五、空の鳥を見なさい

「あ、あなたは……」


 月乃は信じられないものを見る目つきでその人物を見上げた。彼女の後ろから教室の引き戸に手をかけるのは、長身痩躯ちょうしんそうくの男だった。

 無造作に束ねられた白金の髪。長い睫毛まつげに縁取られた灰の瞳。見間違えるはずもない。昨日月乃を助けた異人である。

 黒地に縦縞ストライプ洋袴ズボンと共布の胴着ベスト。シャツは濃灰でネクタイは臙脂えんじ。上着は身につけていないが、ひと目で上質とわかる整った洋装だった。

 男はちらりとだけ月乃を一瞥いちべつすると、白蝶貝のカフスのめられた腕で引き戸を叩いた。そのまま戸の向こうへ芝居がかった口調で語りかける。


「ごきげんよう、薔薇学園のお嬢さん方。どうかこの哀れな男にひと目相見あいまみえる栄誉をいただけませんか?」


 流ちょうな日本語だった。まるで戯曲の一場面のような歯の浮く台詞。女を誘い出す甘ったるい声音。だが足元の革靴はイライラと床を叩いているのを見て、これは男の猫かぶり――もとい社交術なのだ、と月乃は瞬時に察する。

 やがてカチリと申し訳なさそうな音がして、中から引き戸が開かれた。男は瞬時に月乃の腰を抱き、颯爽さっそうと教室に乗り込む。その瞬間、室内から黄色い悲鳴が漏れた。


「Hello,ladies.It's my pleasure finally meeting you all〈はじめまして、お嬢さん方。ようやくお目にかかれて光栄です〉」


 月乃を置いて教壇に上がると、爽やかに微笑んで英語で挨拶した。やはりまた悲鳴が上がった。何せ恐ろしいほど顔が良い。


「私はフリッツ・イェーガー。今日からこの学園で英語講師を務めます」


 自己紹介は日本語で。昨夜月乃と相対した時のややつっけんどんな態度とは打って変わって、爽やかな紳士ぶりである。


(この人、獨国人じゃなかったのかしら……)


 昨日の話しぶりからすると、獨語が母語のようだったが。教室の端に立ったまま冷静に観察していると、突然男――フリッツ・イェーガーがこちらを見た。


「ミス・謡川月乃、早く席に着きなさい」


 いきなり名前を呼ばれてびく、と肩が浮く。促されるまま自分の席に戻ろうとすると、亜矢が勢い良く挙手をした。


「あの! みすた・いえーがー」


 そのまま一言奏上とばかりに立ち上がる。どうやら月乃が授業に加わるのが気にくわないらしい。この状況で何か物申そうとするなんて度胸があるな、と月乃は逆に感心してしまった。


「その人は、この学園にふさわしい装いをしていません。薔薇学園の品位を害する、ここで学ぶ資格のない方です」

「ほう」


 亜矢にそう指摘されて、フリッツは月乃の全身を上から下まで不躾ぶしつけに見た。月乃は情けなくて恥ずかしくて、しま模様の消えかかった綿の袖をぎゅっと掴む。やがて視線を前方に戻した男は、教卓に手を付くとハア、と大きく嘆息した。


「Look at the birds of the air〈空の鳥を見なさい〉」

「?」


 突然とも思える言葉だった。亜矢も他の生徒達も意図を理解できず、何人かは言葉通り部屋の天井や窓の外を見た。


「この言葉の意味を知る方は? この続きの分かる方は?」


 教室がしん、と静まりかえる。フリッツがぐるりと生徒を見回すと、ただひとり、教壇の下の月乃が恐る恐る右手を挙げていた。


「ミス・謡川月乃、答えなさい」

「はい。それは、馬太傳マタイでん福音書にる言葉……だと思います」

「ではその前後三節を唱えてみなさい」


 月乃は言われるまま、聖書のかかる節をすらすらと暗唱する。緊張しているのか少し声はうわずっていたが、よどみなく美しい英語だった。


Correct.正解だ――では、その意味するところは?」


 灰の瞳が挑戦的な色彩を帯びて月乃を射抜く。だが月乃には、その問いが自分を助けるためのものだとわかっていた。教室中の視線を受け止めて、それでもまっすぐ彼の目だけを見つめ返す。


「命こそが何よりも尊く、着るものや食べるものに頓着とんちゃくしてはいけない、ということです」


 フリッツは回答に満足したのか、にやりと口の端を持ち上げる。そのまま大げさにうなずいて、前方の亜矢に語りかけた。


「――つまり、人の見た目についてあれこれ口さがなくするのは馬鹿馬鹿しいということです」

「でも!」


 なおも亜矢は食い下がる。男がチッと小さく舌打ちしたのを、横にいた月乃は確かに聞いた。


「では別の言葉を借りましょう。“Under a raggedひとを見た目で coat lies wisdom判断するな”。おわかりいただけましたか? ミス・謡川亜矢」

「…………」

「理解していただけたようでうれしいです」


 無理矢理話を切り上げ、にっこりと微笑む。すると怒りに顔を赤くしていた亜矢が、また別の意味で赤くなった。


 この日を境に、学内では洋書を携行するのがにわかに流行った。なんとか麗しき新任英語講師フリッツ・イェーガーの目に留まろうと、皆が皆熱心に英語の勉強を始めて、英語の得意な月乃は学内で質問されることが増えた。するとそのうち、しばらく口をきいていなかったかつての友人達もそれに交じるようになる。千代は「日和見ひよりみだ」といきどおったが、月乃は特に対応を変えることなく、ひとつひとつ親切に答えた。

 亜矢達も、少なくとも人前では堂々と服装について揶揄やゆすることはなくなった。

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