四、どんな逆境でも

 月乃が舎監を通じて学園長室への呼び出しを受けたのは、翌朝の朝食の席でのことだった。


 理由はもちろん、昨日の無断外出。加えて高価な自転車(亜矢の持ち物である)を壊したことも問題になっているようだ。義母も呼び出されていると知って、月乃は深いため息をついた。謡川家の屋敷はこの学園から目と鼻の先にあるが、できるだけ帰省を避けているので直接顔を合わせるのは久しぶりだ。

 義母はとにかく昔から、月乃のことが憎らしくてしょうがないらしい。もし今回のことが原因で学園を辞めさせられるなんてことになったら――。月乃は朝から生きた心地がしなかった。


「呼び出しだなんて、一体何をなさったのかしら。妹として恥ずかしいわ」


 少し離れた席で、亜矢がいけしゃあしゃあと言い放つ。取り巻きの娘達も便乗して嫌味を並べ立てた。


「ふふっ。それにしても月乃さん、はかまはどうしたのかしら」

「あらやだ。御納戸おなんど小町が御納戸袴も履いていないなんて」

「袴も満足に揃えられないような方が、どうしてこの学園にいらっしゃるの?」


 結局、昨日月乃の洗った袴は乾かなかった。今日一日は着物だけで過ごすしかないのだが、持っている物はどれも粗末な状態で、制服の袴がないととても士族の令嬢には見えない。同級生達の嘲笑ちょうしょうを、月乃は黙って白米と一緒に飲み込んだ。


「貴女達。食事の席でぺらぺらと口を開くのはつつしんだ方がよくてよ」


 隣に座っていた千代が、先に食事を終えてすっと立ち上がる。静かな声だったが、不思議な迫力があって亜矢達は黙り込んだ。


「何よあの女。卒業面そつぎょうづらのくせに……」


 食堂を出て行く千代の背中に、亜矢が憎々しげにつぶやいた。


 この学園は尋常小学校での義務教育を終えた良家の子女が集う私学校だが、五年間の学園生活をまっとうして卒業する者はとても少ない。何故なら大抵の娘は在学期間中に縁談が決まり、中退してしまうからだ。千代はこの秋から最上級生なので、来年にはこの学園を卒業する。つまり卒業面とは、「卒業するまで嫁の貰い手のない不細工」という意味を持つ。

 ちなみに月乃は千代と同い年だが、ひとつ年下の亜矢と同時に入学したので一学年下である。


 千代が不細工だなんてとんでもない。月乃は怒りの言葉がのどまで出かかったが、当の千代はいつも何を言われても飄々ひょうひょうとしているので、あえて波風を立てまいとぐっとこらえた。


 色々な感情がせめぎ合って味のしない食事をお茶で流し込み、月乃は重い足取りで学園長室に向かった。

 学園長室は学舎の二階の一番奥、立派な紫檀の扉の向こうである。扉の前で少し尻込みしたが、待たせれば状況はそれだけ悪くなる。数度の深呼吸の末、覚悟を決めて扉を叩いた。


「入りたまえ」


 中からの声に促されて入室すると、立派な調度品に囲まれた室内にはカイゼルひげをたくわえた五十がらみの男――学園長と、革張りの長椅子ソファに座る義母がいた。

 義母はいつも通り丸髷まるまげを隙なくまとめ、いかにも上品な婦人といった身なりである。だが彼女のよそおいを際立たせている翡翠ひすいの帯留めは、亡き母の持ち物だったものだ。


(他の装飾品もせめて、売られずに残っていてくれればいいのだけど)


 父が獨帝国にったのは、月乃と亜矢がこの学園に入学するのと同じ年だった。寄宿学校を選んだのは、家長が不在の間不自由しないようにという父の配慮だったろう。だが結局、義母は月乃にろくな入学準備を整えなかった。きれいな着物はすべて亜矢に取られて、既に丈の短い着古しばかりを押し付けられた。父が屋敷からいなくなった途端、義母が家捜やさがしのように母の形見を奪っていったことを思い出して、月乃の胸は締め付けられた。


「謡川月乃くん。君は昨日、舎監の川村女史の許可を得ず外出し、さらに妹の亜矢くんの自転車を無断で借用して壊した。相違ないかね?」

「……はい……」


 そもそも外出のきっかけは亜矢に醤油を買いに行かされたことだ。帰り道でたまたま傷ついたふくろうを見つけ、避けようとして転倒した。さらに謎の黒い影に襲われて、見知らぬ異人男性に助けられて……。

 そんな荒唐無稽こうとうむけいな言い訳、話したところで信じてもらえるわけがない。


「学園の本懐ほんかいたる良妻賢母にあるまじき振る舞いよ。まったく、お恥ずかしいったらないわ」


 義母は元々吊り上がった目をさらに吊り上げて、月乃をにらんだ。執務机の向こうに立つ学園長はふむ、と己の髭をもてあそぶ。


「本当に困ったものですな。過去にも学園を無断で抜け出して、あろうことか男子と逢い引きしていた者があったのです。もちろん、その者は退学になりましたが」

「わ、私は誰かと会ったりはしていません」

「では何をしていたのかね」

「……生け垣の薔薇ばらが、つぼみを付けていたので……。自転車に乗って見て回ったら、さぞ良い心地がするだろうと思いました」


 苦しい弁解だとわかってはいるが、他に言いようがなかった。義母と亜矢の機嫌を損ねてこの学園を退学させられてしまうこと、それが月乃の泣き所であり、二人に逆らえない理由だった。


