十一、謡川様のご息女

 近世に整備された五街道のひとつ、東海道。そのうち心橋しんばしから鏡橋きょうばしまでを結ぶ区間が、いわゆる吟座ぎんざ通りである。

 開国直後の大火を機に整備されたこの通りは、西欧にならって横幅十五げん(約二十七メートル)と大変広い。人力車がひっきりなしに行き交う車道には軌道が埋め込まれ、その上を馬車鉄道が往来している。通り沿いには煉瓦レンガ白漆喰しろしっくいを塗り込んだモダンな建物が整然と並び、洒落しゃれた英字の看板が華を添えている。


 秋晴れの空は澄み切った青で、どこまでも広く高い。心橋ステーション近くでくるまを下りたフリッツと月乃は、通りの両脇に整えられた煉瓦敷きの歩道を連れ立って歩いていた。

 煉瓦家屋の二階からは露台バルコニーが張り出し、その下部は列柱が連なる歩廊アーケードである。煙草、時計、和洋菓子、家具にかばん――。店先には舶来品を中心に、様々の品が美しく飾られている。その前に立ち止まって歓談するのは、バッスルドレスを着こなす日傘の婦人と山高帽の紳士達だ。月乃は自分がひどく場違いな気がして、けれど華やかなショウウインドウの誘惑は拭いがたく、そわそわと辺りを見回している。


「ここに来るのは初めてか?」


 半歩前を歩いていたフリッツに問いかけられて、自分の挙動不審さがおのぼりさんのそれだと気付かされる。顔から湯気が出そうになって、かろうじて「いいえ」と小さく首を振った。


「子供の頃、何度か両親と一緒に来たことがあります。たしかその時はまだ、鉄道馬車は通っていませんでした。街路樹も松や桜だったような気がするんですけど……」


 そう言って見渡したのは、瓦斯ガス灯と共に歩道に並ぶやなぎの木だった。幼い月乃の記憶は正しく、以前の街路樹は松や桜だったが、水はけが悪くて定着せずに数年前に植え替えられたものである。あわただしい大通りの喧騒けんそうの中で、しだれ柳の細長い枝が風にそよぐ様は涼しげで心地よい。


「柳並木も素敵だわ」

「だが、帝都ではweideヤナギの下には幽霊が出るんだろう?」


 男がこの国の怪談の定番を知っていることに妙に感心してしまって、月乃はくすくすと笑う。


「吟座なら、夜も瓦斯灯やアーク灯がともっていて明るいもの。お化けもそうそう出てこられないんじゃないかしら」

「それもそうだ。いつかこの世の怪異を滅ぼすのは、悪魔殺しではなく文明だろう。……俺もそのうち食いっぱぐれるかもな」


 フリッツがインバネスコートの肩をすくめてみせたので、月乃はまた笑った。


(この方も冗談をおっしゃるのね)


 彼の新しい一面を垣間見るたびに、少し心の距離が近付いたようでうれしくなる。いつの間にか周囲の華やかさに気後れしていた自分は消え失せて、柳並木が風に揺れる音が自然と耳に届いた。


「私、柳が好きです。秋の終わりには黄色い葉っぱが吹き流しのように風になびくのが綺麗です。冬に葉を落とした枝にうっすらと雪が積もるのも素敵だし、それに春になってかわいらしい新芽がたくさん芽吹くのも――」


“ま~た月乃ちゃんの空想ポエムが始まったわ”


 四季折々の景色を頭の中に思い描いたところで、千代の呆れ半分の笑い声が浮かぶ。ああ、またやってしまったな、と自分でも苦笑いしてフリッツの表情をうかがうと、優しくこちらを見下ろす灰の瞳と目が合った。


