十二、“とっておき”
呉服店志まやの一番奥、
「今日明日からお召しになれるよう、お仕立て上がりのものをご用意しましょうね」
張り切る女将の号令の下、一番始めに用意されたのは制服の袴だった。さすがの新品はひだの形もぱりっと美しく整って、代名詞である御納戸の青緑色も目に鮮やかだ。入学以来履き続けて擦り切れた月乃の袴は、この時ようやくお役御免となった。
次に店員達は方々に散って、かと思うや
そうして店の女衆総出の思案の結果、膨大な着物の中から二点を選りすぐった。ひとつは落ち着いた淡藤色の牡丹唐草の小紋。もうひとつは女学生らしい鳥の子色の
にこにこと満足げな女将の横で、ひとりの店員がぼそりとこぼした。
「大変お似合いですけども……ちょいとばかし落ち着きすぎというか……」
「あら、どちらもお品は一級品よ」
「ええそれはもちろん、わかっておりますけど。御納戸袴の薔薇学園といえば、華やかな士族華族のお嬢様方の集まりでしょう。せっかくお美しい盛りなんですもの、もっとめいっぱい着飾ってもようございません?」
要は地味だと言いたいのだろう。月乃くらいの年頃の娘は大抵華やかなものを好むし、
店員の素朴な疑問に、女将は「わかってないわね」と言わんばかりに人差し指を振った。
「天下の薔薇学園だろうが下町の洗濯場だろうが、女がひとところに集まれば
「へえ。御納戸小町も意外に俗っぽいところがおありなんですねえ。私はてっきり、金持ち喧嘩せずを地で行く上品な方ばかりかと」
「ほほほ。あの福澤先生もおっしゃっててよ。“天は人の上に人を造らず”ってね」
「はあ。なるほどねえ……」
小難しい話を持ち出されて、女店員はわかったようなわからないような相づちを打つ。女将は「そういうものなのよ」と目配せして、「ところで」と急に明るい声音で月乃の前に向き直る。
「うふふ、そうは言ってもやっぱりねえ……。ひとつッくらいは“とっておき”があってもよろしゅうございましょ?」
期待のこもった眼差しで見つめられて――気付けば月乃は、コクリとひとつ頷いていた。
◇
一方その頃フリッツは、店内に置かれた籐の長椅子にひとり腰掛けていた。
「〈女の買い物は古今東西なんだってこんなに長いんだ?〉」
こぼれた愚痴は獨語だった。
月乃が衝立の裏に連行されてからゆうに二時間。既に手持ちの煙草は吸い尽くしていた。きゃいきゃいと女達の
さすがにそろそろ文句を言ってやろうと立ち上がったところで、にっこりと満面の笑みを
「お待たせしました
ほらほらと手招きされて、衝立の陰から月乃が現れる。
その姿に、フリッツは息を呑んだ。
二尺袖の着物は鮮やかな朱赤。雲取りに色とりどりの菊と桜が描かれている。帯はモダンな幾何学模様で、控えめな金絲がきらりと覗く。どちらも普段の月乃なら選ばないであろうハッキリとした色柄だった。だがそのきらびやかさは彼女の
「ふふふ。きちんとお顔も見せて差し上げませんと」
再び促されて、うつむいていた頭が持ち上がる。その顔は、ほんのわずかに化粧が施されていた。
軽く白粉の叩かれた頬は、薄い皮膚の下で息づく血潮を閉じ込めたような薄紅色。小さな唇には着物と同色の鮮やかな朱が引かれている。黒い瞳は恥じらいに潤んで、宝石のように輝いていた。
「あの、変……ではないですか……?」
ようやく絞り出したか細い声。よほど緊張しているのか、その手は身体の前で合わされたまま小さく震えている。
「ああ。……いや……」
フリッツは珍しく言い淀んで目を逸らす。一度咳払いをして、ちらりと横目で月乃を見た。
「まぁ……悪くないんじゃないか」
たったそれだけ?
隣に立っていた女将が口の形だけでそう訴える。当の月乃は少し困ったように笑って、重ねた手を腹の前できゅっと握った。
「外で待っていろ」
一瞬流れた沈黙を打ち消すように、フリッツがぼそりとつぶやく。そのまま女将と支払いなど込み入った話を始めたので、月乃はそれを立ち聞きすまいと言われた通りに先に店を出た。
表は相変わらずの快晴だった。太陽は正中を過ぎたが、南北に伸びた通りに落ちる影はまだ短い。行き交う人々は皆どこかせわしなく足早だ。
月乃は改めて、着飾られた自分の全身を確認する。遙か昔、両親とアーク灯の見物に
“まぁ……悪くないんじゃないか”
普段は歯に
ついさっき、美しい着物に袖を通した瞬間はあんなに高揚していたはずなのに。そもそもこんなに素敵な戴きものを受け取っておきながら、後ろめたい気持ちを抱くこと自体、ひどく不誠実ではないか。じわじわと己への嫌悪感が湧いてきて、はぁ、と小さなため息を吐く。
(ミスタァ・イェーガーが店から出ていらしたら、ちゃんとお礼を言わないといけないわ)
――きちんと彼の顔を見て、笑顔でありがとうと言えるようにしなくては。吟座の賑やかな景色を見て、沈んだ気持ちを
そう考えを切り替えて、うつむいていた顔を上げる。その時不意に月乃の目に飛び込んできたのは、
それは木箱に入った舶来品の水彩色鉛筆だった。
(わあ、素敵な色……。まるで虹をそのまま閉じ込めたみたい)
父の形見の宝物、ミスタァKに何気ない日常の風景を切り取って届けるための、月乃の水絵の具。大事に大事に使ってきたけれど、色によってはもうほとんどチュウブが空になってしまっている。この間など学園の森で美しいオオルリを見かけたのに、その青い翼を描き留めるための青がなかった。
それに引き換え、窓
(こんな素敵な色が揃っていたら、きっと空の青も海の青もオオルリの翼だって、思うままに描けるでしょうね)
月乃がうっとりと羨望の眼差しでショウウインドウを眺めていると、誰かがちょんちょんと後ろから下ろしたての着物の袖を引っ張った。
「お姉サン、絵が好きなノ?」
「えっ?」
振り返った月乃のすぐ後ろ。こちらを上目に見つめるのは、鮮やかな緑のフエルト帽子を被った見知らぬ少年だった。
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