六、あなたは何者なんですか?

 月乃がフリッツ・イェーガーに聞きたいことは山ほどあった。


 あの黒い影は何だったの?

 手当てしたふくろうは無事回復したのかしら?

 そもそも貴方は何者なの――と。


 だが肝心のフリッツは始終女生徒達に囲まれていて、なかなか話しかけるすきが生まれない。そのうち本人もわずらわしくなったのか、授業が終わるとさっさとどこかへ消えてしまうようになった。校舎の中は常に誰かがミスタァ・イェーガーを探している状態だ。

 そんな状況で月乃がようやく彼を見つけることができたのは、週をまたいでからのことだった。


 そこは学園の裏庭である日本庭園の更に奥。連なった椿つばきの植え込みの向こうに、周囲から目に付かない塩梅あんばいで木製の長椅子ベンチが一台置かれている。庭師が休憩するためのその場所で、フリッツは気だるげに紙巻煙草シガレットをくゆらせていた。


「ミスタァ・イェーガー、吸い過ぎは身体に良くありませんよ」


 男は両腕を長椅子ベンチの背もたれに広げて占領し、長い脚を組んで投げ出している。後ろから話しかけると、背中越しにわずかにこちらを見た。


「この状況で吸わずにいられるか? どいつもこいつも所構わず追い回しやがって……。この国の女性は皆、野百合のようにつつましいと聞いていたんだがな」


 ハァ、と長いため息とともに紫煙を吐き出す。やはりこちらのぶっきらぼうな態度が男ののようだ。月乃に対しては紳士の仮面を被るつもりもないらしい。


「先日はありがとうございました」

「ああ、あののことか? 早く忘れろ」


 月乃がぺこりと頭を下げると、面倒くさそうに煙草を持つ左手を振ってみせる。彼の言葉はあえて茶化して月乃の動揺を引き出そうとしたものだったが、そもそも彼女は冗談だと気が付かない。


「いえ、それもありますけど……。どちらかというと、初日の授業のことです」

「は?」

「聖書を引用して、見た目にわずらわされてはいけないと説いてくださいました。あれ以来、皆の前で服装について嘲笑わらわれることが減ったので……」

「ああ……」


 男は大分短くなった煙草をもう一度だけ吸うと、上空に向かって吐き出した。口元に手をるだけの何気ない動作すら、妙な色気をかもし出す。そのまま先のとがった革靴で火を踏み消して、平然とこう答えた。


「あれは建前だ」

「えっ?」

「人間の価値を決めるのは見た目がだ。覚えておけ」


 あまりの歯に衣着せぬ物言いに、月乃は言葉を失った。

 この男は亜矢達の嫌がらせから月乃をかばってくれた。これまで大抵の教師が見て見ぬ振りをしていた問題をあっさりと切って捨て、それもただ感情的にしかるのではなく、教えさとしてくれた。なんて素晴らしい人格者だと尊敬の念すら抱いたのに。

 月乃が驚きあきれて口をぱくぱくさせていると、フリッツは人差し指を折り曲げて、こっちへ来いとぞんざいに合図した。


「至極簡単な理屈だ。派手な身なりをしていれば軽薄に見える。質素にしていれば勤勉に。乞食の格好をしていれば乞食に見える。たいていの奴は人の外見ばかりに気を取られて、その者の中身や本質など見ちゃいない」


 男は背もたれに頬杖をついて、隣に座った月乃に懇切丁寧に世の無情さについて説く。


「そんな人ばかりじゃないと……思います」

「そうか? 俺が英国製のスーツを着て英国英語クイーンズ・イングリッシュでしゃべったら、学園ここの連中は誰もなんて疑わなかったようだが?」

「…………」


 彼の言う通りだった。それでもやはりに落ちなくて月乃が口をとがらせると、男はその横で燐寸マッチ箱を取り出して二本目の煙草に火を付ける。たっぷり間を取って煙を吸い込むと、明後日の方向へ吐き出した。


「まあ、君は俺を疑っているみたいだがね」

「! 疑っているわけじゃありません。ちょっと……疑問に思っているだけです」

「〈何を知りたいんだ?〉」


 突然、獨語で問いかけられた。月乃が驚いて見上げると、灰の瞳が真っ直ぐこちらを見ている。羽毛のような睫毛まつげに縁取られたそれは冷たく透き通っていて、そのまま引き込まれそうな錯覚さっかくを受けた。


「〈あなたは、何者なんですか?〉」


 意を決し、知りうる限りの獨語の語彙ごいを総動員する。月乃は獨語はかろうじて聞き取れるものの、しゃべりはあまり得手ではない。


「〈俺はフリッツ・イェーガー。それ以上でもそれ以下でもない〉」

「そ、そういうことでなく!」


 思わず日本語で突っ込んでしまい、あわてて呼吸を落ち着ける。


「〈あなたは何か目的があってこの学園にいらしたのでは?〉」

「〈なぜそう思う〉」

「…………直感、です」


 もはや取り繕えず、月乃はあきらめて日本語で答えた。フリッツは吐き出す紫煙で月乃の問いを一蹴する。そのまま彼女の耳元に顔を近付け獨語でささやいた。


「〈あいにく、プライベートな話はベッドの中でしかしない主義でね〉」

「えっ、それじゃあ困ります。自慢じゃないですけど私、お布団に入ったらとお数えるうちに眠ってしまうので!」


 フリッツの言葉の含みがわからず、月乃は頓珍漢とんちんかんな答えを返した。さらに耳にかかる吐息から逃れようと急に振り向いたので、ふたりの鼻先は今にも触れ合いそうなくらい接近する。驚いて「ひゃあ」と情けない声を出して飛び退くと、相手も目を見開いていた。固まった手からぽたり、と灰が地面に落ちる。すると次の瞬間には、美しい男は肩を震わせて笑い出した。


