第三章 をとめのまごころは碧落へ至る

十八、お手柔らかに

「明後日から三日程こちらを留守にします」


 十月の中旬、学舎二階の学園長室にて。

 南向きの窓から落ちる光線を集めてきらきらと輝くのは、フリッツ・イェーガーの白金の髪だった。部屋に現れるなり彼が持ち出した休暇願いに、学園長はしばしカイゼル髭をもてあそぶ手を止めて――驚きにぶちんと一本引っこ抜く。


「な……っ、許可できかねます!」

加納かのう中将から呼び出しを受けているのですが、応じるなと?」

「!」


 加納という人物の名前がフリッツの口から出た途端、再び学園長の動きが止まった。


「そ、そうですか。それなら致し方ない……。この学園の――あ、いや。揺川くんのこと、よ〜くお伝えください。たのみましたぞ」


 かたくなな態度を一変させると、金の指輪がまった手を擦り合わせてニッと脂ぎった笑顔を見せる。フリッツはそれを涼やかな灰の瞳で見下ろした。


「と、ところで、貴方が不在の間、例の吸血人きゅうけつびとについてはどう対処すればいいのですか」

「特に何も。犯人の正体はおおよそ見当がついています」

「なんですと!? ならばすぐにでも引っ捕まえて化けの皮を――」


 つっかかりかけた学園長は突然、シーッと鋭く息を吐く音にとがめられた。ぎょっとして見上げると、人差し指を口の前に添えたフリッツはまるで子供に言い聞かせるかのように静かな笑みを浮かべている。その有無を言わせぬ謎の圧力と妖艶さに、学園長はごくりと喉を鳴らした。


「私の仕事は中世の魔女狩りとは違う。確たる証拠もなく吊るし上げるわけにはいかないのです。相手が人に紛れて生きる者ならなおのこと、慎重にならざるをえない」

「そ、そんな悠長なことを言っとる場合ですか! これまでの被害者は五人中四人が男性……つ、つまり私も狙われる可能性が……!」

「それはないでしょう」


 穏やかに、だがはっきりと言い切った。

 薔薇学園の敷地内で帝大生が襲われてから一月弱。その後怪異は目立った動きを見せず、学園は表向き平和を保っていた。


「いや、しかし……」

はやや不明確だが、いずれにしてもくだんの怪異は正体が露見することを恐れている。これまで通り、犯行は必要最小限に留まるでしょう」

「ですが九月には立て続けに二件も事件が起こっているんですよ!」

「ああ。あれは牽制けんせいですよ、私に対する。相手はどうやら縄張り意識が強い」


「ですが……!」と更に言いかけた学園長の肩に、フリッツがぽんと手を置いた。そして少しだけ屈んで顔を近付ける。


「不安であれば、私が不在の三日間は生徒に外出許可をなさらないように。それから外部から人を招く際は、必ず教員の付添いを。一応、学園一帯では怪異が力を発揮しづらいような仕掛けは施してあります」


 言い聞かせるように、そっと耳元で。すると五十路の男はまるで乙女のように顔を赤らめて固まってしまった。 


「ところで」


 しばらくぼーっとしていた学園長の意識を引き戻すように、フリッツが再び声をかける。ハッとして彼の方を見ると、フリッツは室内の調度品のひとつをしげしげと眺めていた。


「これは良い壺ですね。鮮やかな赤色が美しい」


 紫檀したんの花台に飾られていたのは、つた様の耳が付いた細身の花入れだった。青みがかった白磁に、辰砂あかで唐草と龍の絵付けがされている。


「おお、おお、おわかりになりますか! これはかの窯の紅釉こうゆう磁器でして、非常に価値が高いものです」


 得意げな学園長の口から出たのは、かつて皇帝への献上品を納めていたことで知られる窯元である。フリッツは「ほう」と興味有りげに壺に顔を近付けて、「東洋ではドラゴンは縁起物ですからね」とあごに手をやり頷いた。それから室内をぐるりと見渡して、今度は窓の横に掛けられた掛け軸を指し示す。


