十六、恋って難しいのね
翌日。傷心のスミ江は授業に現れなかった。
級友達は朝食にすら姿を見せなかった彼女の体調を心配していたが、午後の授業が始まる頃にはどこからともなく昨日の事件のことが広まっていた。
“スミ江は学園内で男と逢い引きしようとして学園長に見つかったのだ”――と。
相手の男が怪異に襲われたという事実は巧妙に隠されて、しかしその他の部分にはいかにも女学生が好みそうな尾ひれ背びれが付いていた。
フリッツに問い
そして夕食の折には、舎監の川村女史から「スミ江は結婚のために退学し、郷里へ戻る」ということが皆に告げられた。本来であれば、月末までは学園に残るはずだったのに――。
「恋って難しいのね……」
その日の晩。寄宿舎の窓から外を見ていた月乃は、月夜に向かってぽつりと独りごちた。
スミ江と俊雄。想い合っているのに、ふたりは結ばれない。
そして昨日、
どれも大切で、どれも尊いもののはずなのに。どうして神様は、恋の成就と愛の永遠を叶えてくれないのだろう。
“お人好しは君の美点だが、安易に同情すべきではない”。
不意にフリッツの言葉がよみがえって、胸の奥がつきんと痛んだ。
(わかってる。わかってるわ。恋ってそんな簡単な――ひとくくりにできるようなものじゃないって)
月乃は恋の何たるかをまだ知らない。いや、心に種が
ハァ、とため息を付いて両開きの窓を閉じる。ふと振り返ると、寝支度に
「どうしたの藪から棒に。……井崎スミ江さんのこと?」
どうやら先程の独り言を聞かれていたらしい。
「ええ、もちろんそれもあるけど……」
「かえって諦めがついて良かったんじゃないかしら。彼女、お家が事業をしてらっしゃるもの。お相手の方は苦学生だったみたいだし、いずれにしても上手くいかなかったと思うわ」
ぴしゃりとそう言い切って、つげ櫛を机の
彼女は子爵家の娘だ。家同士の格や結び付き、相互の利益――そんなものによって女としての未来が決められてしまう現実を、千代は誰よりもわかっている。
「ねえねえ、そんなことより。昨日買った新しい着物、届いたんでしょう? どんなものなのか知りたいわ。見せてちょうだいな」
昨日着て帰った朱赤の着物を、千代は絶賛してくれた。他にも何着か手元に届く予定だと伝えると、飛び上がって喜んだ。
だが案の定、「一体どうしたの」と問われて。まさかフリッツ――表向きは新任の英語講師である――とふたりきりで出掛けたなどと言えるはずもなく、月乃は嘘ではないが真実すべてではない、という曖昧な答え方をせざるを得なかった。
「私の身なりを見かねた方が、
「そういうのは施しではなく“
「
素敵な言葉だと思った。
(そうね。これはフリッツさんからのプレゼントだわ)
早く早くと腕にまとわりつく千代に急かされて、月乃は自分の
「あら、素敵じゃない!」
「これは……」
千代が歓声を上げた。正絹の紫の風呂敷に収められていたのは、昨日女将達と決めた通りの淡藤色の牡丹唐草、鳥の子色の
木箱に入った、二十四色の水彩色鉛筆。
(どうして……いつの間に……?)
おっかなびっくり
不意にまた、胸の奥がつきんと痛くなる。
月乃は、恋の何たるかをまだ知らない。
◇
帝都の台所と呼ばれる
二階の出窓を開け放ち、長い手足を投げ出して窓辺に腰掛けるのはこの館の仮の主。そこへ一羽の白い
梟をひと撫でした男は、先程から一枚の紙を月明かりに透かして飽きもせずに眺めている。はがき大のその紙に描かれたのは、三日前に彼が訪れた
彼は先日、ひとりの少女に色鉛筆を贈った。美しい木箱に入った舶来の、珍しい品である。この絵手紙は、その色鉛筆を使って描かれた彼女からの返礼だった。
“その……
今日の昼、そう言って差し出された一枚の絵。拙いだなんてとんでもない。その洋紙には青空の下に並ぶ煉瓦街の白壁が、生き生きと写し取られている。
「〈まるで写真のようだな。これが独学だというんだから恐れ入る〉」
男が獨語でつぶやくと、首をくるりと傾げた梟がギェギェと相づちを打つ。
「〈風景画を描くなら、もっと大きなキャンパスを使って
一見写実的な彼女の絵。だがその世界には、現実の風景とは異なるいくつかの虚構があった。
まず、
今を盛りと咲き誇る満開の桜と菊――それは、彼が少女に贈った朱赤の着物の柄である。彼女はその一枚の絵で、多くの感謝を彼に伝えていた。
彼女の想像の翼で色付いた世界。その表面を愛しげになぞる男の指を、ホッホッホウ、と梟のさえずりが
「〈もちろん忘れていないとも。彼女は“
梟に答えるようにそう言って、男は上着の内ポケットから何かを探る。右手に取り出されたのは
「〈知れば知るほどその名が相応しい。
その表紙を彩るのは、水絵の具で描かれた青白い月。子供らしい丸っこい字で書かれた
◇
おつきさまはさみしそう。
いつもひとりぼっちで、よぞらにおふねをうかべているから。
濃紺の
〈第三章へつづく〉
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