ニ、お前の相手は俺だ
「だれ……っ!?」
しゃがんだ姿勢のまま振り返る月乃の二
二本足で立ち、ヒトのように天に垂直に伸びる何か。夕日の名残をわずかに残す
「お、お、おば、お化け!?」
月乃の叫びに“影”は答えなかった。代わりにのそり、と
あまりの恐怖に声も出ない。月乃は反射的に饅頭を
「Dein Feind ist ich〈お前の相手は俺だ〉」
次の瞬間、ぎぃぃぃいいん! と耳の奥に突き刺さるような金属音が響いた。月乃を襲うはずだった衝撃はいつまで経ってもやって来ない。恐る恐る薄目を開けると、月乃の前、影との間を
黒の中折れ帽。漆黒の
暗闇に同化するように丈長の
「助けて……くれたの……?」
男は言葉を返さない。見向きもしない。代わりにまっすぐ射られた視線の先には、人型の影がゆらゆらと佇んでいる。
影は男を敵と認めたのか、間髪入れずに再び襲いかかった。伸びた腕が
「
男が舌打ちしたのが聞こえた。たびたび漏れる言葉から、月乃にはどうやら彼が異人――獨帝国の人らしいということがわかる。更に二度三度と重ねられた攻防を間近で見ているうちに、月乃はふと、先程から男の靴裏が一度も地面から離れていないことに気が付いた。
(私を庇っているから……?)
男は月乃を背にしたまま、一歩も動かずに影の猛攻をしのいでいたのだ。邪魔にはなりたくないが、今この場を逃げ出そうとするのも得策でないように思えた。
どうしよう。どうすればいい。
ぐるぐると自問自答を繰り返す月乃の背中で、醤油の瓶がたぷんと揺れた。
やがて十以上の打ち合いの末、男の足元で
「やぁぁああ!」
「!」
ひるがえった男の
しかし
ばりぃぃん!
重たい振動が月乃の両腕に伝わり、
だが、すぐに後ろから男の笑い声が聞こえた。
「いいぞ。
ところどころ月乃にはわからない単語が雑じっているものの、男が口にしたのは流ちょうな日本語だった。同時に、彼は軽々と片腕で月乃の体を抱えてそこから飛び退く。元いた位置に月乃を置き直すと、すぐに振り返ってステッキを影の前に構えた。銀の意匠の持ち手をひねり、すらりと引き抜く。すると黒い杖の柄から、銀色に光る刃が現れた。
(仕込み杖……!)
その輝きに、月乃はごくりと
廃刀令が公布されて以降、士族の間で仕込み刀を携行するのが流行った。月乃の実家の
そして月乃の想像通り。次の刹那、銀の刃は影をまっすぐ
「助力に感謝する。怖いもの知らずのお嬢さん」
影が完全に消滅したのを見計らって、剣を元の杖に収める。漆黒の
背は
肩近くまで伸びた髪は、月光を集めて
先程までとはまた違った種の
「こ、こちらこそ、助けてくださってありがとうございます」
「それを返してくれないか」
「えっ?」
杖で示されて自分の胸元を見ると、抱えたままの饅頭毛玉がもぞもぞと動いている。
「あなたが飼い主さん……?」
男が答えるよりも先に、饅頭が翼を広げてばさばさと羽ばたいた。そのまま月乃の腕の中から抜け出して、男の長い腕に飛び移る。短い尾をこちらに向けたまま首だけで振り返るその姿は、やはり
「あの! ちょっと待ってください。その子、血が出ているの。――ええと、血。“
なんとかわかってもらおうと知っている獨語をひねり出すと、男は少し驚いたように振り向いた。遠ざかりかけた背が呼びかけに応じたので、月乃は安堵する。そのまま
「しばらく何かで
「君は医者か?」
「いいえ。でも……」
「父は医者でした」
より正確に言えば、父の性質は研究医に近かった。月乃が多少の獨語を扱えるのも、子供の時分から父の書斎で獨語の医学書を読みあさっていたからだ。父は開業医ではなかったが、貧しい人々を無償で
梟の片翼に包帯代わりの藍色のリボンが巻き付けられてゆくのを、男はしばらく無言で見下ろしていた。
「はい、できました。後で何か清潔なものと取り替えてあげてくださいね」
「
最後に両端をぎゅっと縛って笑うと、男から
「あーっ!」
すぐに自分の本来の目的を思い出した。あわてて地面を確認すると、一升瓶は粉々。醤油のほとんどは消えた影と月乃の袴にかかったようで、点々と砂利に染みを残すのみである。
一体何のために学園を抜け出して来たのか。ものの勢いで醤油瓶を割ってしまったが、自分のやったことなのでどうしようもない。
そうこうしている間にも夜の気配は濃さを増してゆき、東の空には星が瞬いている。
「帰らないと……!」
あわてて倒れていた自転車を起こし
「本当にどうもありがとうございました。ごきげんよう!」
それでも構わず、月乃はぺこりと頭を下げると踏み板に体重をかけて走り出す。あっという間に、その場から風を連れ去ってしまった。
「〈変な女だ〉」
ギッギッギッと
“TSUKINO.U”
それは今し方去ったばかりの奇妙な少女の名前。
「ツキノ。……ウタガワ……?」
驚きの色が
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