「そちらの鳳凰フェニックスも、格調高くて部屋の調度品とよく合っている」

「この画の価値をおわかりになるとはお目が高い!」

「こう見えて様々な国を渡り歩いていますからね。自然と目が養われるのですよ。――あいにく水墨画は不勉強なのですが、少々ご講説いただいても?」


 如何にも芸術に造詣が深そうなフリッツに教えを請われて、気を良くしたのだろう。学園長はカイゼル髭を撫でつけると、ペラペラと饒舌じょうぜつに語り始めた。


「これはさる有名な水墨画家の梅鳥図です。おっしゃる通りこの鳥は鳳凰で、目出度めでたさはもちろんですが、そもそもこの画家が鳥を描くことはとても珍しいのですよ! 中でも特にこの画は――」


 どれ程この水墨画が貴重で価値が高いか。学園長の自慢話にフリッツは時折相づちを打って、始終和やかな笑顔でそれを聞いていた。


「それはそれは。たしかに翼の躍動感と静かに散る梅の対比は見事ですね。なるほど――これは随分と



 ◇



 同日の午後。

 典雅な風琴オルガンの調べが秋の風に乗って広がった。

 十一月の天長節に鹿茗館ろくめいかんで開かれる舞踏会。昨今の女子の踊り手不足をまかなうため、この学園からも女学生を派遣することが決まっている。国と学園の威信をかけた行事まで一月を切り、学園はにわかに活気付いていた。ちょうど学園の代名詞である生垣の薔薇も見頃を迎え、赤いつぼみが競うように花開き始めている。


 学園の定めで、舞踏会に参加するにはいくつかの条件がある。満十六歳以上かつ、成績に“不可”の科目がない者。

 本日も条件に合致した生徒が一同に講堂に集められ、舞踏の合同授業が行われていた。その中のひとりであり、礼法の教師から“淑女の心構え”を聞かされている月乃は、集団の後方でため息をついた。

 周囲には亜矢を始め同級生の半数以上と、上級生の千代の姿もある。この場にいるのは皆学園長の提示した条件を満たした者であるが――だがこの条件は、ひとつ重要な前提を見落としている。


 それは、

 いかにウィンナ・ワルツを完璧に踊りこなしたとして、舞踏会当日に身に着けるドレスがなければ参加しようがない。招待客の中にはかたくなに和装を貫く婦人もるようだが、それでは西欧の紳士を相手取る踊り手として期待されている仕事はこなせない。

 そして当然ながら、月乃はドレスを持っていなかった。昨年の天長節も、学園の条件は満たしていたが当日の舞踏会には参加はできなかった。もちろん、今年も同様である。


(ああ、早く終わらないかしら……)


 月乃は体を動かすこと自体は嫌いではないが、さすがに参加できない舞踏会のために訓練を受けるのは憂鬱だ。それでも理由なく授業を休んだりしないのは、ひとえにミスタァKの厚意に恥じない自分でいたいから。


 一方の亜矢は今年が初参加の予定なので、非常に浮き足立っている。既に美しい若草色のバッスルドレスを仕立てたとかで、先程から他の生徒とドレス談義に花を咲かせている。

 授業の度に毎回ドレスをに着替えるのは手間がかかるので、生徒達の服装はいつもの御納戸袴にたすき掛けをしただけ。しかし足元は皆、かかとの高い洋靴を履いている。月乃ひとりだけが、いつも通り足袋たび草履ぞうりだった。


 ようやく礼法の教師の講話が終わって、次に年配の舞踏講師――過去に洋行したこともあるというまれな婦人である――が話し始める。生徒達は皆やれやれといった様子で聞いていたが、講師の最後の一言で顔つきが変わった。


「――というわけで、今年の練習はみすた・いぇーがーにご協力いただきます」


(え!?)


