十九、君の望みを教えてくれ


 ちょうど曲が終わり、風琴オルガンの演奏が止まった。互いに手を繋いでいた生徒達がバラバラと離れたところで、ひとり床にうずくまっている月乃に注目が集まる。


「ちょっと、早く立ってよ! そうやって先生方の気を引くつもり!?」


 焦った亜矢が月乃の二の腕を掴んで無理矢理引っ張りあげようとするが、立ち上がりかけた月乃はまた痛みに顔を歪めて膝を屈める。そうこうしているうちに気が付いた教員達が集まってきた。


「まあ大変! どなたか小使こづかい部屋にお連れして。……一体どうしてこんなことに?」

「わ、私のせいじゃありません! この人がどんくさいから! だいたい洋舞の練習に草履で来るのが間違ってるのよ!」


 教師達と亜矢が問答している間に、後から来たフリッツが躊躇ちゅうちょなく月乃の腕を取った。そのまま膝の裏をすくい上げて横抱きにすると、立ち上がり際にちらりと亜矢を見やる。


「ミス・謡川亜矢。真の淑女に必要なものは寛容と思慮深さだ。君にはそのどちらも不足している」

「……」


 紳士らしい落ち着いた抑揚よくよう。しかし紡がれた言葉は痛烈だった。さすがの亜矢も黙り込んでしまうが、彼はその様には興味がないらしい。月乃を抱いたまま「失礼」と目礼だけすると、あっという間に講堂を出て行ってしまった。キャーという女学生達の悲鳴だけがその場に置き去りにされた。


 口を開く間もなく、ふたりはぐんぐんと講堂から離れていく。大股で学舎を目指すフリッツの歩みは風のように早く、首に腕を回してしがみついた月乃は恥じらいに身を固くする。


「申し訳ありませんミスタァ・イェーガー……」

「少し黙っていろ」


 すげなく返した彼は、少しいら立っているようだった。

 この学園には常駐の医師はいない。わずかに医薬品が備えられているだけだ。ようやくたどり着いた学舎一階隅の小使の控え部屋。フリッツは乱暴に引き戸を開けると、畳敷きの部屋にずかずかと土足で上がり込む。置かれていたとうの椅子に月乃を座らせると、そのまま片膝をついた。


「左足を見せろ」

「えっ、その……」


 月乃が恥らい戸惑っている間に、フリッツが彼女の足首を取り草履を脱がせる。


「足首はひねっていないな? 履き物を脱げ」

「うぅ、はい……」


 月乃は言われるがまま、少しだけ御納戸袴の裾をまくり上げた。恐々こわごわ持ち上げられた合間から、白いふくらはぎが覗く。かかとの金具に手を掛けて足袋をするりと引き抜けば、裸の足先があらわになった。華奢きゃしゃなくるぶし、控えめに並んだ爪、すべてがフリッツの片手に納まる程の大きさしかない。白磁の花器のような素足はしかし、亜矢に踏みつけられた小指の付け根の辺り、薄い甲の外側の部分が熱を持ち、あかれ上がっていた。


「少し触れるぞ? 痛かったら言いなさい」

「あっ」


 フリッツの冷たい手が小指に触れた。思わず彼の肩を掴んだ月乃は、驚きと痛みにびくんと身を震わせる。次に薬指を撫でるように触れられて、また身体が跳ねた。


「指の骨は問題なさそうだが……。甲にヒビが入った可能性はあるな」


 結論としては冷やして、安静にするしかない。金だらいに張られた水に足を浸して、月乃はようやく人心地がついた。


「――良家の娘を集めておいて、やらせることが西欧婦人の猿真似とはくだらない」


 白いつま先に赤いまだら水面みなもに放たれた金魚のような月乃の足。小さなたらいに彼女が描く波紋を見下ろして、フリッツはつまらなそうにぼそりと零した。獨国人の彼にしてみれば、この国の人々が必死に西欧諸国にならおうとするのは滑稽こっけいに映るのかもしれない。


「でもやっぱり、西欧のドレスは素敵です。そう何度もある機会じゃないですから、皆たのしみにしているんです」

「君も?」

「あ、いえ私は……」


「参加しないので」。うつむいた月乃が言葉を濁すと、フリッツは苛々いらいらした様子でがしがしと白金の髪を掻いた。ハァと大きな息を吐いて、再び月乃の前に膝を折る。


「なぜ例の援助者に頼らない。金が欲しい、ドレスが欲しいと素直に強請ねだればいいじゃないか」

「ミスタァKにこれ以上の援助をお願いするつもりはありません」

「そいつは君に何をしてくれた? 遠くから金だけ渡して、君を救った気になっている。君の心が周囲の悪意で踏み潰されても気付きもしない。とんでもない傲慢ごうまんだと思わないか?」

「やめてください!」


 月乃が珍しく声を荒らげたので、フリッツは押し黙る。ばつが悪そうに前髪を掻き上げてその合間から盗み見れば、少女の細い肩は弱々しく震えていた。


「……そんなこと、おっしゃらないで」


“ミスタァKは、私の希望だから”。


 蚊が鳴くようなか細い声。けれど揺るぎない慕情がそこにはあった。膝の上でぎゅっと揃えられた彼女の手。その上をフリッツの右手がためらいがちに彷徨さまよって――やがてそっと、包むように握り込んだ。


「今なら君の声が聞こえる」

「え……?」

「君の望みを教えてくれ。君の望みを叶えよう。……どんな事でも」


 そう言って、握った手を優しく持ち上げる。そして貴人に宣誓する騎士のように、白い指先に口付けを落とした。


 皆があっと驚くような、豪華絢爛なドレスがほしい?

 この理不尽な環境から今すぐさらって連れ出してほしい?

 それとも自分を辛い目にわせる義母や義妹に復讐を――。


「――薔薇を――」


 訪れた静寂を割ったのは、月乃の答え。持ち上げられた右手を彼の手ごと包んで元の膝の上に戻すと、はにかみがちに微笑んだ。


「それなら生垣の薔薇を一輪、手折ってきてくださいませんか?」

「薔薇?」


 いぶかしむフリッツに、「はい」とひとつ頷く。


「ミスタァKに差し上げる薔薇の絵を描きたいんです。でも、今日は裏庭には行かれそうにないので……部屋で描けたらいいなと」


 まっすぐフリッツを見返す澄んだ瞳。その輝きが、今の言葉が強がりでも悲嘆でもなく、彼女の真実なのだ伝えている。

 フリッツの端正な顔が一瞬、くしゃりと歪んだように見えた。


「……君のお人好しにはほとほと呆れる」


 月乃の額を押さえつけて、前髪を乱す。そのまますぐに立ち上がって背を向けられたなら、もうその表情は伺い知れない。


「わかった。君はしばらくここで休みなさい。小使には伝えておくから、部屋へ戻る時は彼女らの手を借りるように」


 背中越しにそう言って、彼は部屋を出て行った。月乃があわてて追いかけようと腰を浮かせかけるも、足がついて来ない。すぐにぴしゃりと引き戸が閉められた。

 特に怒鳴られたわけでも、冷たくされたわけでもない。額に乗せられた手はむしろ優しくて。けれど――。


(私、彼を傷付けてしまったかもしれない)


 月乃は何とはなしにそう思った。


 しばらくどこにも行く気がしなくて、小使が戻ってくるまでの長い時間、月乃はたらいの水をぱしゃぱしゃと揺らして過ごした。夕方近くになってようやく小使のひとりに支えられて寄宿舎へ戻ると。


 部屋の窓辺に置かれていたのは、一輪の薔薇だった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る