 月乃がこの学園に在籍できる期間。それは彼女に与えられた最後の自由だ。

 ここを去ったら、月乃は結納金目当てに嫁がされる――ならまだ良い方だ。今後一生謡川家で下女として過ごすことになるか、もしくは食い扶持ぶちすら与える価値がないと寒空に放り出される可能性すらあった。

 二年前、父の訃報を聞かされた冬の夜。父の書斎机にすがって泣くのをただ「うるさい」という理由だけで引きがされ、裸足のまま外の蔵に閉じ込められた。あの晩外は雪が降っていて、庭の池が凍るほどの寒さだった。翌朝屋敷を訪れた幼なじみに助け出されなかったら、月乃は凍死していただろう。いや、もしくは義母は本当に月乃を殺すつもりだったのかもしれない。謡川家はもはや月乃にとっての安らぎの場所ではなくなったのだと、強烈に刻み込まれた出来事だった。


(いいえ、そんなことよりも――)


 自分の身の心配ばかりが頭をよぎって、月乃はかぶりを振った。

 そんなことより。もしも今ここで退学になったら、これまで援助してくれたミスタァKになんと顔向けすればいいのか。月乃は彼に失望されることが何より恐ろしかった。


「――申し訳ありませんでした」


 今求められているのは謝罪だ。月乃はその場で土足の床にひざを折ると、美しい所作で正座をした。そのまま板張りに三つ指をつき、頭を下げる。


「どのような罰も受けます。ですから退学の沙汰さただけは、どうかご容赦ください」


 いつかは月乃もここを卒業し、去らねばならない。でもまだしばらくは、ミスタァKが“フアン”だと言ってくれた、あるがままの――純粋に学ぶことが好きな自分でいたかった。そのためならば、どんな苦難もいとわない。

 わずかに開けてあった窓から風が入り込み、部屋の空気がそよいだ。まっすぐ背を折る月乃のりんとした気迫に、学園長も義母もしばし押し黙る。


「ま、まあ、本人もこのように言っとりますから……。特別に、今回は反省文と学舎の掃除で放免ほうめんとしましょう」


 学園長がおおげさに胸を張り、裁きを申し伝える。義母は手ぬるい処分に反発するかと思いきや、何故かぺこぺこと頭を下げて調子を合わせはじめた。


「ええ、ええ、そうですね。本当はこんな娘、学を付けさせても生意気になるだけなんですけれど。だけどええ、学園長の寛大かんだいなご配慮に感謝しなくては。――寄付もいただいていることですし」


 ふたりの言い振りにわずかな違和感を抱いたものの、追及はしない。月乃は立ち上がって着物の裾を払うと、もう一度深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。……あの、学園長」

「なんだね」

「ミスタァK……あ、いえ。援助者の方に手紙を書いたんです。いつものように届けていただけますか」


 毎月の手紙は、すべて学園長を通じてミスタァKに送ってもらっている。月乃がふところから白い封筒を取り出すと、学園長は髭の先をねじりつつぞんざいにあごで執務机を示した。


「あーうん。そこに置いておいてくれ」


 なんとか窮地きゅうちを切り抜けて、月乃はひそかに安堵した。そろそろ一時間目の授業に向かわなければならないので、断って退室する。扉を閉める際に今一度頭を下げると、一緒に部屋を出た義母がフン、と鼻を鳴らした。


「月乃。あんたは亜矢と違って愛嬌あいきょうも取り柄もないの。どうせ何の役にも立ちゃしないんだから、せいぜい掃除の仕方でも身につけておきなさいよね。そしたら掃除婦くらいにはなれるでしょ?」

「……はい……」


 この学園を去る時が、きっと本当の絶望の始まりだ。けれどまだ、ミスタァKの与えてくれた心のともしびは消えてはいない。


(どんな逆境でも、私は私らしくいるだけだわ)


 月乃は今にもこぼれそうな弱気をいましめて、まっすぐ前を向いた。そのまま玄関まで義母を見送ると、すぐさまきびすを返す。

 今日の一時間目は英語だ。月乃の一番好きな科目で、何より本日からお雇いの外国人講師が着任するのだと知らされていた。


(初日から遅刻して心証を悪くしては大変だもの)


 やむをえず、教師に見つかったらお小言間違いなしの小走りで廊下を駆け抜ける。だが、ようやくたどり着いた目的の教室は戸が閉め切られていた。引き手に手をかけるも、中から鍵がかけられているらしくどうがんばっても開かない。


「あの! 謡川月乃です。入れてください!」


 あせってどんどん、と叩くと、中から亜矢達の笑い声がした。


「だめよ! 制服の袴を履いていない方は入室させられないわ」

「教室にみすぼらしい身なりの方がいたら、新しい先生に学園の品格を疑われてしまうもの」

「そのまま廊下で授業を聞いたらいかが?」

「門前にさえ立っていれば、習わないお経も読めるようになるって昔から言うわよね」

「入れて! お願い!」


 必死に懇願こんがんするも、返ってくるのは嘲笑ばかり。

 それでもなんとか戸を開けようとあがいていると、不意に、月乃の背後から長い腕が伸びた。


「Ah? ……Quatschばかばかしい


 その獨語のつぶやきに、月乃は聞き覚えがあった。


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