ニ、お前の相手は俺だ

「だれ……っ!?」


 しゃがんだ姿勢のまま振り返る月乃の二げん後方。それは地に落ちた木立の影がかたちを持ったようだった。

 二本足で立ち、ヒトのように天に垂直に伸びる何か。夕日の名残をわずかに残す紫暗しあんの空をさえぎるのは、あやしくゆらめく黒い影。逢魔おうまときの訪問者というべき異形いぎょうだった。


「お、お、おば、お化け!?」


 月乃の叫びに“影”は答えなかった。代わりにのそり、と緩慢かんまんな動きで一歩こちらへ近付く。幹のような体が膨らんだかと思うと、みるみると二本の太い枝が生えた。長い腕となったそれは勢い良く振り上げられて、月乃を叩きつぶさんとばかりに襲いかかる。

 あまりの恐怖に声も出ない。月乃は反射的に饅頭をかばって抱き、一升瓶を背負ったままの背を丸めた。


「Dein Feind ist ich〈お前の相手は俺だ〉」


 次の瞬間、ぎぃぃぃいいん! と耳の奥に突き刺さるような金属音が響いた。月乃を襲うはずだった衝撃はいつまで経ってもやって来ない。恐る恐る薄目を開けると、月乃の前、影との間をはばむように立つ見知らぬ男の背中があった。


 黒の中折れ帽。漆黒の外套マント。月乃の眼前の洋靴からはすらりと長い脚が伸びていて、下から見上げた背はかなり高い。

 暗闇に同化するように丈長の外套マントをはためかすその男は、右手に銀の持ち手のステッキを構えていた。先程の反響音はこのステッキが弾かれたものらしい。


「助けて……くれたの……?」


 男は言葉を返さない。見向きもしない。代わりにまっすぐ射られた視線の先には、人型の影がゆらゆらと佇んでいる。

 影は男を敵と認めたのか、間髪入れずに再び襲いかかった。伸びた腕がむちのようにしなり、男の杖のがそれを受け止める。すると柄に触れた部分が砂のように崩れて消滅した。しかし、すぐにそこからまた新しいぶぶんが生えてくる。


Scheißeクソったれ


 男が舌打ちしたのが聞こえた。たびたび漏れる言葉から、月乃にはどうやら彼が異人――獨帝国の人らしいということがわかる。更に二度三度と重ねられた攻防を間近で見ているうちに、月乃はふと、先程から男の靴裏が一度も地面から離れていないことに気が付いた。


(私を庇っているから……?)


 男は月乃を背にしたまま、一歩も動かずに影の猛攻をしのいでいたのだ。邪魔にはなりたくないが、今この場を逃げ出そうとするのも得策でないように思えた。

 どうしよう。どうすればいい。

 ぐるぐると自問自答を繰り返す月乃の背中で、醤油の瓶がたぷんと揺れた。

 やがて十以上の打ち合いの末、男の足元で土埃つちぼこりが立つ。直立不動の姿勢がわずかに乱れ――だがその時。


「やぁぁああ!」

「!」


 ひるがえった男の外套マントの影から、月乃が飛び出した。いつの間にか両手は一升瓶の底部分をつかんでいる。そのまま醤油入りのそれを、思いっきり振りかぶって影に叩き付けた。

 しかし渾身こんしんの一撃もむなしく、黒いもやをすり抜けた瓶は地面に当たってしまう。


 ばりぃぃん!


 重たい振動が月乃の両腕に伝わり、硝子がらすが砕石道にぶつかって割れた。瓶いっぱいの醤油が飛び散って、御納戸おなんどはかますそと影の全身をしこたま濡らす。助太刀すけだちのつもりが完全に裏目に出てしまい、月乃の背筋は凍った。

 だが、すぐに後ろから男の笑い声が聞こえた。


「いいぞ。霊的存在ガイストに水を持って実体を与えるのは除霊術エクソルティスムスの基礎だ」


 ところどころ月乃にはわからない単語が雑じっているものの、男が口にしたのは流ちょうな日本語だった。同時に、彼は軽々と片腕で月乃の体を抱えてそこから飛び退く。元いた位置に月乃を置き直すと、すぐに振り返ってステッキを影の前に構えた。銀の意匠の持ち手をひねり、すらりと引き抜く。すると黒い杖の柄から、銀色に光る刃が現れた。


(仕込み杖……!)


 その輝きに、月乃はごくりとのどを鳴らした。

 廃刀令が公布されて以降、士族の間で仕込み刀を携行するのが流行った。月乃の実家の謡川うたがわ家の蔵にも、たしか一本あったはず。だが男の持つそれは日本の刀とは少し違った。両刃で刀身は細く、斬り落とすためというよりは、刺し貫くための武器に見えた。


 そして月乃の想像通り。次の刹那、銀の刃は影をまっすぐ穿うがっていた。空気がきしむ嫌な音がして――数秒の後、影はバラバラに砕けて割れる。黒い破片が風にさらわれたかと思うと、すぐに細かい粒子となって辺りの闇に混ざり消えてしまう。月乃はその様を、助け起こした饅頭を抱えたまま見ていた。


