十三、俺は聖職者ではない
突然現れた謎の少年は、目が合うなりにこりと微笑んだ。ちょこんと頭にかぶった緑の帽子の高さを差し引けば、月乃より少しだけ背が低い。
「お姉サンの目、キラキラしてる。黒真珠みたいにきれいダネ」
まるで口説くみたいに屈託なくそう言って、ぴったりと横からショウウインドウを覗き込んでくる。緑の帽子の合間からはみ出した金の巻き毛、それに少したどたどしいしゃべり方。身に纏った簡素な
(異人さんかしら。随分人なつっこい子だわ。ご両親はご一緒じゃないのかしら……)
「お姉さんは絵が好き。そうデショ?」
「ええ、そうよ。私は絵が好き。見るのも描くのも好きよ」
「ぼくネ、歌が得意だヨ」
「へえ……。そうなの」
突然の突飛な自己紹介も、子供にはよくあることだろう。月乃はさしたる疑問も抱かずに相づちを打つ。
「ネ、ぼくの歌きいてくレル?」
「……? ええ、いいわよ」
月乃の返事を待たず、少年は朗々と唄い始めた。歌詞らしい歌詞はなく、ただ旋律だけの歌。聴きなじみのない調べだ。異国の歌だろうか。美しく、優しく、どこか悲しげで――。
「きれいな声……」
美しい倍音が、脳に直接響き渡る。呼吸すら
「ねぇ、ぼくのおうちにおいでヨ。ちょっと狭いケド、きれいな
だからおいでヨ、とささやく声は、
「――!?」
おかしい。この子供は普通じゃない。
月乃の頭ににわかに冷静さが戻ってきた。あわてて一歩、距離を取ろうとする。だが少年はそれを許さず、月乃の右腕を掴んだ。その手はしっとりと冷たく湿っていて、振りほどこうにもびくともしない。
「い、痛……っ!」
「はやく来テ。ひとりぼっちはさみしい。さみしいかラ一緒に来て。早く。早く!」
「嫌!」
「ぼくの花嫁にナッてよ!!」
細腕から想像もつかないほどの驚くべき力で、グンと引かれた。月乃は転げそうになって前方に倒れ込む。少年はその身体を受け止めて――――
「ギヤアアアアアアアアアア!!」
次の刹那、少年は空気を引き裂くような悲鳴を上げた。同時に、何者かが後ろから月乃の体をふわりと抱き込む。驚いて見上げると、少年の手の甲を黒い柄のステッキが貫き、白塗りの壁に縫い付けていた。
「ミスタァ……?」
途端に月乃はインバネスのケェプの中、煙草とムスクの香りに包まれる。ステッキを手に、凍りつくような視線で少年を射すくめるのはフリッツだった。そのまま彼は月乃を抱いて数歩、華麗に飛び退く。
「
「Halt's Maul〈うるさい〉!」
氷点下の声音で吐き捨てると、なんと相手からも獨語が返ってくる。そこからは言い合いだった。獨語による口汚い罵倒語の応酬――だと思うのだが、もはや月乃には聞き取れない。
「ミスタァ……ミスタァ? フリッツさん!」
抱き込まれた腕の中、必死に
「こいつは
「にくす……?」
「女を誘惑して水底に引きずり込む水辺の怪異だ。おおかた舶来の荷にくっついて来たんだろう」
「……!」
この辺りは水路が多い。もしもフリッツが助けてくれなかったら――。その先を想像して、月乃はぞっとした。貫かれた手を
「失礼なヤツ。ぼくは花嫁を探しているだけダ」
「Ah? 花嫁か生け贄かなぞ俺が知るか。水底に引きずり込むには変わりないだろう」
「誰でも彼でもじゃナイ。花嫁だケ」
連れ去られる側からしてみればたまったものではないが、彼には彼の理屈があるのだろう。
「俺は聖職者ではない。わざわざお前を
「何故ダ。……お前の花嫁なのカ?」
「そうだ」
「そうなのカ?」
あっさりと肯定されて、
「…………。そ、そうです」
「そうカ……」
