七、月乃ちゃんの一番の“ファン”
その日の夜、フリッツの言葉通り“使者”はやって来た。
既に就寝時間を迎えた寄宿舎で、予習のはかどらない月乃がぼうっと窓の外の月を眺めていると。観音開きの窓
「あっ。あなたは」
わずかに開けていた戸を全開にして顔を出すと、窓の
「もう怪我は大丈夫なの?」
問いかけると、ホゥ、と小さく返ってくる。頭を
「元気になって良かった。そのリボンもとっても似合ってる。……あなたにあげるわ」
母の形見とは言え、一度は手放した物だ。何より自分の頭に付いているより、誰かに身につけてもらった方が風に揺れる様がよく見える。しばらく“TSUKINO.U”と縫い取りされたリボンの先をもてあそんでいると、饅頭改め大福はしきりに脚をこちらへ差し出すようなしぐさをする。視線を落とすと、左の足首に金具のようなものが
“次の日曜日、外出許可を取っておくように”
細長い紙を広げて机の置き
(なんだか、とても悪いことをしているみたい)
たった一文、なんの飾り気もない言葉。けれどこの手紙の内容を知るのは、彼と自分だけなのだ。ふたりだけの秘密の共有――その小さな背徳感は、月乃をどきどきさせた。
「あら、まだ予習をしてらしたの」
不意に同室の千代が
「えっと、ううん。そろそろ寝ようと思っていたところよ」
秘密の手紙をそっと
「そう。あたしは裁縫の授業の宿題が終わっていないから、これから夜なべよ」
千代は頭が良く何でも器用にこなすのに、何故か裁縫だけは大の苦手だ。先日も宿題で
「あたし、先端恐怖症なのよ。針とか
「ふふ。千代ちゃんもうちのように医者の家に生まれていれば、針が怖いなんて言ってられなかったと思うわ。私なんて子供の頃、よくお父様に注射をされていたし」
「まあ! もしかして
「たぶん。苦い薬もたくさん飲まされたのよ。おかげで体だけは丈夫だし、好き嫌いもないけどね」
月乃の父はある先天性の病の研究者として界隈では知られていたらしい。直々に最新の治療を受けさせたいと頼まれて、
「千代ちゃん。宿題だから代わってはあげられないけれど、お手伝いならできるわ」
「ありがとう」
面倒見と人の良さは、父から受け継いだ月乃の美徳だった。
月乃は机の上の
「千代ちゃんの縫い目、まるで雲の上をごきげんにお散歩しているみたいね」
「ま〜た月乃ちゃんの
幼い頃からの本好きのせいか、月乃の言動は時折ひどく夢想的でつかみ所がないことがある。月乃が「ごめんなさい」と肩をすくめると、千代はぷちんと犬歯で絹糸を裁ち切って目を細めた。
「あたし、月乃ちゃんの目に見えている世界が好きよ。いつもミスタァKに宛てた手紙にも、素敵な絵を添えているわよね。文を書くのだってお上手なんだから、詩人か作家にでもなればいいのよ。童話作家なんて向いていると思うわ」
千代の言葉に、月乃は少し寂しそうに笑った。
「子供の頃、そうなれたらいいなぁなんて思ったこともあったわ。昔、お父様に四六判の立派な洋紙をいただいてね。それに物語を書いて、半分に折った物を見よう見まねで冊子のように
「素敵じゃない」
襦袢をひっくり返して縫い目を確認しながら、「ありがとう」と
「出来上がった絵本はいつもお父様に差し上げていたの。とってもよろこんでくださって、洋行のお供にも持って行かれたわ。そのまま現地で亡くなったから――きっと今は、お空で読んでくださっていると思うの」
「お父様が、月乃ちゃんの一番の“ファン”だったのね。もちろん、あたしもファンよ。……あら、今はミスタァKが一番かしら」
「もう。ミスタァKは関係ないわ」
そうは言いながら、月乃はこれまで何度かミスタァKの正体について考えたことがある。
おそらくミスタァKは父の知り合いで、自分の話を父から聞いていたのではないか。父はいつも月乃のお手製絵本を
“アナタノフアンヨリ”
そう言ってくれたミスタァKに、いつか会いたいと思う。けれど、永遠に会いたくないとも思う。自分の胸に
(そもそも、ミスタァKは今の私を見たらがっかりしてしまうかもしれない)
不意に、「ひとは見た目がほぼすべてだ」と言っていたどこかのひねくれものの言葉が頭に浮かんでは消え。気付けば月乃は「もう!」と部屋の壁に向かって叫んでいた。
〈第二章へつづく〉
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