十五、冷血漢

 フリッツは素早く壁掛けのインバネスコートを羽織ると、丸卓子テーブルさつを叩きつけて外へ出た。すぐさま上空を見上げて、ピュイと指笛を吹く。すると近場の屋根に降り立ち主を待っていたフロッケが、再び翼を広げて羽ばたいた。白い影は一度ぐるりと青空を旋回して、そのまま西へと飛んでゆく。


「学園の方角かしら…?」


 遅れて表へ出た月乃が手でひさしを作りながら仰ぎ見ると、隣の男は吐き捨てるように舌打ちした。


「この間の襲撃からまだ二週間経っていない。しばらくはないだろうとタカをくくっていたが……急いで戻るぞ」

「きゃあああ!?」


 言うが早いか、フリッツは月乃の身体をさらうように掻き抱いた。彼女の上体を肩にかつぐと、まるで荷物のように片手で膝の裏を抱えて走り出す。月乃は後ろ向きのまま、パーラーの看板が遠くなっていくのをぽかんとした顔で見送った。あっという間に大通りへ突き当たると、今度は通りがかった鉄道馬車に飛び乗ってそのまま心橋しんばし方面を目指す。ステーションの手前まで戻ると、例の大柄な俥夫しゃふが待機していた。


「急ぎで学園まで戻る。お前の全速力を見せてくれ」

「へぇ、そりゃあ腕が鳴る。いやこの場合は脚か? まあどっちでもかまやしねぇ、合点承知!」


 乗り込むなり、男がくるま楫棒かじぼうを取って座席の足元が浮いた――のも束の間。間を置かず、ドン! とものすごい勢いで走り出した。ぐんぐん他の人力車や大八車を追い抜いて、瞬きするうちに心橋の景色が遥か彼方となる。背高の俥夫の全力は一歩が飛ぶように大きく、彼が地を蹴る度にバネの入った座面がガタガタと跳ねた。どうやら行きの速度は彼にとっては流し程度で、かなり丁寧に走ってくれていたらしい。月乃は舌を噛まないよう口を引き結んで、幌骨ほろぼねに掴まっているのが精一杯だった。


 そうしてわずか行きの半分程の時間で、元居たところと同じ学園の橋の前に到着した。


「だあーーっ!」


 帰り着くなり、俥を停めた俥夫は盛大に地面に大の字に倒れ込んだ。さすがに限界らしい。

 さんざん揺さぶられ、翻弄され続けた月乃は酔って青ざめていた。目まぐるしく変化する景色はさながら回り灯籠とうろうのようで、今も頭の中がぐるぐるしている。


「ごめんなさいフリッツさん。私、ちょっと……」

「悪かったな。少し休んでおけ」


 一方、フリッツは俥が止まるなり素早く飛び降りる。ばさりと漆黒の外套マントを翻すと、あっという間に学園の方へ走っていってしまった。

 月乃はしばらく呼吸を整えてから、やや遅れて学園へと戻る。フリッツの姿を探そうとしたとろで、正門脇の赤松にフロッケが留まっているのが目に入った。


「フロッケ! ……待っていてくれたの?」


 ギェ、と一声鳴いて羽ばたいたフロッケに導かれるまま駆けていくと、中庭の隅、生垣の薔薇を株分けして育てている薔薇園のあたりに、何人かの人間が集まっていた。

 フリッツと学園長。地べたに座り込んで泣いているのは御納戸袴の女生徒。それから――。


「お嬢様!」

「暁臣さん? どうしてこちらに?」


 今朝面会したばかりの暁臣だった。月乃が驚き問いかけると、男の眉間がぎゅっと険しくなる。促すように伏せられた暁臣の視線の先を見て、月乃は恐怖にすくみ上がった。


 フリッツがしゃがみ込んで検分している赤土の地面に、ひとりの男が倒れていた。仰向けに寝かされた顔面は蒼白で、意識はないらしくぴくりとも動かない。服装は暁臣と似たような書生風、すぐ側には男のものと思われる学帽が落ちていた。そして先程からその男の身体にすがりついてわあわあと泣いているのは、月乃と同学年のスミ江である。


