十九、君の望みを教えてくれ
ちょうど曲が終わり、
「ちょっと、早く立ってよ! そうやって先生方の気を引くつもり!?」
焦った亜矢が月乃の二の腕を掴んで無理矢理引っ張りあげようとするが、立ち上がりかけた月乃はまた痛みに顔を歪めて膝を屈める。そうこうしているうちに気が付いた教員達が集まってきた。
「まあ大変! どなたか
「わ、私のせいじゃありません! この人が
教師達と亜矢が問答している間に、後から来たフリッツが
「ミス・謡川亜矢。真の淑女に必要なものは寛容と思慮深さだ。君にはそのどちらも不足している」
「……」
紳士らしい落ち着いた
口を開く間もなく、ふたりはぐんぐんと講堂から離れていく。大股で学舎を目指すフリッツの歩みは風のように早く、首に腕を回してしがみついた月乃は恥じらいに身を固くする。
「申し訳ありませんミスタァ・イェーガー……」
「少し黙っていろ」
すげなく返した彼は、少し
この学園には常駐の医師はいない。わずかに医薬品が備えられているだけだ。ようやくたどり着いた学舎一階隅の小使の控え部屋。フリッツは乱暴に引き戸を開けると、畳敷きの部屋にずかずかと土足で上がり込む。置かれていた
「左足を見せろ」
「えっ、その……」
月乃が恥らい戸惑っている間に、フリッツが彼女の足首を取り草履を脱がせる。
「足首はひねっていないな? 履き物を脱げ」
「うぅ、はい……」
月乃は言われるがまま、少しだけ御納戸袴の裾をまくり上げた。
「少し触れるぞ? 痛かったら言いなさい」
「あっ」
フリッツの冷たい手が小指に触れた。思わず彼の肩を掴んだ月乃は、驚きと痛みにびくんと身を震わせる。次に薬指を撫でるように触れられて、また身体が跳ねた。
「指の骨は問題なさそうだが……。甲にヒビが入った可能性はあるな」
結論としては冷やして、安静にするしかない。金だらいに張られた水に足を浸して、月乃はようやく人心地がついた。
「――良家の娘を集めておいて、やらせることが西欧婦人の猿真似とはくだらない」
白いつま先に赤い
「でもやっぱり、西欧のドレスは素敵です。そう何度もある機会じゃないですから、皆たのしみにしているんです」
「君も?」
「あ、いえ私は……」
「参加しないので」。うつむいた月乃が言葉を濁すと、フリッツは
「なぜ例の援助者に頼らない。金が欲しい、ドレスが欲しいと素直に
「ミスタァKにこれ以上の援助をお願いするつもりはありません」
「そいつは君に何をしてくれた? 遠くから金だけ渡して、君を救った気になっている。君の心が周囲の悪意で踏み潰されても気付きもしない。とんでもない
「やめてください!」
月乃が珍しく声を荒らげたので、フリッツは押し黙る。ばつが悪そうに前髪を掻き上げてその合間から盗み見れば、少女の細い肩は弱々しく震えていた。
「……そんなこと、おっしゃらないで」
“ミスタァKは、私の希望だから”。
蚊が鳴くようなか細い声。けれど揺るぎない慕情がそこにはあった。膝の上でぎゅっと揃えられた彼女の手。その上をフリッツの右手がためらいがちに
「今なら君の声が聞こえる」
「え……?」
「君の望みを教えてくれ。君の望みを叶えよう。……どんな事でも」
そう言って、握った手を優しく持ち上げる。そして貴人に宣誓する騎士のように、白い指先に口付けを落とした。
皆があっと驚くような、豪華絢爛なドレスがほしい?
この理不尽な環境から今すぐ
それとも自分を辛い目に
「――薔薇を――」
訪れた静寂を割ったのは、月乃の答え。持ち上げられた右手を彼の手ごと包んで元の膝の上に戻すと、はにかみがちに微笑んだ。
「それなら生垣の薔薇を一輪、手折ってきてくださいませんか?」
「薔薇?」
「ミスタァKに差し上げる薔薇の絵を描きたいんです。でも、今日は裏庭には行かれそうにないので……部屋で描けたらいいなと」
まっすぐフリッツを見返す澄んだ瞳。その輝きが、今の言葉が強がりでも悲嘆でもなく、彼女の真実なのだ伝えている。
フリッツの端正な顔が一瞬、くしゃりと歪んだように見えた。
「……君のお人好しにはほとほと呆れる」
月乃の額を押さえつけて、前髪を乱す。そのまますぐに立ち上がって背を向けられたなら、もうその表情は伺い知れない。
「わかった。君はしばらくここで休みなさい。小使には伝えておくから、部屋へ戻る時は彼女らの手を借りるように」
背中越しにそう言って、彼は部屋を出て行った。月乃があわてて追いかけようと腰を浮かせかけるも、足がついて来ない。すぐにぴしゃりと引き戸が閉められた。
特に怒鳴られたわけでも、冷たくされたわけでもない。額に乗せられた手はむしろ優しくて。けれど――。
(私、彼を傷付けてしまったかもしれない)
月乃は何とはなしにそう思った。
しばらくどこにも行く気がしなくて、小使が戻ってくるまでの長い時間、月乃はたらいの水をぱしゃぱしゃと揺らして過ごした。夕方近くになってようやく小使のひとりに支えられて寄宿舎へ戻ると。
部屋の窓辺に置かれていたのは、一輪の薔薇だった。
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