三、拝啓、ミスタァK

 その後、学園に戻った月乃はたいそう酷い目にった。

 まず、裏門に仁王立ちで待ち構えていた舎監しゃかんに見つかった。普段ならこの時間に彼女が寮の外にいることはないので、亜矢が告げ口したのかもしれない。無許可で外出したことをさんざん説教され、「学園長とご実家に報告します」とまで言われてしまい。「それだけは」と食い下がったが、学園を抜け出した本当の理由はついぞ口にできなかった。

 這々ほうほうていで寮に帰ると、今度は亜矢とその取り巻きが勢揃いしており。


「本当に愚図ぐずなお姉様。おつかいすら満足にできないなんて」

「ねえ、どうして醤油まみれでいらっしゃるの?」

「いやだわ。においが移りそう」


 指摘されてようやく、月乃は制服の御納戸袴おなんどはかまが返り血ならぬ返り醤油でべったり汚れていることに気が付いた。臭い臭い、と鼻つまみ者にされた挙げ句、ついには廊下の端にある狭い掃除用具入れに閉じ込められてしまった。ようやく抜け出すことができたのは、寮で同室の千代(ちよ)に助けられた約一時間後のことである。


千代ちよちゃん、ありがとう」

「まったく、本当に陰湿いんしつな方達だこと」


 部屋に戻った月乃が丁寧に頭を下げると、寝台ベッドの端に座った千代があきれた様子で肩をすくめた。


 千代はこの学園で、唯一と言ってもいい月乃の親友だ。入学当初は、もっとたくさん友達がいた。だが亜矢のいじめが悪化してからは、皆巻き添えを恐れて月乃を遠巻きにしている。時折気遣いの言葉をかけてくれる子もいるけれど、中には亜矢の取り巻きになって一緒に嫌がらせをする娘もいる。

 そんな中でただ千代だけが、亜矢達に加担せず、いつもさりげなく月乃を助けてくれる。彼女は子爵家――つまり華族の令嬢なので、気の強い亜矢もおいそれと手出しできないのだ。


「まるで新貞羅シンデレラの義姉よね」


 少し前に新聞に掲載された西洋物語を引き合いに出し、千代はしぼりの袖で口元を隠すと上品に笑った。

 千代は不思議な娘だ。級はひとつ上だが歳は月乃と同じで数え十九(満十七)。髪は豊かでつやがあり、大人っぽい雰囲気の少女だ。他の女学生達が皆束髪そくはつと呼ばれる洋風の結髪でお洒落しゃれを競う中、彼女はただ黒髪にくしを通すだけ。それだけで十分美しいのだ。まるで平安のお姫様のようだと月乃は思う。


 ひるがえって自分はどうだ。着ているものは貧相で、髪の手入れも行き届いていない。体つきも薄べったくて、女性らしい肉感に欠けている。寮なので食事は三食あるが、時折亜矢の意地悪で食卓に着けないことがある。結局、先程の夕飯も食べ損ねてしまった。


「月乃ちゃんは可愛いわ。他の誰よりも。あなたの妹は、あなたに嫉妬してるのよ」

「そう、かな」

「そうよ」


 千代は同い年とは思えないあでやかさで微笑むと、ぼさぼさになっていた月乃の髪を美しい蒔絵まきえのつげくしで解いてくれる。「あなたは可愛い」。千代以外にそんなことを言ってくれるのは、亡くなった実の両親だけだ。


「ところで月乃ちゃん。お母様の形見のリボンはどうなさったの」

「あ、うん。ちょっと……人に貸してしまったの」

「まあ」


 月乃の頭を飾っていた藍色の絹のリボン。それは月乃が幼い時分に亡くなった母から贈られた、形見の品だった。

 千代を心配させまいとする手前「貸した」とは言ったものの、例の名も知らぬ異人と再び出会う可能性は限りなく低い。包帯代わりにしたリボンも、きっと返ってこないだろう。

 だがあれは、必要な処置だったのだ。月乃はそう納得していたし、一抹のさみしさはあれど後悔はしていなかった。他にも母の形見というべき着物や装飾品は数多くあったが、ほとんどが後妻である義母と連れ子の亜矢に取られてしまっている。


「袴の汚れはきれいに落ちた?」


 鏡台の前に行儀良く座った月乃の髪を解きつつ、千代は窓辺の衣紋掛けに干されている御納戸袴を見た。


「なんとか……。でも水洗いしたから、明日には乾かないかもしれない」

「あら、困ったわね。明日着るものがないじゃない。あたしのお下がりが残っていれば、貸して差し上げられたのだけど……」

「ありがとう。でも、しょうがないよ。明日は袴は履かず、着物だけで過ごせばいいんだわ」


 苦笑いする月乃を鏡越しに見て、千代はもう一度干された袴に視線を移した。唐縮緬メリンス製の袴は一生懸命水を絞ったからか、しわになってしまっている。何度もつくろわれた裾もだいぶ擦り切れてきていて、もはや修繕も限界と思われた。