「君の目にはこの景色がさぞ鮮やかに見えているのだろうな、Seleneセレーネー

「……?」


 憧憬の色をたたえた声音。その口から紡がれた神話の女神の名を、月乃は知らない。

 聞き返そうとしたところで、ステッキを持つフリッツの手がすっと背に添えられた。そのまま大通りの角を曲がり、躊躇ちゅうちょない歩みで端から二軒目の店へと導かれる。初めから目的の店は決まっていたようだ。“呉服 志まや”と看板の掲げられた煉瓦家屋の店頭には、大輪の菊と扇が描かれた友禅が飾られている。


不律ふりつ・いえーがー様ですね? ようこそお越しくださいました。ご紹介くだすった加納かのう様より御用向きは伺っております」

「ああ」


 店に踏み入るなり現れた女将に、フリッツはごく自然に帽子を預けて、それからぐい、と月乃の背を押し出した。

 広い店内は履き物のまま見て回れるようになっていて、色とりどりの反物や帯が陳列されている。普通呉服店は座売り――客が座敷に上がり、店員が奥から品物を持ってくるやり方――が主なので、かなりモダンな店構えであった。こんな貧相な服装でやって来て申し訳ないなという内心で月乃が前に立つと、その顔を見た女将は「あら」と小首をかしげる。


「もしかして、謡川様のご息女でいらっしゃいます?」

「は、はい」


 突然ずばり家名を言い当てられて困惑していると、女将はにっこりと上品に微笑んだ。


「わたくし共は元々朝草あさくさに店を構えておりましてね、謡川様には以前からお引き立ていただいております。お嬢様も何度かご両親とお見えだったのを覚えておりますよ」

「まあ」


 言われてみれば確かに、かつて実母が贔屓ひいきにしていた呉服店は朝草にあった。さすが老舗しにせ大店おおだなの女将。たった数度、子供の頃しか知らないかつての客の顔を記憶していた。


「新しもの好きの主人が『これからは座売りでなく立ち売りの時代だ』なんて言うもんですから、数年前に吟座こちらに移ってきたんですの。まあまあまあまあ、こんなにお綺麗になられて……」


 ちょうど実母と同年代であろう女将は、まるで我が子を見るように目を潤ませた。


「お父上のお話はわたくし共も聞き及んでおります。本当に残念なことで……。大変ご立派な方でしたもの、ええ」

「ありがとうございます」


 哀悼の言葉に控えめな笑みで返すと、女将は感無量、と言った具合に月乃の手を取る。だがここのところの懲罰の掃除ですっかり荒れてしまっているその手の感触に、女将の表情が曇った。


「……お辛い立場でいらっしゃるのね……」


 ぼろぼろの手、そしてぼろぼろの着物と袴。その出で立ちから、女将は月乃のすべてを察したようだった。「先日奥様と下のお嬢様がいらして、立派な訪問着を何点も仕立ててらしたのに……」とつぶやくのを聞いて、月乃は目をぱちくりさせる。


(お義母様と亜矢がこの店に来ているの?)


 ふたりがこの店を利用していることもだが、何より彼女らがそんな立派な着物をいくつも仕立てる金は一体どこから出てくるのだろうかと驚く。父の遺産をやりくりすれば女中を雇って屋敷を維持するくらいは可能だろうが、それほど贅沢ぜいたくができるとも思えない。


 深入りしかけた思考を引き戻すように、女将が月乃の荒れた手をぐっと握った。


「ええ、ええ。お任せくださいな。お品は一流、でも決して華美じゃないものをご用意いたします。御納戸の袴ももちろん揃えてございます。――不律ふりつ様、わたくし共でお嬢様に見立ててようございますね?」

「ああ、適当にやってくれ。俺は着物はわからない」


 フリッツのそっけない答えに、女将はずい、と一歩詰め寄る。


「まあ、ご謙遜を。加納様から東西の風流に通じた方だと伺っております。お美しいか、お似合いになるかくらいはおわかりになりますわね」

「ああ……」


 迫力に押されたフリッツが頷くと、女将はにっこり笑って月乃を店の奥へと連行するのだった。

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