真実はどうあれ、今は話を合わせるしかない。抱かれた腕の中から必死に何度も頷くと、我が意を得たりとばかりにフリッツの手が月乃の頭を撫でた。
「ごめんネ、お姉サン」
その答えに納得したのか、急に少年から敵意が消えた。そのままこちらに背を向けると、トボトボと路地裏に消えてゆく。気付けば周囲のざわめきが息を吹き返して、大通りからは馬車鉄道の馬のいななきが聞こえた。
「……あの、ありがとうございます……」
どくどくどく。息づく男の鼓動をその胸の内で聴いた後。
ぴったりとくっついている身体を離そうと、月乃は目の前の胸板を押した。ようやく甘い拘束を解かれて改めて少年の去った方を見ると、彼の立っていた
「異国の地でひとりぼっちなんて、なんだか可哀想ですね」
何気なくこぼした言葉に、フリッツが片眉を跳ね上げた。
「なら、奴の花嫁になって永遠に水底で暮らすか?」
「それは……」
「できません」、と月乃が口ごもる。すると突然、フリッツが無言のまま彼女の肩を押した。
「きゃっ! 何……を」
月乃はたたらを踏んで後方の建物の壁際に押しやられた。そのままフリッツがドンと頭上で片手をついたので、白壁と黒づくめの男の身体、狭い隙間に閉じ込められてしまう。
抗議に口を開きかけたところで、ステッキの銀の持ち手が顎の下に押し付けられた。無理矢理ぐいと上向かされて目を見張ると、冷たい灰の瞳がこちらを見下ろしている。
「お人好しは君の美点だが、安易に同情すべきではない。彼らはヒトとは異なる道理を生きている」
彼は
狩人の
「ごめんなさい……」
追い詰めれた野兎のように瞳を潤ませると、突きつけられたステッキが下ろされた。フリッツは壁に手を置いたまま、ハァ、と息を吐く。
「どうやら君は“
「アトラクタァ?」
「体臭、容姿、気質、
「私がですか?」
「これまでの人生で心当たりがないのか?」
そう言われて我が身を振り返るも、具体的には思いつかない。ただ昔から夢見がち、ありもしない空想を現実のようにしゃべるとはよく言われていた。
「わかりません……。昔は
「君の
“貴女は面倒ごとに巻き込まれやすい
今朝の暁臣の言葉がふと、胸によぎった。
暁臣の過剰な心配ぶりに、いつものお小言。ただの過保護だと思っていたけれど――。本当は月乃の知らないところで危険な場面はたくさんあって、暁臣はそれを陰ながら助けてくれていたのではないか?
遥か昔の記憶へ思考が飛びかけたところで、コツンとステッキが足元の石畳を叩く音がした。ハッとして意識を目の前に引き戻すと、フリッツの美しい顔がこちらを見ている。
「君は己の危うさについて自覚的になるべきだ。――例えば今」
「今?」
月乃が
「俺を前にして、他の男のことを考えるのはいただけないな」
「えっ……?」
そのままフッと上から額に息を吹きかけて、月乃の前髪を乱す。
「Du bist Wunderschön 〈綺麗だよ〉」
それは眠り姫の枕元でささやくかのような、優しく甘い声音だった。あまりの驚きに、月乃は石のようにぴしりと固まる。
「Du bist wie eine Blume〈花のようだ〉」
「え、ええっ、えっとあの」
壁についた手は肘まで折り曲げられて、整った顔がみるみる近付く。上向かされた頬に白金の髪がかかり、紅の引かれた唇を親指でなぞられた。突然の出来事に息もできない。――そして次の瞬間。
朝から何も口にしていない月乃の腹の虫が、空腹に耐えかねて情けない鳴き声を上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます