十、彼女の名前

「お嬢様、本当に本当に大丈夫なんですね?」

「ええ。きっとミスタァ・イェーガーはこの辺りが不慣れだから、道案内がほしいだけよ」

「何かあったら大声を出してください。お嬢様の声なら、百里向こうからでも聞きつけるので」

「ふふふ。わかったわ」

「本当にわかってます? だいたいお嬢様は不用心が過ぎるんです。以前河原に遊びに行った時も――」


 月乃は不満たらたらの暁臣をなんとかなだめすかして正門まで送った。その間も延々と続くお小言はいつものこと。月乃はその姿を昔から変わらないなあ、とかえって微笑ましく思っている。

 暁臣はすれ違った婦人が振り返るくらいには整った凜々しい顔立ちをしているのだが、堅物な性格が災いしてか浮いた噂のひとつも聞かない。彼の兄は帝国陸軍に所属しているので、実家の紡績会社を継ぐのは暁臣だろう。年齢的にも立場的にも、縁談のひとつやふたつありそうだが。


「わざわざ朝から訪ねてくださってありがとう」

「お嬢様……」


“心配なんていらないよ。私は大丈夫”


 そんな気持ちを込めて、正門の前で立ち止まった月乃は努めて明るく笑った。向かい合った暁臣は彼女に触れようと手を伸ばしかけて、思い留まる。不自然に行き場をなくした手を一度ぐっと握り込むと、そのままくしゃくしゃと己の後ろ頭を掻いた。


「――いえ、また近々。天長節てんちょうせつの舞踏会には出席されますか?」

鹿茗館ろくめいかんの?」

「ええ。俺は親父の付き添いをしなくてはならなくて……。男で連れ立つなんて阿呆らしいと言ったのですが、貿易事業の拡大のために諸外国に縁故コネを作りたくてしょうがないようで。薔薇学園の女生徒の方々も皆、招待されていますよね?」


 国の欧化政策の一環、異国との社交場として建設された鹿茗館(ろくめいかん)。

 連日華やかな行事で世間をにぎわせているその場所で、十一月の天長節に一年で最も大きな西欧式の舞踏会が開かれる。国の威信をかけたこの催しに、圧倒的に足りないのが西洋の舞踏や礼法に通じた女子の踊り手であった。そのためそれらの教養を兼ね備えた薔薇学園の女生徒達は毎年、舞踏会の華として駆り出されている。


「私は……留守番よ。華やかなところは向かないもの」

「そんなことはありません!」


 強い口調で否定されて月乃が驚きに目をしばたたかせると、暁臣はハッとした表情で固まった。途端に散切ざんぎりの黒髪がかかった耳が真っ赤に染まる。かと思うとあわてて一礼、「また来ます」とだけ告げて足早に去って行ってしまった。


 月乃は正門から暁臣の背が見えなくなるまで見送ると、すぐに彼が去ったのとは反対方向へ薔薇の生垣の道を歩き出す。学園と市街を隔てる橋を渡ると、黒塗りに蒔絵まきえで松が描かれた二人乗りの人力車の背が見えた。その手前で欄干らんかんの端に背を預けたフリッツと、彼に負けないくらい背の高い俥夫しゃふが話し込んでいる。


「すみません。お待たせしました」

「いいや」


 駆け寄った月乃が頭を下げるのを、フリッツはひらりと片手を挙げて返した。その隣で、大きな体躯に似合わず人なつっこそうな俥夫がにっかりと歯を見せる。


「へえ。こちらが不律ふりつの旦那が言ってらした、怖い物知らずのお嬢さんですか」

「余計なことを言うな」


 フリッツはあからさまに舌打ちすると、長い脚でくるま楫棒かじぼうをまたいだ。早速乗り込むのだと思って見ていると、彼は立ち止まってこちらに振り返る。そのまますっと、ごく自然に月乃の前に右手を差し出してきた。月乃がその意味をはかりかねてきょとんとしていると、戸惑う彼女の左手をフリッツが取った。すぐにふわりと引き寄せられて身体が近付いたかと思うと、軽やかに俥の蹴込けこみへと押し上げられる。まるで優雅な円舞ワルツのような、一瞬の出来事。

 そのまま涼しい顔で隣に座った男をちらりと盗み見て、月乃はなんだか落ち着かない気持ちだった。先日学園の裏庭で投げやりに煙草たばこをくゆらせていたこの異人は、女性を重んじる西洋の礼法をごく自然に実践できる紳士でもあるのだ、と肌身で感じて。


「行き先は“心橋しんばしすてんしょ”でよろしいですか」

「ああ」


合点がってん」と威勢のいい返事が聞こえたが早いか、俥夫が楫棒を取って座席の足元が浮く。俥はそのまま街道を目指して滑らかに走り出した。


(心橋になんのご用事なのかしら……?)