「彼は帝大の同期で、下宿先が同じなんです。ついさっき学園こちらから主婦さんに連絡が来て、彼の実家に連絡を取る間、俺が代わりに……」

俊雄としおさん! 俊雄さん……っ!」


 それが男の名前なのだろう、スミ江はうわ言のように繰り返す。しばらく声を上げて泣いていたが、学園長に促されて、第一発見者だという彼女はようやく、つっかえつっかえ事情を語り始めた。


「彼とは今日、ここでお会いする約束をしていたんです……」


 中庭の薔薇園で、人目をはばかるように若い男女が会う約束。それがいわゆる“逢い引きランデヴー”だろうということは、にぶい月乃にも分かった。


「ま、待ち合わせの時間にここへ来たら、彼が、彼が倒れていて……わあああああ!」


 そこまで言ってまた、男の胸元に倒れ伏す。ヒックヒックと肩を震わせ泣き続ける彼女の背に、学園長はもてあそんでいたカイゼル髭を手放し叫んだ。


「井崎スミ江くん、君は今月末で結婚のために退学する予定だろう。それが男と密会とは……!」

「え……!?」


 同学年の月乃にとっても初耳である。

 月乃の驚きを他所に、普段あまり大声を出すことのないスミ江はキッと学園長をにらみつけた。


「決められた縁談に逆らうつもりはございません! ただ……。ただこの学園から去る前に、もう一度だけ俊雄さんにお目にかかりたくって!」


 いくら薔薇学園で真面目に学業を修めようとも、女にとって家の決めたことは絶対だ。望まない婚姻を嘆くスミ江の姿は、月乃が――あるいはこの学園に通う女生徒皆が、そう遠くない未来に通るかもしれない道である。胸が痛かった。

 月乃がぎゅっと身体の横で拳を握る。すると隣に立っていた暁臣の手がそっと、それに触れた。


「彼は最近、思い悩んでいるようでした。貴女の幸せを願う気持ちと、自分の想いとの間で」

「今日最後にお会いして、美しい思い出になったなら憂いなくお嫁に行けると思ったんです。それが、こんな……!」


 暁臣はふたりの関係を知っていたのだろう。穏やかに告げれば、スミ江はまた、はらはらと涙をこぼした。

 一方、俊雄の横に片膝をついたフリッツは若い男女の感傷などどこ吹く風、手首の脈、頸部に穿うがたれた二つの傷、周囲の土の跡をひとつひとつ丹念に確認している。


「敷地の魔避まよけが割られた形跡はない。これまでと同じく噛みあとがあるが、血はほとんど吸われていない。だが――」

「だが?」

「吸われたのは血ではなく、。生命力そのものだ。回復するには少し時間がかかるだろう」

「俺が連れて帰ります」


 暁臣の手のぬくもりが月乃から離れて、彼はそのまま俊雄の頭の横に膝をついた。意識のない男の上体を起こして、腕を肩掛けに担ぐ。するとじっとその様を横で見ていたフリッツが、不意に暁臣に話しかけた。


騎士殿ヘル・リッター、お前の見立てはどうだ?」

「わかりません。ここは匂いが多すぎる。土の匂い、白薔薇ホワイトローズの匂い、それに血の匂い」

「血の匂いは追えるか?」

「――女性はいつでも、血の匂いがしますので……」


 暁臣の濁した言葉に、フリッツは「なるほどな」とだけつぶやいた。そのまま暁臣が友人を抱えて立ち上がるのと同時、彼も膝の土を払ってその場に立ち上がる。


「大丈夫なの? 病院には行かなくていいの? ねえ、俊雄さんは大丈夫なの!?」

「命に別状はないだろう。だが念のため、陸軍病院へ連れて行け。加納かのうの名を出せば話が通るようになっている」

「私も! 私も参ります!」

五月蠅うるさい」


 なおも追いすがろうとしたスミ江に、フリッツはいつもの英国紳士の仮面を被ることも忘れて盛大に舌打ちした。


「少しでもこいつを助けたいという気持ちがあるのなら、今すぐ尋問に協力しろ。君には聞かねばならないことが山程ある」

「ロクに悲しむ時間もくださらないの!? 冷血漢! 人でなし !」

「悲しんで事件が解決するならそうしろ」

「ひどい! あんまりよ! わああああ……」


(違うわ。フリッツさんは自分自身にいら立っているのよ……)


 泣き崩れるスミ江と、苦々しい表情でそれを見下ろすフリッツ。ふたりの姿を間近で見て、月乃の胸はまた、締め付けられた。



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