「わ、わたし、何か聞き違いをしましたか?」


 状況を理解できない月乃は、獨語を間違って解釈してしまったのかとおろおろしている。彼女の真っ赤な顔を見て、フリッツはなおさら可笑しそうに笑った。


「いいや。で安心したさ――“Seleneセレーネー”」


 何が想像通りなのか、最後の単語の意味はなんなのか、月乃にはわからなかった。ひとしきり笑ったフリッツは、不意に真面目な顔に戻る。そして声の調子を一段落とした。


「俺は帝国陸軍に雇われた“悪魔殺しデモントーター”だ」

「でもん……とーたー?」

「人にあだなす怪異を殺す者だ」


 怪異。殺す。

 日常では聞き慣れない語に、しばし戸惑う。だが先日実際に怪異を滅する彼を目撃しているので、言っていることが嘘だとも思わない。次第に「とんでもないことを聞いてしまった」という念が沸いてきて、月乃はあわてて周囲を見回した。当然他に人の気配はない。


「この国では古来から怪異と共存し、現実と霊的世界の境をあいまいにすることで表向きの平和を保っていた。だが開国で諸外国から未知の怪異が流入するようになって、それだけでは立ち行かなくなったということだ」


 文明開化がこの国にもたらしたのは、華やかな文化や先進的な技術だけではなかった。これまで知らなかった事実に月乃は思わずうーん、とうなる。


「そのような方がなぜ、わざわざ英語講師としてこの学園にいらっしゃったんですか?」

「依頼の一環だ。おおやけには伏せられているが、この学園の周辺でここ一年で四件、怪異のしわざと思われる事件が発生している。――そのうち一件は先週起こった」

「! それって」


 先週起こった、怪異による事件。それはまさに、月乃があの日遭遇した黒い影が関係しているのではないか。だが、くだんの影は目の前の男が既に消し去っている。それとも、他の脅威が存在するというのか――。


「まあ、その話は追々してやろう。……それより」


 フリッツは後ろ向きに煙を吐き出して、それから改めて月乃を見た。


「君の話も聞きたいんだが? 

「えっ?」


 不意に名前を呼ばれて驚く。月乃がじっと見上げると、ふたりはしばし見つめ合う。少しの沈黙の後、先に視線を逸らしたのはフリッツだった。


「学園長に聞いたところによると、君は何某なにぼうとかいう人物から多額の資金援助を受けているそうじゃないか。そのボロ雑巾……あいや、清貧を絵に描いたような着物ふくはなんだ。趣味か?」


 今日の月乃の着物は、何度も洗いすぎて小花柄がかすれてしまっている。ずばり指摘されて、言葉に詰まった。

「ひとは見た目がほぼすべて」。そう言い切った男からしてみたら、自分はどれほど貧しく思われていることだろう。しかし、今さらうろたえたところで現状は変わらない。何より、ミスタァKの援助が不足しているなどと思われたくはない。


「確かに、ミスタァKには多額の学費を援助していただいています。女子教育が行き届いているとは言いがたいこの国で、幸運にも学ばせていただいていること、本当に感謝しています。ですから、これ以上を望んでは罰が当たります」


 ぐっと胸の前で両手を組んで、心からの言葉を打ち明ける。さぞ馬鹿にした台詞が返ってくるかと思いきや、フリッツは「ふうん」とつまらなそうに煙を吐くだけだった。


「――そろそろ次の授業の時間だな」


 そう言って洋袴スボン衣嚢ポケットから懐中時計を取り出してみせたので、月乃はあわてて立ち上がった。そのまま礼をして去ろうとすると、待ったと声がかかる。


「ところで、俺の秘密を聞き出してこの後どうするつもりだ?」

「私、口外したりなんてしません!」

「ほう。いや、悪いが信用しかねるな。俺は誠意とか真心といった目に見えないものは信じていないのでね」

「影のお化けよりよほど信憑性しんぴょうせいがあると思いますが!」


 時間を気にしてかやや語尾が強くなる月乃の言葉を、フリッツは少しだけ口の端を持ち上げて受け止めた。


「少し付き合ってもらいたいところがある。――後で使者を寄越そう」


 用件だけ伝えて、もう行っていいぞと片手を挙げる。同時に予鈴の鐘が鳴ったので、月乃は改めて頭を下げると小走りで去って行った。

 あっという間に椿の木の合間に消えてゆく黒髪を見送って、フリッツは背もたれに頭を預ける。


「“Seleneセレーネー”はいつだって夢見がちなものだ」


 灰を落として一口吸い、天に向かって吐き出した。


 セレーネーとは、地上の男に恋をして夜毎その夢に現れたという、希臘ギリシヤ神話の月の女神の名前である。

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