九、暁臣さん

 月乃は腹の音と口惜しさをぐっとこらえながら台無しになってしまった朝食を片付けた。後で厨夫に謝らなければと思いつつ、空き腹のまま面会のため学舎の応接室に向かう。


「お嬢様!」


 ノックして部屋の扉を開けるなり、中で待っていた男が椅子から立ち上がった。散切ざんぎりの黒髪も爽やかな、書生風の出で立ちの青年だった。その意外な訪問者に、月乃は面食らう。


暁臣あきおみさん? どうなさったの?」


 彼の名は真上暁臣(まかみ・あきおみ)。謡川家とはかつての藩を同じくする真上まかみ家の次男坊で、月乃より五つ年上の帝大生だ。真っ白な立ち襟シャツに藍鼠あいねずの長着。ひだの折り目も整った紺のはかま。凜とした顔立ちの美丈夫である。


「どうもこうも! 今朝の新聞記事を見て飛んできたに決まってるでしょう」


 月乃と暁臣の間柄は少し特殊だ。彼は月乃の父が研究していたとある先天性の病の罹患者りかんしゃであり、かつて治療と研究を兼ねて謡川家に預けられていた時期がある。月乃が幼く、まだ実母が健在だった頃のことで、月乃にとっては数年同じ屋根の下で暮らした、いわば兄妹のようなものである。


「お嬢様、先週の事件にお嬢様は関わっていませんね? 無事ですね? お怪我などされていませんね?」

「えっとあの……」


 ものすごい勢いで距離を詰められ、両手を握られた。彼の月乃への気がかりっぷりは昔からであるが、互いに成人した今、いくら兄のような存在とはいえやはり気恥ずかしい。

 謡川家と真上家は家格でいえばほぼ同格。むしろ今となっては紡績会社をおこして成功している真上家の方がよほど上流である。だが暁臣は過去に謡川家に世話になり、月乃の父に治療を受けていた大恩がある。それもあってか、今も月乃を「お嬢様」と呼んではばからない。何度も「その呼び方は止めて」と頼んだが、一向に変わる気配がないのでもはや月乃も観念している。


 暁臣は向かい合ったまま繋いだ手を片方ずつ持ち上げては、丹念に月乃の全身を確認しようとする。その動きが、右手を顔を前に持ってきたところでぴたりと止まった。


「――血の匂いがする」


 途端に暁臣は月乃の着物の袖をまくって、右腕の肌をあらわにした。そこには先程、亜矢のせいでできたすり傷がある。突然の大胆な行為に月乃は思わず「きゃあ!」と悲鳴を上げた。


「どうされましたか、これは」

「ち、違うわ。これはその、さっき亜矢に……あっ」


 とっさに亜矢の名前を出してしまって、しまった、と空いている左手で口を覆う。みるみる目の前の男の顔が険しくなった。

 暁臣は月乃の母が亡くなり、その後父が義母と再婚した際に気をつかって下宿を解消した。だが義母達が父に隠れて月乃にどんな振る舞いをしていたかを知っているし、父の死後の横暴も見ていた。そのため彼女らを非常に嫌っている。


 暁臣は今にも噛み付くのではないかというくらい間近で腕の怪我を見つめていたが、やがてため息と共にそっと、その手を下ろした。月乃は内心で胸をなで下ろす。


「本当に、大丈夫よ。なんとか上手くやっているわ。それにこれは私自身の問題だから」

「いえ……俺の方こそ、ご婦人の身体にむやみに触れてしまい申し訳ありません」


 本来の彼はとても真面目で誠実な人間だ。ほんの少し、月乃に対しての心配性が過剰なだけで。


「暁臣さんは昔から、隠し事を見抜くのが得意よね」

「俺はんですよ」

「そうよね。内緒で猫を拾った時も、おやつを近所の子にあげていた時も、迷子になった時も、蔵に閉じ込められた時も……いつも暁臣さんが最初に気付いたわ」


 暁臣はいつだって月乃を守ってくれた。その忠節ぶりたるや、当時近所の子供達に“忠犬”と渾名あだなされたほどである。そんな彼も今は立派な帝大生。国の将来を背負って立つ俊才しゅんさいである。

 昔のあれこれを思い出して月乃がくすりと笑うと、暁臣もそれに吊られてやや不器用に口元を緩めた。


「お嬢様。貴女は面倒ごとに巻き込まれやすい性質たちなんだ。あまり学園の外を出歩かないようにしてください」

「ええ。気遣ってくれてありがとう……?」


 それは一体どういうなのか。

 もちろん心から彼女を思いやっての台詞だということはわかるのだが、暗に鈍くさいと言われているようで、月乃はちょっぴり複雑な気持ちで礼を言う。


 コンコンコン。


 その時ふと、何か硬質なもので部屋の扉が叩かれた。月乃が「はい」と返事をすると、把手ドアノブが回って長身の人物が現れた。黒い中折れ帽にインバネス。銀の持ち手のステッキを手にしたフリッツ・イェーガーだった。


「――獣臭いな」


 入室するなり、それがフリッツの一言目だった。

 月乃がきょとんとしている横で、暁臣が明らかに敵意の含まれた目で男を見返した。とっさに腕を広げて月乃の半歩前へ出ると、フリッツはステッキで帽子の端を持ち上げて「なるほどな」とつぶやいた。射貫くような暁臣の目線を悠々と受け止めて、フ、と挑戦的に笑う。

 つかつかと革靴の音高くふたりの元へ歩み寄ると、優雅に帽子を取って少しかがんだ。そのまま「月乃」と彼女の耳元に呼びかける。


「橋の向こうでくるまを停めて待っている」

「は、はい」


 間近に見た灰の瞳は、相変わらず冬の空のように澄んでいて月乃をどきりとさせる。ささやかれた声は妙に優しげで、月乃はただコクコクと頷き返した。その様に満足したように、フリッツは帽子をかぶり直してかがめた背を伸ばす。その時不意に、じっと警戒の色を隠さない暁臣と、男の視線が交差した。


騎士リッター気取りもいいが、牙をむく相手を見誤るなよ」

「…………!」


 途端に暁臣の表情が剣呑になる。だがフリッツはそのまま振り返ることなく部屋を去って行ってしまった。


「あいつは何者ですか?」


 部屋の扉が閉まってようやく、暁臣は張り詰めていた気を緩めて大きな息を吐く。


「ミスタァ・フリッツ・イェーガー。新しくいらした英語の先生よ」

「フリッツ……“イェーガー”?」

「ええ。とても……優しい方よ。たぶん」


 月乃はそう答えたものの、最後の台詞にはかなり自信がなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る