二十、私の希望の星

「あれは……」


 目に入るなり、包帯が巻かれた足を引きずって近付いた。

 さんの木枠に置かれていたのは、つい先程まで陽の下で咲いていたのだとわかるみずみずしい赤い薔薇。運んで来たのはフロッケか。手に取ってみると、固くしなやかな茎からはすべてのとげが丁寧に抜かれている。彼がわざわざ取り除いてくれたのだろうか。


(――私のために?)


 自惚うぬぼれめいた思考が浮かんで、胸が掴まれたように締め付けられた。

 フリッツは棘で手を痛めなかっただろうか。美しい顔に似合わず男らしく筋張った彼の指を思い起こす。するとその手が慈しむように触れた月乃の左足が、また熱を持ってじくじくと痛み始めた気がした。


 結局その夜は筆を取る気にならず、薔薇を眺めているだけで終わってしまった。

 翌日、月乃は不自由な足で裏庭へ向かった。わざわざここへ足を運ばなくてもいいようにと薔薇を所望したのに、結局訪れるなんて本末転倒もいいところ。それでもやはり、お礼を言いたかった。いつもの長椅子ベンチから見える生垣の薔薇はどれも美しく咲いていて――けれど、彼は現れなかった。


(避けられているのかしら……)


 同じ学園の敷地内にいるのは間違いないはずなのに、避けられているとなると途端に会えなくなってしまう。午後の授業では「明日からみすた・いえーがーは休暇のため、その間の英語の授業はすべて自習とします」と担任から告げられて。どうやらしばらく彼の顔を見ることは叶わないとわかって、月乃はがっくりと肩を落とした。


 その日最後の授業は例の舞踏の練習だったが、この足では参加できない。ひと足早く寄宿舎へ戻った月乃は、毎月恒例のミスタァKへの手紙を書くことにした。十月の手紙は、薔薇の花が咲いたら書こうと決めていたのだ。


“拝啓、ミスタァK

 すツかり空は秋めいて、学園の森からは百舌鳥もずの声が聞かれます。ミスタァKに置かれましては”


 そこで詰まってしまった。


(――だめだわ。上手く文章が出て来ない)


 いつもならあっという間に書き上げてしまう手紙。伝えたいことが山のようにあって、それが次から次へ自然と零れ落ちてくるはずなのに。何故か今日は、ちっとも言葉が浮かばない。

 それでもなんとか時候の挨拶、舞踏の練習で失敗して少しだけ足を怪我したけれどおおむね元気に過ごしていること、生垣の薔薇のこと――無難にまとめあげた。後は薔薇の絵を添えて、花弁も何枚か同封しよう。生花は届けられないけれど、このかぐわしい香りが少しくらいは伝わるはずだから。


 よし、と一息つくと抽斗ひきだしから色鉛筆の木箱を取り出した。つた模様の描かれた蓋を開けると、鮮やかな二十四色が目に飛び込んで来る。その瞬間、月乃の心はいつだってときめく。けれど今日はなんだか、胸はざわざわと落ち着かない。


 なんだか調子が悪いな、と気を取り直して気合を入れる。水差しに活けた薔薇をじっと観察して、それから目をつぶって心の中で思い描いた。

 彼女の目に見える薔薇は、ただの赤一色ではない。まだ開き切っていない中心部は生命力を内包してぎゅっと濃い。可憐に丸まった花弁のふちは、透き通った血潮の色。その姿がつゆに濡れたなら、きらりと七色に輝いて――。


 赤紫で薔薇の輪郭を描く。細筆を水に浸して鉛筆の先から朱色を取る。先に描いた色と紙の上で交われば、新しい色が生まれる。混色、にじみ、繊細な表現。

 フリッツのくれた二十四色の色鉛筆は、月乃の想像の世界に無限の広がりを与えてくれた。


“君の望みを教えてくれ。君の望みを叶えよう。……どんなことでも”。


 あの時、フリッツの差し伸べてくれた手を月乃は上手く取ることができなかった。多分彼は、月乃がもっと貪欲になることを望んでいた。

 ドレスへの憧れはある。鹿茗館ろくめいかんの美しい建物の中を見てみたいという気持ちもある。けれど月乃の本当の望みはそこにはないのだ。彼女がほしいものは


(私が、本当にほしいものは――)


 かつて、月乃自身が描いた絵本のことを思い出す。


“さみしそうなおつきさま”。

 夜空にひとりっきりで、自分は孤独だと思い込んでいたおつきさま。おつきさまが涙を流すと、その涙がたくさんの星に変わる。星達はおつきさまを励ますために、夜空にたくさんの物語を描いた。英雄。神々。見たこともない不思議な生き物――。


 幼い頃、愛されて満たされていた頃の月乃は、おつきさまの孤独を癒やす星になりたかった。

 けれど今、ひとりぼっちのおつきさまが月乃自身ならば、彼女に寄り添ってくれる星は――?


(私の希望の星。それはミスタァKなのだと思っていたわ)


 今の月乃が求めてやまないもの。それはすべて、ミスタァKが持っていると思っていた。愛、誇り、尊敬――。夜空に燦然さんぜんと輝いて、けれど決して手が届かない星。

 でもそれは勝手な思い込みで、本当に輝くものはもっと近くにあるのかもしれない。



「――できた」


 すっかり窓の外が暗くなった頃。

 月乃はうーん、と両腕を突き上げて伸びをした。完成した薔薇の絵を洋燈ランプの明かりにかざして、これはなかなかいい出来だ、とにんまりする。表現に苦戦した薔薇の赤は、匂い立つように活き活きして見える。


「あら、見せてちょうだい」

「千代ちゃん? いつの間に帰ってきていたの?」

「とっくの昔よ。付け加えるなら、もう夕食のために食堂に向かう時間よ」


 気付けば向かいの机で千代が本を読んでいた。月乃が集中しすぎると周りが見えなくなるのはいつものことなので、千代は特に怒るでもない。立ち上がって月乃の近くへ寄ってくると、完成したばかりの絵を横から覗き込んだ。


「ど、どうかしら」


 千代はしばらく無言だった。置き洋燈ランプに照らされた月乃の手元をじっと見ている。


「月乃ちゃん。貴女……恋をしてるの?」

「えっ?」


 予想だにしない一言に、月乃は固まった。


「だってこの薔薇の赤――。今にも燃えそうなくらい熱いもの」


 朝露を浴びて一心に太陽を見上げる薔薇の絵を、千代が指差す。心臓が、ギクッと音を立てた気がした。


「恋……? 私が、恋? えっ……」


 まさかそんなという困惑と、ずばり当てられたという驚嘆。急に喉がカラカラに乾いて、つばをごくりと飲み込んだ。なんと返そうかしどろもどろになって、ようやく絞り出した言葉は「千代ちゃんは……」。


「千代ちゃんは、恋を知っているの?」


 あまりに幼い問いだった。千代はただ穏やかに微笑むばかりで、何も返しはしない。ああでも、彼女は知っているのだ。隣に立つ千代を見つめて、月乃はそう確信する。

 だってそうでなければ、こんなに美しい笑みを浮かべられるはずがない。


「月乃ちゃんの恋は、きっと希望に満ちているのね。……この薔薇みたいに」


「誰を想って描いたの?」そう問われて、月乃は答えられなかった。


 思い描いたのはミスタァK。この絵の贈り相手。それは半分本当で、半分嘘だ。

 二十四色の色鉛筆。口付けられた右手に残る熱。水差しで咲く棘のない薔薇が。すべてが彼を指し示す。すべてが彼に繋がっている。


 その名はすなわち、ミスタァ・フリッツ・イェーガー。



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