七、月乃ちゃんの一番の“ファン”

 その日の夜、フリッツの言葉通り“使者”はやって来た。

 既に就寝時間を迎えた寄宿舎で、予習のはかどらない月乃がぼうっと窓の外の月を眺めていると。観音開きの窓硝子がらすをコツコツ、と何かが叩いた。


「あっ。あなたは」


 わずかに開けていた戸を全開にして顔を出すと、窓のさんに降り立ったのは見覚えのあるふくろうだった。翼を折りたたみ、ちょこんと頭をかしげる。その首にはあの日月乃が包帯代わりにした藍色のリボンが、紳士の襟締タイのように誇らしげに巻かれていた。


「もう怪我は大丈夫なの?」


 問いかけると、ホゥ、と小さく返ってくる。頭をいてやるとそのままくつろいだ様子で首を身体に埋めたので、もはやリボンなしには頭と胴体の境目が分からない。あの日はその丸っこい姿を饅頭まんじゅうのようだと思ったが、石油洋燈ランプの明かりに照らされた姿をよくよく見ると、体毛は全体的に白っぽく、どちらかというと大福と呼んだ方がしっくりきそうだ。


「元気になって良かった。そのリボンもとっても似合ってる。……あなたにあげるわ」


 母の形見とは言え、一度は手放した物だ。何より自分の頭に付いているより、誰かに身につけてもらった方が風に揺れる様がよく見える。しばらく“TSUKINO.U”と縫い取りされたリボンの先をもてあそんでいると、饅頭改め大福はしきりに脚をこちらへ差し出すようなしぐさをする。視線を落とすと、左の足首に金具のようなものがめられていて、細い筒の中に巻かれた紙が入っていた。


“次の日曜日、外出許可を取っておくように”


 細長い紙を広げて机の置き洋燈ランプの明かりにかざすと、黒いインクで書かれていたのは獨語のメッセェジ。昼間「付き合ってもらいたいところがある」と言っていたフリッツからの伝言だった。


(なんだか、とても悪いことをしているみたい)


 たった一文、なんの飾り気もない言葉。けれどこの手紙の内容を知るのは、彼と自分だけなのだ。ふたりだけの秘密の共有――その小さな背徳感は、月乃をどきどきさせた。


「あら、まだ予習をしてらしたの」


 不意に同室の千代が手水ちょうずから戻ってきて、部屋の扉を開けた。あっと思って振り返ると、もう窓辺に梟の姿はなかった。


「えっと、ううん。そろそろ寝ようと思っていたところよ」


 秘密の手紙をそっと抽斗ひきだしにしまって、そういえば勉強をしていたところだったと思い出す。


「そう。あたしは裁縫の授業の宿題が終わっていないから、これから夜なべよ」


 行李こうりの奥の奥から縫いかけの襦袢じゅばんを取り出して、千代はハァ、と盛大にため息をついた。

 千代は頭が良く何でも器用にこなすのに、何故か裁縫だけは大の苦手だ。先日も宿題で手巾ハンケチにコスモス――本人曰く――の刺繍をしていたが、どう見ても薄紫の芋虫にしか見えなかった。うっかり月乃が思い出し笑いをすると、千代は白い頬をもちのようにふくらませる。


「あたし、先端恐怖症なのよ。針とか突き匙フォークとか、恐ろしいったらありゃしないんだもの」

「ふふ。千代ちゃんもうちのように医者の家に生まれていれば、針が怖いなんて言ってられなかったと思うわ。私なんて子供の頃、よくお父様に注射をされていたし」

「まあ! もしかして種痘しゅとう(予防接種の一種)とか、そういうもの?」

「たぶん。苦い薬もたくさん飲まされたのよ。おかげで体だけは丈夫だし、好き嫌いもないけどね」


 月乃の父はある先天性の病の研究者として界隈では知られていたらしい。直々に最新の治療を受けさせたいと頼まれて、罹患者りかんしゃの子供を謡川家で預かっていたこともある。


「千代ちゃん。宿題だから代わってはあげられないけれど、お手伝いならできるわ」

「ありがとう」


 面倒見と人の良さは、父から受け継いだ月乃の美徳だった。

 月乃は机の上の筆記帳ノートブックを片付けると、椅子を千代の方へ引き寄せた。千代はくけ台を組み立てて、尻の下に敷く。ふたりは仲良く頭を突き合わせて、課題である襦袢の背中を縫った。千代は外から糸を見えなくする「くけ縫い」ができないので、仕方なく並縫いする。それでも危なっかしい手つきが白布の上をふわふわと行き来するのを、月乃は時折手を添えて助けた。


「千代ちゃんの縫い目、まるで雲の上をごきげんにお散歩しているみたいね」

「ま〜た月乃ちゃんの空想ポエムが始まったわ」


 幼い頃からの本好きのせいか、月乃の言動は時折ひどく夢想的でつかみ所がないことがある。月乃が「ごめんなさい」と肩をすくめると、千代はぷちんと犬歯で絹糸を裁ち切って目を細めた。


「あたし、月乃ちゃんの目に見えている世界が好きよ。いつもミスタァKに宛てた手紙にも、素敵な絵を添えているわよね。文を書くのだってお上手なんだから、詩人か作家にでもなればいいのよ。童話作家なんて向いていると思うわ」


 千代の言葉に、月乃は少し寂しそうに笑った。


「子供の頃、そうなれたらいいなぁなんて思ったこともあったわ。昔、お父様に四六判の立派な洋紙をいただいてね。それに物語を書いて、半分に折った物を見よう見まねで冊子のようにじて絵本を作ったの」

「素敵じゃない」


 襦袢をひっくり返して縫い目を確認しながら、「ありがとう」とうなずく。


「出来上がった絵本はいつもお父様に差し上げていたの。とってもよろこんでくださって、洋行のお供にも持って行かれたわ。そのまま現地で亡くなったから――きっと今は、お空で読んでくださっていると思うの」

「お父様が、月乃ちゃんの一番の“ファン”だったのね。もちろん、あたしもファンよ。……あら、今はミスタァKが一番かしら」

「もう。ミスタァKは関係ないわ」


 そうは言いながら、月乃はこれまで何度かミスタァKの正体について考えたことがある。

 おそらくミスタァKは父の知り合いで、自分の話を父から聞いていたのではないか。父はいつも月乃のお手製絵本をふところに忍ばせて、隙あらば他人に見せて回っていたから、ミスタァKもそれを目にしたことがあるのかもしれない――と。


“アナタノフアンヨリ”


 そう言ってくれたミスタァKに、いつか会いたいと思う。けれど、永遠に会いたくないとも思う。自分の胸にともった幼い恋心を、今はまだ、大切に自分の中だけに閉じ込めておきたかった。


(そもそも、ミスタァKは今の私を見たらがっかりしてしまうかもしれない)


 不意に、「ひとは見た目がほぼすべてだ」と言っていたどこかのひねくれものの言葉が頭に浮かんでは消え。気付けば月乃は「もう!」と部屋の壁に向かって叫んでいた。



〈第二章へつづく〉

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