 心橋といえば汽車の発着駅で、その先の吟座ぎんざから二本橋にほんばしにかけては流行の最先端をゆく繁華街である。


「何をするんですか?」

「買い物だ」

「何を買うんですか?」

「お前のそのボロ雑巾のような服をどうにかする」

「!」


 まさか自分のためにこの俥が走っているとは思わず、月乃は驚きでぎゅっと膝の御納戸袴を握った。申し出は至極もっともだが、月乃に心橋吟座の一等地でのきを連ねるような店で服を揃える金があるはずもない。


「あ、あの、私……その」


 武士は食わねど高楊枝たかようじ、とは既に過ぎ去った時代の言葉であるが、士族の娘として赤裸々にふところ事情を打ち明けるのははばかられた。困窮しているのはあくまで月乃自身なのに、亡き父の名誉にも関わる気がして。

 とはいえ打ち出の小槌こづちがあるわけでもなし、正直に述べる他ないだろう。月乃はのどの奥から声を絞り出した。


「……お金がないんです……」

「金? 金なら俺が持つ」

「え!?」


 ちょうど俥の車輪が小石に乗り上げたのとあまりに驚いたのが重なって、月乃の尻が一瞬、座面から浮いた。


「どうしてですか? そこまでしていただく義理がありません!」

「別に、俺がそうしたいからそうするだけだ」

「でも……。やっぱり、受け取れません」

「大抵の女は、服でも宝石でも、喜びこそすれ拒みはしないがな」

「え、そ、そんなの、困ります。本当に、困ります。お返しできるあてがありません……」


 返せない借りは作れない。断り方は控えめだがあくまで固辞する月乃に、軽快に俥を引く俥夫がくつくつと忍び笑いをするが聞こえた。片やフリッツは眉間を押さえると、ハァーーーーと長いため息を吐く。


Die Sturkopf強情者め. ――ではこうしよう。君は“Flockeフロッケ”を助けた。これからすることはその礼だ」

「ふろっけ?」

「ああ。だから君は堂々と善行の対価を受け取るべきだし、それに対して更に何かを返そうと考える必要はない」


“フロッケを助けた”。

 言葉の意味がわからずに、月乃はしばし逡巡しゅんじゅんする。


「……もしかして、あの白いふくろうの名前ですか?」

「教えていなかったか? の名前を」


 ぱちくりとまたたきして、互いに顔を見合わせる。――数秒の後に、月乃はこらえきれずに笑い出した。


「何がおかしい」

「ふふふふふ。いいえ、何もおかしくありません。……ふふ。あなたが付けた名前ですか?」

「そうだ」


「何か文句があるのか」とぶっきらぼうに言い放つと、フリッツは中折れ帽を目深に被り直しして視線をさえぎる。それが照れ隠しなのだと気が付いて、月乃はまた笑ってしまう。


「すてきな名前ですね。フロッケ……。ええ、ぴったりだわ」


“Flocke”。

 それは獨語で雪や羽毛のひとひら、ふわふわと漂うはかない一片を指す。


 目の前の男が、そんな浪漫的ロマンティックで可愛らしい名前を梟に付けているとは思わなかったのだ。とても意外で、けれど不思議と胸がおどった。

 久しぶりに心の底から笑って、後。月乃は呼吸を整えると、背筋をピンと伸ばして真っ直ぐに隣の男を見上げた。


「――わかりました。そのお話、ありがたくお受けします」


 帽子のつばの合間から覗く灰の瞳が、ほんの少し見開かれる。


「何故急に心変わりしたのかってお思いになりました?」

「ああ」


「だって……」と月乃ははにかんだ。


「あなたにとって彼女――フロッケはそのくらい大切な存在なんでしょう? 私が断ったら、ミスタァ・イェーガーのその気持ちを否定することになってしまいます」

「そうか」

「はい」


 微笑んで頷くと、フリッツは「だったら」と膝の上に揃えられた月乃の手を取った。そのままそっと己の口元に近付けたので、月乃は驚いて固まる。


「〈今日の君は、俺が買い取った〉」


 そう獨語でささやかれて、口から心臓が飛び出そうになった。先程と打って変わってぎこちない動きでもう一度見上げると、これまでで初めて見る、穏やかな微笑をたたえた男の顔がそこにあった。


「そ、それは……すごく語弊がある言い方だと思いますミスタァ・イェーガー」

「フリッツだ」

「…………」


 暁臣は別として、男女七つにして席を同じくせず、の教えの中で育った箱入りの月乃に、そう易々やすやすと男の名を呼べるはずがない。しばらく無言で見つめ合っていると、突然俥夫が噴き出して、げらげらと笑い始めた。


「こんなに必死な不律ふりつの旦那、初めて見たなあ~!」

「お前は黙って走れ」


 こつんとステッキの先で背中をつつかれて、俥夫はまた大仰おおぎょうに笑った。

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