 他の生徒と同様に、月乃も思わず顔を上げる。舞踏講師の紹介を受けて風琴オルガンの裏手から姿を現したのは、麗しき英語講師のフリッツ・イェーガーであった。周囲の女生徒から悲鳴が上がる。


「ごきげんよう、お嬢さん方。お手柔らかに」


 講師の横に並んだフリッツがいつも通りよそ行きの笑顔で微笑むと、またキャーと黄色い歓声が起こった。


「では早速、本場の紳士に一曲披露していただきましょう。みすた・いぇーがーのお相手は私――と言いたいところですが。そうねえ……」


 講師がぐるりと見回せば、女生徒達は皆期待の眼差しを返す。


「――蓮舎はすや千代さん」


 フリッツの相手に指名されたのは千代だった。

 子爵家の娘で昨年の舞踏会でも西欧紳士からの誘いがひっきりなしだったという千代。これには誰からも文句の出ようがない。

 千代は「はい」と小さく返事をすると、かつんと洋靴のかかとを鳴らして前へ進み出る。講師が手を叩いて合図すると、伴奏者が風琴オルガンを奏で始めた。


 フリッツが千代の前に踏み出て、片手を胸に当て頭を下げた。千代はそれに応えて、御納戸袴をつまむと膝を折る。差し出された手を取り、互いの肩と腰に腕が回される。風琴オルガンの三拍子に合わせて、ふたりは優雅に踊り始めた。


 くるりくるりと講堂の床に円を描けば、御納戸袴の裾が揺れる。千代が優秀なのはもちろんだが、フリッツの先導リードも上手いのだろう。どちらもまったく足元は見ておらず、背筋はピンと伸びたまま。それでもふたりの身体の拳一個分の隙間は決して離れも近付きもせず、とても即興で踊っているとは思えない。どこからともなく羨望のため息が漏れた。


(すごいわ。千代ちゃんも、フリッツさんも……)


 ふたりは余裕があるのか、何か小声で話している。フリッツが千代の頭上からささやきかけて、千代が驚いたように顔を上げる。更にフリッツの口が何か言葉を形作れば、千代は上品に微笑みを返した。その様はまるで睦言を交わし合う恋人同士。見守る月乃の胸は、ぎゅっと締め付けられた。


 やがて短い円舞曲ワルツが終わり、ふたりの動きがぴたりと止まる。互いに離れてもう一度礼を取れば、一斉に拍手が上がる。月乃もただただ親友の美しさと努力の成果をたたえたくて、精一杯手を叩いた。


「では、次は皆さんで揃って今と同じ曲を」


 講師の号令であらかじめ決められた位置に散らばる。当然男役はフリッツひとりしかいないので、他は女生徒同士で組むことになる。最悪なことに、月乃の相手は亜矢だった。


 まずは足取りの確認のため、向かい合って両手をつないだ。はたから見ればわらべ唄でも始めそうな恰好だ。そのまま習った順のステップで動こうとするが、慣れない洋靴も相まって亜矢は相当苦戦している。

 幸い覚えだけはいい月乃は、淡々と習った通りの動きを繰り返した。亜矢は下を見て必死に足を動かしているものの、付いて行けずにいら立っている。

 横移動、回転、後歩、四半回転。延々と繰り返して、間もなく一曲が終わる。終わったら男役と女役を入れ替えて――。


「ああん、もう!」


 亜矢は最後、腹立ち紛れに思いっきり月乃の足を踏みつけた。月乃は思わず、痛みにその場に崩れ落ちる。


「っっ!!」

「あらぁ、ごめんなさいお姉様。ちょっと足がふらついて――」

「ぁ、ぐ……っ」

「な、何よ。そんなに痛がらなくてもいいでしょう?」


 あまりの痛みに、しゃがんだまま言葉が出て来ない。考え足らずの亜矢はわかっていなかったのだ。洋靴の木製の踵で草履の足を踏み抜いたら、相手がどうなるかなんて。



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