「あまり言いたくはないのだけど……。その袴、さすがにそろそろ買い換え時なんじゃあないかしら。御納戸袴は制服なんだから、学用品でしょう。“ミスタァケー”にお願いするわけにはいかないの?」


 千代の言葉に、笑っていた月乃の顔が途端に強張った。


「だめよ。ミスタァKには、頼めない」


“ミスタァK”。

 それは、月乃にとって特別な名だった。


 二年前、獨帝国に国費留学していた父が旅先で亡くなった。遺体は現地で葬られ、謡川うたがわ家には月乃と義母、義妹の亜矢がのこされた。元々義母らは月乃を邪険にしていたが、父の死をきっかけにそれは苛烈かれつさを増した。

 形だけの葬儀が終わってすぐ、「あんたに学費は出せないから辞めろ、嫁に行くかいとまを出した女中の代わりに謡川家の下女として働くか選べ」と義母に迫られた。

 最期の対面すら叶わず、異国で志半ばで亡くなった父。死の実感が湧かない中、喪も明けないうちから結婚の話を持ち出されるのは辛かった。何より義母が提示した相手はどれも月乃と親子以上に年が離れた男だった。裕福な商家の者ばかりで、中には堂々と「めかけに」とのたまう者まである始末。皆月乃の若さと“士族の娘”という肩書きを金で買うつもりなのがありありとわかった。だがそれを断ったら、一生義母と亜矢に女中のように使われなくてはならない。


 そんな時、匿名で月乃の学費の援助を申し出たのがミスタァKだった。

 学園長は彼の名を知っているらしかったが、月乃には知らされなかった。ただ一枚、月乃宛ての申し言メッセェジだというものを、学園長がちらりとだけ見せてくれた。


“アナタノフアンヨリ”


 郵便局員の代筆である筆書きで、電報の送達紙にはそう書かれていた。その他学園長の机の上に置かれていた書類から、その篤志家とくしかの名の頭文字がKだということだけがわかった。以来月乃は彼――男性だということすら仮定ではあるものの――を、“ミスタァK”と呼んでいる。


「ミスタァKは、私の大切な人よ。彼は決して安くはない私の学費を援助してくださってる。それがどんなに幸運で、私が感謝していることか……。それにね、彼が私にくださったのは、お金だけじゃないの。私を見守ってくれる方がこの世のどこかにいるんだという、何にも代えがたい喜びよ」


 ミスタァKがくれた唯一の言葉、“フアン”という語の意味を月乃は当初知らなかった。千代に尋ねたところ、「“堂摺連どうするれん”のようなものでしょう」と返ってくる。

 堂摺連とは、当時大人気だった女義太夫ぎだゆうの熱狂的な追っかけのことである。一体ミスタァKがどこで月乃のことを知り、彼女の何を気に入ってくれたのかはわからない。それでもたった九文字のミスタァKの言葉が、「ありのままでいいんだよ」と自分を励ましてくれている気がして――。それが今の月乃の、生きる支えだった。


 そんな大恩あるミスタァKに、学費以上の金を無心することなどできるはずがない。そもそも毎月欠かさず月乃が書いている手紙にも、彼から返事が来たことは一度もないのだ。


「まるで恋する乙女ね」

「ふふ。そうよ。私、ミスタァKに恋しているの」

「顔も名前も知らないのに?」

「そうね、もし彼がしわだらけのおじいさんでも――私の気持ちは、きっと変わらない」


 義母のすすめた年かさの男達には辟易へきえきしていたくせに、ミスタァKならおじいさんでもいいだなんて。自分でもたいがい矛盾していると思ったが、月乃は恋とはそういうものなのだと開き直っていた。もちろん、それが恋に恋する未成熟な感情だと、わかっていたけれど。


“拝啓、ミスタァK

 風が涼しくなってまゐりましたが、つゝがなくお過ごしでせうか。私は万事健康に御座います。此頃、学園の生け垣の薔薇に蕾が付いて居りました。間もなく辺りは真っ赤な薔薇に囲まれて、素晴らしい芳香に包まれることでせう――”


 遙か昔に父が買ってくれた異国製の水絵の具は、使い古して残りはわずか。月乃はその貴重な画材を、今はミスタァKの手紙に添える季節の鳥や花の絵を描く時にだけ、大切に大切に使っていた。たとえ返事は来なくとも、月乃の見聞きしたものが、“フアン”を公言する彼の心に小さなあたたかさもたらすことを信じて。


(次回の手紙には、咲いた薔薇の花びらを添えよう。華やかな香りが、ミスタァKに少しでも届くように)


 そうして今夜も、月乃はミスタァKに手紙を書く。

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