二十一、スベテノシエンハテイシス
本日よりミスタァ・イェーガーは不在。それにより二時間目の英語は自習だった。
昨夜物思いに眠れぬ夜を過ごした月乃は、教室の机に
(だって……どんな顔をして会えばいいのかわからないわ)
その名を小さく口にすれば、胸は甘く締め付けられる。これまでと同じようには彼の顔を見られない。そんな気がしていた。
零れ落ちそうな熱に蓋をして、もう一度息を吐く。予習のために昨日まで帳面に
「お姉様、足のお怪我の具合はどう?」
眉根を下げて、しゅんとした様子で。さすがの亜矢も気にしていたのだろうか。この子にも人の心があったんだわ、と月乃は少しうれしくなって、気丈に頷いてみせる。
「……亜矢……。ええ、少しはいいわ」
「そう! よかった。ならお任せしてもいいわよね!」
亜矢は見下すように笑うと、ドサッと机の上に分厚い紙の束を置く。そして「学園長室への届け物ですって!」と、他の教師からの頼まれ事を姉に押し付けるのだった。
押し問答の末、月乃はその仕事を引き受けた。いや、引き受けさせられた。怪我した左足を引きずりながら重い紙束を運ぶのはまさに骨が折れそうだが、いずれにしても今日、学園長室を訪ねる予定がある。昨日したためたミスタァKへの手紙を学園長へ預けるためだ。
月乃は白い封筒を
左足は相変わらず痛むが、体重を掛けなければ歩けないこともない。芋虫よりはましかというくらいの遅々とした速度で廊下を進んでいると、突然誰かが奥の階段を音を立てて駆け下りてきた。
ドスドスと大股で廊下を走るのは学園長だった。今まさに訪ねようとしていた人物がすごい勢いでこちらへ向かってくるのであっけに取られていると、彼は月乃の姿を認めるなり大声で叫んだ。
「謡川月乃くん! 君は一体何をしてくれたんだ!」
「えっ?」
突然怒鳴られて驚きに身を竦ませると、目の前までやって来た学園長は月乃の肩を掴んでガクガクと揺さぶった。抱えていた紙束が数枚、散らばって舞う。
「君の支援者が! 今後一切の援助を打ち切ると通告してきた!」
それはまさに青天の
◇
「まずは落ち着いて、経緯をお話しいただけませんか?」
ようやくたどり着いた学園長室で、月乃はワァワァととり乱す学園長を必死になだめていた。
大の大人があまりにわかりやすく
「経緯も何もあるかね! 今朝突然電報が入ったのだよ。『学園を通じたすべての支援は停止す』と!」
“ガクエンヲツウジタスベテノシエンハテイシス”。
握り潰されて執務机の上に転がっている電報の送達紙。月乃が恐る恐る開いてみると、確かにそう書かれていた。
「ああ、どうすればいい! 陸軍部にも連絡を取ったが知らぬ存ぜぬの一点張り! しかも中将は長期休暇で不在と来た!」
頭を抱えてうろうろと室内を歩き回る学園長の言葉の意味が、月乃は半分も理解できない。その間に学園長は立ち止まったかと思うと「あー!」と
「あの、軍部……? 中将というのは一体……?」
「君には明かすなという条件だったがこの際関係あるまい。君の支援者は帝国陸軍の
突然前触れなく明かされた支援者の素性。
その名は“カノウ”――イニシアルはK。
「加納……中将……」
目を
実感は湧かない。けれどミスタァKにもきちんと名前があって、立場があった。そんな当たり前のことを今更知って、不思議な心持ちがする。
「どうしてかしら。私、ミスタァKはとてもとても遠いところにいらっしゃる方なんだと思い込んでいました……。でもこうやってお名前を聞くと、なんだか身近に感じます」
「
一見
だが学園長はわかっていない。彼女の落ち着き払った様子は、虚勢でも楽観でもない。
「……初めから覚悟はしていました」
月乃は最初から、すべてを受け入れていたのだ。
「今の私の生活は、すべてミスタァKのご厚意の下に成り立っています。だからもしも彼が何らかの理由で援助を途中で止めたとしても、私はこれまでの支援に感謝こそすれ、それを恨むようなことは決していたしません」
「それでは困るのだよ!」
まっすぐ学園長を見て、凛と答える。しかし学園長は口角から泡を飛ばし、バンバンと執務机を叩いて叫び続ける。
「君は事の重大さがまったくわかっていない! いいかね? 加納中将が君に支援していた金は年間千圓を超える。更に君のご実家にも、条件付きで援助をしていた! その支援ももうやめると!」
「えっ?」
――この男は今なんと言った?
千
「えっと、でも、ミスタァKが支援してくださっていたのは私の学費だけで……」
「どうしてくれる、このままでは私は破産だ! 彼からの支援を当て込んで新しい事業に投資していたのに!」
とんでもない暴露に身が凍った。この人物は、本来月乃のために使われるべき金を横領していたと告白したのだ。
わからない。信じられない。学園長の言っていることが理解できない。あまりの衝撃に、本来賢いはずの月乃の頭は思考を止めてしまった。
知りたくなかった事実と残酷な現実が頭の中でせめぎ合う。ぐるぐると無限問答を繰り返してその果てに――ああそうだ、私はミスタァKに手紙を差し上げようと思ってこの部屋へやって来たのだと、あべこべな思いつきに至る。
胸元に仕舞い込んでいた白い封筒を取り出して、引きつった笑顔で差し出した。どうしてだ、上手く笑うことができない。封筒を握る両手は、ぷるぷると小刻みに震えている。
「あ、あの。私、ミスタァKに手紙を書いたんです。いつもの手紙を。せめて最後にこの一通……これだけでも、届けていただけませんか?」
「まだそんなことを言っているのか! そんな手紙、届けられるわけなかろう! 君から直接中将に
「え……? じゃあ、わたしの、てがみは」
「っく、こんなもの!!」
学園長は書棚の上に乗っていた竹製の
「あ……そん、な……」
それはこの二年、月乃がミスタァKへ送り続けていたはずの手紙のすべてだった。
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