魔月恋月 〜をとめの恋は月下に咲く〜
灰ノ木朱風@「あやかし甘露絵巻」発売中!
第一章 をとめの日常は薔薇の学び舎の中
一、お醤油がほしい
「お醤油がほしいわ」
きっかけはひとつ年下の義妹、亜矢(あや)の一言だった。
「聞いてらした?
長机の並ぶ寄宿舎の食堂で。
謡川月乃(うたがわ・つきの)の眼前に突き出された小皿に乗っていたのは、上品なひとくちサイズの
文明開化より早
ここは帝都の山の手にある女学校。裕福な家庭の子女が通う寄宿制の私学校だ。
食堂は洋間。脚の長い机に桃色の掛け布が敷かれて、銀の
「さっき、
月乃が消え入りそうな声で答えると、クスクスと小さな笑い声が周囲から漏れた。
この学園で寝起きする数え十五から十九ほどの女学生は皆、制服である
「切らしている? それなら今すぐお醤油やさんでもらってきてくださいな。早くしないとお姉様の
亜矢の笑い声に合わせて菊柄の上質な
わかっている。これはいつもの亜矢のいやがらせだ。月乃は無言で口を引き結んだ。
どちらかと言えばおとなしい月乃が何も反論できずにいるのに対して、おしゃべりな亜矢は「今日は舞踏の授業で疲れたから、少し濃い味付けのものがほしくって」「やっぱり和食が一番よね」と、それらしい御託を並べて周囲の笑いを誘う。
月乃が逃れるように小走りで食堂を出ると、
「亜矢さんたら。少し意地悪がすぎるんじゃなくて?」「うふふ、いいのよ。あの子には女中がお似合いだわ」と心ない
そのまま外廊下を通り、裏手の厨房へ回る。あきらめ半分で中の厨夫に尋ねてみるとやはり、醤油は切らしていた。
「ああもう、こうなったら」
手ぶらで戻ったらなんと嫌味を言われるか。月乃はどうしても亜矢に逆らえない理由があった。亜矢が本当に醤油を必要としているかはこの際重要ではない。彼女に「醤油を持って来い」と言われたら、ただ言われた通り従う他ないのだ。
月乃は厨房から空の
沈みかけの夕日を背に、月乃は
学園の周囲には
この生け垣は春になるとまた別の種の、白い薔薇が咲く。そのためこの学び舎は、あこがれと親しみを込めて通称“
「薔薇学園のお嬢さんだ」
「御納戸小町だ」
学園の敷地の周囲の小さな森を抜け、川を渡れば通りは舗装された石畳になる。昔ながらの木造家屋と塗り壁のモダンな建築が混在する商店街をまっすぐ突っ切れば、すれ違う人々から
月乃は満十七歳。当時学校は秋始まりが主流で、月乃も今月進級したばかりだ。
結流しの髪を飾る藍色のリボンはきりりと清く、着物は風を通して品良くなびく。全体的に小作りだが顔立ちは愛らしい。何より高価な自転車を
だが月乃は得意になるどころか、恥ずかしさでいっぱいだった。御納戸の袴は入学して以来何年も買い換えていないものだから、丈が少し短くなってしまっている。近くで見れば着物の綿生地が何度も
とにかくめいっぱい速く走り抜け、商店街の端、店じまいを終えて
既に日は沈み、空は薄紫に染まっていた。
いつの間にか人影もまばらになり、通りにはちらほら
古来よりこの位の時刻を“
月乃もなんとなく落ち着かない気持ちになって、自転車を漕ぎながら気を紛らわすことにする。
「びほるど・はー、しんぐーいんざふぃーるど……」
口ずさむのは英国の詩人、ヰリアム・ワァヅワスの詩の一節である。月乃は勉学が、特に国語と外国語の時間が好きだった。しゃこしゃこと軽快な車輪の音に合わせて英文を暗唱すると、背中で瓶いっぱいの醤油が、たぷん、と合いの手を入れる。
「のー・ないちんげーる、でぃでばー……」
詩が二番にさしかかったところでふと、“ナイチンゲェル”という単語が月乃の頭をかすめた。
(ナイチンゲェルって、鳥の名前よね。ロメオとヂュリエットにも出てきたわ)
ナイチンゲェルとは夜になると美しい声でさえずる鳥らしいが、あいにく日本には生息しない。月乃もその声を想像の中でしか聞いたことがない。
(きっとすごく綺麗な鳴き声なんだろうな。いつか私も聞いてみたい……)
外国との交流が盛んになったとはいえ、女子が洋行するのは容易ではない時代である。
気付けばとっくに商店街を走り去り、学園と街を隔てる川に差し掛かったところだった。ここまで来ると明かりも既になく、あたりはすっかり暗い。
相変わらず考え事をしたまま石橋を渡った月乃は、ちょうど橋の終わり、砕石道の真ん中に大きな石のようなかたまりが転がっていることに直前まで気付かなかった。
「わあああああ!?」
行きにはなかったはずの障害物をようやく視認するも、既に遅い。突然道の上に現れた何かを避けようとした月乃は、
とっさに背中の一升瓶を死守しようとした結果、左腕を
「いたたたた……」
ずり
「鳥……? ふくろう、かしら」
確かにそれは鳥だった。
大きな石だと思ったかたまりは、翼を生やした毛むくじゃらの生き物だった。
「怪我してる! 大丈夫?」
一体何にやられたのか、四の五の考えるよりも先に月乃の体は動いていた。
あわてて饅頭――もとい鳥の元に近付きしゃがみこむと、こんもりとした
「ちょっと待ってね、血を止めないと」
何か包帯代わりになるものはないかと数秒考え、自分の頭を飾るリボンの存在に思い至ったその時。
月乃の背後で、何かが動いた。
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