まれた彼女の手に、そっと千代が触れた。


「月乃ちゃん、手を出して」


 言われるまま両手を前に突き出すと、千代は机の抽斗ひきだしから硝子がらすの小瓶を取り出した。それは彼女が愛用している舶来の香水コロン。黄みがかった液体をシュッと手首に一吹きすると、爽やかな白薔薇ホワイトローズの香りが広がる。


「あたしは一緒に行かれないから、お守り代わりよ。――大丈夫。月乃ちゃんの気持ちは、きっと伝わるわ」


 両手を口元に持ってきて花の香りを吸い込むと、たしかに千代がすぐ側にいてくれるような気がする。


「うん。ありがとう千代ちゃん。……もしも私がこの学校を辞めることになっても、ずっとお友達でいてくれる?」

「そんなの……当たり前じゃない」


 もう一度深呼吸してにっこりと笑うと、千代も優しく微笑み返した。


 そうして月乃は、左足をひょこひょこと引きずりながら学園を出た。

 暁臣は学園まで迎えに来ると申し出てくれていたが、さすがに何から何まで世話になるのは申し訳ないので遠慮した。代わりに汽車の発着駅である心橋しんばしステーションで待ち合わせている。できれば上手く馬車などを利用して旅費を節約したいところだったが、この足ではやむを得ず、月乃は駅までの道のりを人力車に頼った。先日フリッツの隣に座って往来した街道を、今日はひとりでくるまに乗る。そう思うと急に心細さが込み上げてきたが、月乃はこれから訪れる匣根の景色を想像して楽しむことで、旅の不安をごまかした。


 心橋ステーションの駅舎は米国の建築家が設計したモダンな洋風建築だ。白っぽい切石の外壁は角部のみ青石が使われ差し色となっている。全方位に並ぶ縦長の窓のひさしには装飾彫刻が施されていて、重厚な建物に優美な印象を加えていた。

 駅舎正面には客待ちの人力車がずらりと並ぶ。この人混みで上手く待ち合わせできるか不安だったが、さすが“お嬢様の声ならば百里向こうからでも聞きつける”と自称する暁臣は、到着するなりすぐに月乃を見つけてくれた。忠犬よろしく走り寄る彼は、いつもの書生服に濃紺の外套マントを羽織り、柳に革ベルトの行李鞄こうりかばんを提げている。


「まず世古濱よこはまへ出ます。その後汽車を乗り換えて高府津こうづまで行きます」

「世古濱から高府津行きの路線って、今年開通したばかりよね?」

「ええ。ですので以前より大分匣根へは行きやすくなりましたよ。高府津から匣根へは、乗合馬車になると思います」

「高府津から匣根へはどれくらい?」

「加納中将が滞在されている湯本までは約三里(十二キロメートル)といったところでしょうか」


 暁臣の腕を借りて、混雑するステーション構内を歩く。切符を買い乗降場ホームへ向かう道すがら、暁臣は丁寧に旅程について説明してくれた。聞けば聞く程、月乃は自分の無知と無計画さが恥ずかしくなる。彼がいてくれなかったら、月乃は匣根へ行くどころか切符を上手く買えたかすらもあやしい。


 そして、ふたりを乗せた汽車は定刻通り出発した。心橋を出てしばらくは、列車は海沿いの埋立地の上を走る。月乃はこの先――まだ大分先だが――に待ち構えているミスタァKとの対面を思って、緊張に身を固くして不動の姿勢で座っている。あまりに悲壮な面持ちなので、暁臣はそれを解そうと雑談を始めた。


「お嬢様、覚えておいでですか? まだ奥様がお元気だった頃、旦那様と四人で世古濱へ行きましたね」

「ええ、覚えてるわ。たしかあの時はまだ暁臣さんが謡川うちへ来たばかりで、いつも難しそうな顔をしていて……一言も口をきいてくれなかったの」


「でも世古濱で皆で牛鍋を食べた時に、初めて“おいしい”って言ったのよね」。当時を思い出した月乃がようやく笑顔を見せたので、暁臣も吊られて口元をほころばせる。


「いきなり他人の家に預けられたので、“先祖返り”の俺は親に捨てられたのではないかと当時は随分悩んだんですよ」

「先祖返り……暁臣さんのご病気のこと?」

「ええ。まあ、お嬢様がとても優しくしてくださったので、すぐに真上まかみのことなんて忘れてしまいましたけど」


 暁臣は持病の治療のため、月乃の父を頼って謡川家に預けられていた。彼の両親にとっては暁臣自身を思っての決断だったとはいえ、子供心には淋しさもあったろう。


「暁臣さんはおじ様やおば様と離れ離れで淋しかったでしょうけど……。でも、私はお兄さんができたと思ってうれしかったのよ」


 月乃の純粋な言葉に、暁臣は困ったように笑った。


「そろそろその役目は返上したいと思っているんですけどね」

「どうして? それじゃあ淋しいわ」

「……貴女は時々とても残酷だ」


 ちょうどその時川をまたぐ鉄橋にさしかかって、暁臣の言葉はきしむ走行音に呑み込まれた。なんとなく聞き返せない雰囲気になって、月乃は窓の外を見る。汽車の吐き出す黒煙の向こうには、のどかな多麻川たまがわの水流が広がっている。

 心橋から世古濱までわずか五十分程。あっという間の出来事であった。




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