十四、影の主

 吟座ぎんざの中程に支店を置く高級時計店。土蔵造りの二階建ての店舗の上は、舶来の大時計が掛けられた時計塔となっている。街の端からでも見える文明開化の象徴――そのすぐ真向かいにのきを構える洒落しゃれ洋風食堂パーラーで、月乃は遅めの朝食兼昼食にありついていた。

 既に胡瓜きゅうりの薄切りが挟まれた英国風サンドヰッチを完食し、今はちょうど食後のアイスクリンに舌鼓を打っている。


「おいしい……」


 銀鉢に乗った乳製の氷菓子。柄の長いさじですくって口へ運べば、ひんやり冷たくてあっという間に溶けてなくなってしまう。


「何杯でも食べられそうです」

「次からは君の腹の機嫌も考慮することにしよう」


 月乃の向かいで長い脚を組んだフリッツは、そう言ってすぱあ、と煙を吐き出した。赤い火のともった紙巻煙草シガレットは、先程煙草店で新たに仕入れた舶来品である。

 丸卓子テーブルに肘をついて紫煙をむ様はひどく気だるげだが、元々はこのアイスクリンも彼が追加で頼んでくれたものだった。たまたま隣の席に運ばれてきたものを、月乃がまるで宝石を見るような眼差しで見つめていたためである。


 アイスクリンを大事に味わいながら、月乃は意を決して目の前の男に尋ねた。フリッツと初めて出会ったあの日、彼が滅した影の怪異についてである。


「あれは低級の使い魔、文字通りのだ」


 ふたりの今居る場所が場所だけに濁されるかと思ったが、フリッツがあまりに堂々と答えたので、月乃はかえって心配になって店内を見回してしまう。だが当の男は「いずれ知れることだ」と殊更ことさら隠す気もないらしい。月乃もそれにならって、こそこそするのはやめることにした。


「あの影が、被害者――ええと、要するに今朝の新聞に載っていた衰弱体で発見されたという男性――を襲った犯人ではないのですか?」

あれはあくまでの思念のかたまりのようなもの、ごく単純な命令を実行するだけのかりそめの存在に過ぎない」

「つまり、その影の主こそが犯人ということですか?」

「だろうな。事件の当日、フロッケを偵察にやったところで相手に嗅ぎつけられた。あの時の影は相手の反撃カウンターだ」


 あの日フロッケが怪我をしていたのは、悪魔殺しデモントーターであるフリッツの追跡を恐れた犯人――つまりは怪異の仕業であるらしい。

 口に含んだ甘味を、月乃は思わずごくりと嚥下えんげする。そして今一度、今朝の新聞の見出しを思い出した。


「犯人は“吸血人きゅうけつびと”なんでしょうか?」


 月乃の言葉に、ぴくりとフリッツの眉が跳ね上がる。


「きゅうけつびと? ――吸血鬼ヴァムパイヤーはヒトではない」


 吸血鬼ヴァムパイヤー。彼の追う怪異の名。生まれて初めて聞いたその言葉を、月乃は胸の内で反芻はんすうする。


「純種の吸血鬼ヴァムパイヤーであれば永遠に等しい寿命を持っている。その肉体は老いを知らず、どんな怪我も立ちどころに回復する。奴らを滅することができるのは、特別な呪の刻まれた武器、あるいは同胞どうほうの刃だけ」

「同胞?」

「同じ吸血鬼ヴァムパイヤーの純種同士、あるいは純種が気まぐれで人と交わって生まれる半鬼人ダムピールだ」


 そこで一旦会話を区切って、男は席のすぐ隣、通りに面した窓を見た。たっぷりと紫煙を吸い込んで、窓辺に向かって細く吐き出す。その間、月乃は惜しみつつも器のアイスクリンを平らげた。


「ゔぁむぱいや……そんな恐ろしいものが、学園の周囲に隠れているんですか?」

そう考えている」

「フリッツさんの考えはそうではない、ということですか……?」


 月乃の指摘に、フリッツはにやりと口角を持ち上げる。


吸血鬼ヴァムパイヤーにとって、吸血は本能だ。奴らにとってそれは活動を維持するための食事であり、快楽を得るもの――性行為の代償でもある」


 「つまり」。フリッツは言葉に貯めを作って、灰皿に火種を落とした。そのまま美しい顔を向かいの少女に近付けると、打ち明け話のようにそっとささやく。


で満たされるはずがないのだよ」


 少し手を伸ばせば触れそうな距離。こちらを見つめる灰眼は微笑みの形に細められ、けれど妙に妖艶で。月乃は状況が呑み込めず、目をぱちくりさせる。


(つまり、血を吸わないと吸血鬼ヴァムパイヤーもお腹が鳴ったりするのかしら……?)


 先程の己の失態を思い出し、少し的外れな思考をする月乃。特に恥じらうでもないその反応が想像と違ったのか、フリッツは少しムッとした様子で乗り出していた身体を起こした。椅子の背もたれに背中を預けて木製の猫脚をきしませると、一転してぶっきらぼうに「それに」と続ける。


「血を吸われた者は普通は死ぬ。死ななければ吸血鬼ヴァムパイヤー眷属けんぞくとなり、同じように血を求める者になる」


 新聞記事によれば、被害者の男は死んではいない。血を求めて暴れたというような話もなかったし、過去の被害者も同様ということだろう。


「事件の頻度と、被害者の状況。その二点から、吸血鬼ヴァムパイヤーの犯行と断定できない、ということですね?」

「ああ、そのつもりだったのだが――。どうやら例外もあるらしい」

「えっ?」


 突然、フリッツはまだ長い煙草を灰皿にジュ、と押し付ける。そのまま立ち上がったかと思うと、窓辺に近寄り外を見た。釣られた月乃が席から首を伸ばして硝子がらす越しの秋空をうかがうと――。


 吟座の上空を、一匹の白いふくろうが旋回していた。

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