「助力に感謝する。怖いもの知らずのお嬢さん」


 影が完全に消滅したのを見計らって、剣を元の杖に収める。漆黒の外套マントが風になびき、長身痩躯ちょうしんそうくの男は二歩進み出ると月乃の目の前に立ちはだかった。


 背は六尺一八〇センチを越えるだろう。改めて目の前に立たれると、黒ずくめの風体もあいまって威圧すら感じさせる。月乃は思わず身構えたが、当の男は気にもかけない。優雅な宵の挨拶とばかりに目深にかぶった中折れ帽を右手でひょいと持ち上げてみせると、少しだけ頭を下げた。そこでようやく、闇に同化していた男の顔かたちが明らかになる。


 肩近くまで伸びた髪は、月光を集めてつむいだかのごとき白金。ゆるやかに波打っていて、上半分をざっくりと結っている。灰色の瞳は透き通り、すっと通った鼻筋は象牙の彫刻を思わせた。目つきの鋭さと全体的な色素の薄さも相まって冷たい印象を抱かせるものの、恐ろしいくらいに整った顔立ちの男だった。

 先程までとはまた違った種の畏怖いふに、月乃は圧倒される。しばらくまじまじと見つめてしまったところで男の目つきが険しくなったので、ようやく我に返った。まだ礼をしていなかったことを思い出し、あわてて頭を下げる。


「こ、こちらこそ、助けてくださってありがとうございます」

を返してくれないか」

「えっ?」


 杖で示されて自分の胸元を見ると、抱えたままの饅頭毛玉がもぞもぞと動いている。


「あなたが飼い主さん……?」


 男が答えるよりも先に、饅頭が翼を広げてばさばさと羽ばたいた。そのまま月乃の腕の中から抜け出して、男の長い腕に飛び移る。短い尾をこちらに向けたまま首だけで振り返るその姿は、やはりふくろうたぐいのようだ。感心している間に腕を止まり木代わりにした男が立ち去ろうとしたので、月乃はあわててそれを引き留めた。


「あの! ちょっと待ってください。その子、血が出ているの。――ええと、血。“Blutぶるうと”」


 なんとかわかってもらおうと知っている獨語をひねり出すと、男は少し驚いたように振り向いた。遠ざかりかけた背が呼びかけに応じたので、月乃は安堵する。そのまま躊躇ちゅうちょなく、自分の髪を束ねているあい色のリボンを頭から引き抜いた。ただ一本にまとめられていた長い黒髪がこぼれて、しっとりと肩を滑る。


「しばらく何かでしばって止血した方がいいと思います。あと、できれば消毒も」

「君は医者か?」

「いいえ。でも……」


 いぶかしげな男の視線に、月乃はまっすぐ答えた。


「父は医者でした」


 より正確に言えば、父の性質は研究医に近かった。月乃が多少の獨語を扱えるのも、子供の時分から父の書斎で獨語の医学書を読みあさっていたからだ。父は開業医ではなかったが、貧しい人々を無償でていたので屋敷にはいつも人の訪れが絶えなかった。月乃は自分が父のような医者になろう、なれるとは微塵みじんも思っていなかったけれど――少なくとも、その奉仕の精神だけは受け継いでいたかった。

 梟の片翼に包帯代わりの藍色のリボンが巻き付けられてゆくのを、男はしばらく無言で見下ろしていた。


「はい、できました。後で何か清潔なものと取り替えてあげてくださいね」

Jaああ……」


 最後に両端をぎゅっと縛って笑うと、男からほうけたような相づちが打たれる。月乃は満足してうなずき返し――


「あーっ!」


 すぐに自分の本来の目的を思い出した。あわてて地面を確認すると、一升瓶は粉々。醤油のほとんどは消えた影と月乃の袴にかかったようで、点々と砂利に染みを残すのみである。

 一体何のために学園を抜け出して来たのか。ものの勢いで醤油瓶を割ってしまったが、自分のやったことなのでどうしようもない。覆水ふくすい盆に返らず、である。義妹・亜矢あや罵倒ばとうを覚悟して、月乃はがっくりとうなだれた。

 そうこうしている間にも夜の気配は濃さを増してゆき、東の空には星が瞬いている。


「帰らないと……!」


 あわてて倒れていた自転車を起こしまたがる。どうやら転んだ際にどこかが曲がってしまったらしく、いでみるとギッギッと胎輪タイヤがこすれる音がした。


「本当にどうもありがとうございました。ごきげんよう!」


 それでも構わず、月乃はぺこりと頭を下げると踏み板に体重をかけて走り出す。あっという間に、その場から風を連れ去ってしまった。


「〈変な女だ〉」


 ギッギッギッと滑稽こっけいな音が遠ざかっていく方へ、獨語のあきれ声がこぼれた。腕に止まらせた相棒がばさばさと羽ばたきで抗議するので、思わずひとりと一匹は顔を見合わせる。すると翼の動きに合わせて揺れたリボンの端に、小さく白糸で縫い取りがされているのが目に入った。


“TSUKINO.U”


 それは今し方去ったばかりの奇妙な少女の名前。

 おびえていたかと思えば勇敢で、利発かと思えばどこか間が抜けている。笑ったかと思えば驚き、すぐに泣きそうな顔に変わって――。


「ツキノ。……ウタガワ……?」


 驚きの色がにじんだつぶやきは、誰に届くこともなく夜の空気に溶けた。

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