第二章 をとめの夢は水絵の具より儚く

八、吸血人の仕業

 おつきさまはさみしそう。

 いつもひとりぼっちで、よぞらにおふねをうかべているから。



 濃紺の大海そらにぽっかりと浮かぶ上弦の月。その孤独を慰めたくて、たくさんの星と共に洋紙に描いたのは、いつの時分だったか――。



 ◇



薔薇ばらまな近鄰きんりんにて衰弱體すいじゃくたい發見はっけんさる 吸血人きゅうけつびと仕業しわざか”


 新聞の一面に刺激的センセェショナルな文字がおどったのは、週末のことだった。

 日曜の朝早く、先日の懲罰である学舎の掃除を終えた月乃は、遅めの朝食をろうと寄宿舎へ戻った。すると一階の食堂兼談話室で、既に朝食を終えた女生徒達がひとつの新聞を折り重なるようにして読んでいる。


「ねえこれ、どういうこと!? あなた、事件のことご存知だった?」

「いいえ知らないわ。吸血人きゅうけつびとってなんですの。怖い……」

「わ、私にも見せてください!」


 あわてて月乃が新聞を借り受けると、記事には以下のようなことが書かれていた。


 去る九月某日、薔薇学園の近くで若い男性が衰弱した状態で発見された。被害者の頚部には噛み付かれたようなあとがあり、死には至らなかったものの数日昏睡状態が続いた。意識回復後に事件の状況を尋ねるも上の空で、真相未だ不明である――と。

 記事によれば事件が起こったのは先週、月乃が影の異形いぎょうと遭遇した日のことだ。更に記事では学園の周囲の森に巨大な吸血蝙蝠こうもりが生息している可能性、或いは西洋には吸血人なる人の生き血を好む好事家がることなどが犯人像として挙げられていた。


(どうしてこんな記事が……)


 月乃は先日のフリッツとの会話を思い返していた。


おおやけには伏せられているが、この学園の周辺でここ一年で四件、怪異のしわざと思われる事件が発生している。――そのうち一件は先週起こった”


 事件の詳細までは聞いていなかったので、月乃もこの記事で初めて事のあらましを知った。噛み付かれて昏睡状態に陥るとはたしかに奇妙だ。

 それにしても十日以上前のことが、なぜ今さら記事になるのか。フリッツの言う通りなら、箝口令かんこうれいが敷かれていたものを新聞記者が嗅ぎつけたのかもしれない。ただ彼によれば先週の事件の前に三件似たような事件が起こっているらしいが、新聞ではそれらについては言及されていない。


(後でこの件について、ミスタァ・イェーガーに尋ねてみよう)


 奇しくも今日はフリッツと出かける約束をしている日である。

 月乃以外の生徒は皆朝食を食べ終えているが、気味が悪いのか誰も部屋へ戻ろうとしない。月乃は多少事情を知っているので、他の娘より幾分か気楽だ。事件のことも気になるがそれよりもお腹が減ってしょうがないので、厨房に残しておいてもらった朝食を取りに行くことにした。


 懲罰の掃除を申しつけられて以降、月乃は毎朝早くに起床して真面目に仕事をこなしていた。朝食は掃除が終わってから、他の生徒の分と一緒に食堂に並べられたものを後から食べていた。だが三日前、その食事が手つかずのまま屑籠くずかごに捨てられていたのだ。亜矢達の仕業であろう。それ以来、厨夫ちゅうふに頼んで厨房で取り置いてもらっている。気の良い厨夫はいつも月乃が理不尽ないじめに遭っていることを知っているので、非常に親切にしてくれる。


「他のお嬢さん方ァ俺をただの飯炊きくらいにしか思っていませんがね、あんたはいつもにこにこと礼を言ってくださいますからね。それにこないだは、醤油のおつかいも頼まれてくれましたしねェ」


 結局そのおつかいの時は、醤油は持って帰ってこられなかったのだが。

 月乃が厨夫に感謝しつつ朝食の盆を持って戻ると、食堂には舎監の川村女史がやって来ていた。


「今朝の新聞記事の件については、既に警察が捜査中とのことです。皆さんは動揺することなく、平素と変わりなく過ごすようにと学園長からの通達です」


 舎監の言葉に安堵のため息を漏らす者、いぶかしげに疑問を口にする者、様々だった。月乃はその様を観察しつつも、さっさと朝食を済ませてしまおうと長卓子テーブルの隅へ向かう。


「きゃあ!」


 その時突然、月乃は何かに脚を取られて転んだ。両手に盆を持っていたため受け身も取れず、盛大に頭から倒れる。盆の上で食器が中身ごとひっくり返り、茶が零れた。


「痛……っ」


 手首が床に擦れてすり傷になり、白い肌にわずかに朱がにじむ。月乃は思わず腕を押さえた。ほとんどだめになってしまった朝食を見つめながらよろよろと起き上がると、すぐ脇の席に座っていた亜矢が笑っている。


「本当に鈍間のろまな人」


 亜矢の後ろではいつもの取り巻き達がクスクスと笑いをこらえている。わざと脚をかけられたのだと気付いて、月乃は悲しみよりも怒りが沸いてきた。

 怪我をさせられるのはまだいい。自分が嫌がらせをされるのは耐えられる。だけど月乃を気遣ってくれた厨夫の厚情を踏みにじったり、食べ物を粗末にするなんて、そんな罰当たりなことをして良いはずがない。


「亜矢……」

「謡川月乃さん!」


 珍しく言い返そうとしたところで、舎監に呼びつけられた。


「は、はい」

「面会の方がお見えです。新聞記事の件もあって今朝は何組もご父兄がおいでですので、手短にお願いしますよ」

「面会……。私に……?」


 その人物が誰なのか思い浮かばず、月乃はきょとんとした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る