第十八階層 大海原

 降りる階段は普通で特段に長い作りにはなっていない。一行は数分も掛からず、新しい階層に到着した。

 通路を原生林に囲まれた。突き出た細長い葉を茜が触る。

「本物っぽい」

「それより前を見てよー」

 冨子の声に全員が従う。ゲートのような物で仕切られた先が青い。目測で二十歩の範囲を遥かに超えていた。

「ここはチュトリアのような街なのか?」

 直道は衝撃で止まっていた足を動かす。

 横手にいたハムは下草の匂いを嗅いだ。

「この植物の臭いは嗅いだことがないぞ」

 用心とは別の興味で一行は足早に先へと向かう。

 木製の柵の中央は一メートルくらいの間隔で開いていた。誰かに制止を求められた訳ではない。三人は同時に足を止めた。

 柵の向こうには輝くような白い砂浜が見える。打ち寄せては引き返す波音がはっきりと耳に聞こえた。

 蒼穹そうきゅうの空の下、大海原が広がっていた。

 真円に近い目で茜がぽつりと口にする。

「ウソみたい」

「ダンジョンの中に異世界があるみたいだねー」

 冨子は大きな伸びをして言った。

「いらっしゃい」

 しゃがれ声は横手から聞こえた。目にした瞬間、全員に緊張が走る。

 禿頭とくとうの老人は気に掛けない。ひょこひょこと歩いて柵の中央に立ち、一行を穏やかな顔で見つめた。足元には白い子犬がいて、お座りの姿で制止した。

「あのー、上の階でお会いましたよねぇ?」

 冨子が微妙な笑顔で問い掛ける。老人は艶やかな頭を撫で回し、ああ、と何かを思い出したように言った。

「それは商人の五郎ですな。ワシ、いや私は四郎で海の管理人をしております」

「爺、びっくりさせるなよ。また子犬に襲われるかと思ったぞ」

「はい?」

 冨子は即座にハムの正面に立った。目を見開いた状態で腰を屈めて、なーに、とあどけない声を出した。

「ハムちゃん、子犬が怖いの」

「そうよねー。前に吠えられたからねー。それから子犬が怖くなったのよねー」

 凍てつく眼に晒されたハムは、怖い、と再び震える声で言った。

「そうでしたか。こいつは大人しい性格で他人様に吠えることはありませんよ。安心してください。早速ですが入場料と水着使用料でお一人様、金貨一枚を頂きます」

「え、お金取るの?」

 茜の声に老人は、はい、と微笑んで答えた。

「こちらも商売でして。良心価格だと思いますよ。どうします?」

 子犬を一瞥いちべつした直道が老人に尋ねた。

「降りる階段があると思うのだが、ご存じか」

「海を越えた先にありますよ。その為の水着になります」

「考える余地はないようだ」

 直道は冨子を見た。渋々と言った態度でエプロンのポケットから皮袋を取り出し、人数分の金貨を支払った。

「お亡くなりになりましたー」

 皮袋を引っ繰り返してぷらぷらと振って見せる。

「仕方がない。ところでハムの料金は」

「そちらはサービスさせて頂きます。人ではない上に元々が裸なので」

「俺様の肉体美を隠すような衣服は必要ないのだ」

 ハムは砂浜に足跡を残し、颯爽と海に向かう。

 他の三人は老人に案内された個室の更衣室で水着に着替えた。

「直道さん、どうかしら」

「似合っているとは思う」

 トランクスの直道は早々と目が泳いだ。冨子は黒のチューブトップを選んだ。胸の先端は隠れているものの、上と下の白い肉は微妙にみ出ていた。下半身は際どく、煽情的な魅力に溢れている。

 茜はワンピースタイプの水着姿でほっとした。

「……無理しなくて良かった」

 目のやり場に困っていた直道は老人に言った。

「脱いだ衣服はどうするつもりだ?」

「ここに置いていくわけにはいかないしー、もしかしてワンちゃんが変身して泳いで運んでくれるとか?」

「いえいえ、そのようなことはできませんよ。ただの子犬です」

 老人の言葉に冨子の糸目が僅かに開いた。

「本当に?」

「はい、その代わりとして荷物持ちを呼びます」

 老人は親指と人差し指を輪にした状態で口に咥える。胸を大きく膨らませると鋭い笛のような音を立てた。

 海の彼方から巨大な翼竜が飛来した。白い砂塵を巻き上げて着陸すると老人を首に乗せた。

「私が衣類や小物を丁重に運びます。皆様は海を堪能して対岸までお越しください。それではお先に失礼します」

 翼竜は大空に向けて吠えた。一回の羽ばたきで宙を飛び、優雅な羽ばたきで見えなくなった。

 冨子は糸目に戻って息を吐いた。

「金貨を取り戻そうとしなくて正解でしたー」

「あのねぇ、本当にやめてよね」

「ここでは常識が危ういな」

 三人は言いながら砂浜を渡り、海へと入った。自然に笑みが零れ、各々が頭から飛び込んでいった。

 楽しい海水浴の時間は過ぎ去った。過酷な遠泳に変わる。

 茜は平泳ぎで前を見た。

「対岸が見えて来ないんだけど」

「腕がだるいー」

 冨子は仰向けとなってバタ足を続けた。

「ハムの姿が見えないが、まさか到達したのか」

 クロールを中断して直道は立ち泳ぎで見回す。

「あるかもねー。体力は底なしみたいだからー」

「それならハムに引っ張って貰えばよかったんじゃないの」

 茜は腹立ち紛れに海面を叩いた。飛び散る飛沫が真珠の輝きを放つ。

「俺様を呼んだか?」

 すぐ近くの声に茜が声を荒げた。

「いるならいるって言いなさいよ!」

「それが人にものを頼む態度なのか」

 ハムは突き出した鼻の穴から海水を空に向かって噴き出す。茜は頭から被り、ずぶ濡れとなった。

「わ、悪かったって! ハムちゃん、お願いしますっ! 私達を向こう岸まで連れていってください」

「お安い御用だ」

 ハムは対岸に背を向ける。

「あのー、ハムちゃん。向きが違うんだけどー」

 冨子の声にハムは口の端で笑った。

「俺様の独自の泳法だ。心配しないで後ろにしがみ付くがよいぞ。直道も遠慮するな」

「私が先で次は」

「もちろん私に決まってるでしょー」

 冨子は直道の背中に胸を押し付けた。茜は顔の海水を拭って母親の腰に手を回す。

「あーん、もっと優しくー」

「ヘンな声を出さないでよ!」

「用意はいいな。では、俺様の泳法に見惚れるがいい!」

 ハムはガブガブと海水を呑み出した。取り込んだ物を鼻の穴から猛烈な勢いで噴き出す。無限の推進力を得て一行は海を裂いて驀進ばくしんした。

 凄まじい風と海水を背中に受けた茜は声の限りに叫んだ。

「全然、泳いでないじゃない! どこが泳法なのよォォォ!」

「俺様の超絶泳法に胸を焦がすがいいぜェェェ!」

 その勢いはとどまることを知らず、砂浜まで突っ込んだ。全員が尻に焼けるような痛みを覚えてようやく止まった。

 そこに老人がにこやかに声を掛ける。

「大いに楽しまれたようで何よりです。着替えはあちらになります」

「お尻が焦げたかもー」

 冨子は食い込む水着を指で戻して立ち上がる。他も似たような状況で尻を摩った。

「俺様に感謝するがよいぞ」

 ハムの物言いに三人は凄みのある笑みを浮かべた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る