エステ川の渡し守のやる気のない日々 ~副業もしてるけど、やっぱりやる気は出ない~

仕黒 頓(緋目 稔)

エステ川の渡し守のやる気のない日々

 その時代、村といえば森の中に点在する小さな集落で、それらを繋ぐ街道はいまだ整備の途中だった。

 それでも人々は様々な理由から、悪路果てしない旅路へと身を投じた。

 時代と共に橋が増えても大きな川を越えるのは大変なもので、人が行き来する度に、新たな出会いと別れが生まれていった。

 それが良いものかどうかは、さておいて。



        ◆



 顔のすぐ前に、ナイフがあった。


「殺してやる!」


 そう叫ぶのは、長い髪を振り乱して叫ぶ、鬼のような形相をした女だった。

 こんな時に取るべき行動の正解があったなら、誰もが知りたいと思うだろう。

 けれど生憎あいにく俺は知らないし、手を挙げてこの場から逃散ちょうさんするわけにもいかない。

 だから冷や汗を必死に隠しながら、取りあえずこう言った。


「ま、まぁ、少し落ち着いてください」

「これが落ち着けるわけないでしょ!? いいからそこどいてよ!」

「いやいや退いたらいかんですよ渡し守さんっ。というか早く船出して船!」


 目の前でナイフをぶんぶんと振り回されているのは俺なのに、後ろから更に悲痛な叫びが返る。

 そもそもてめぇら二人とも俺の船から降りろ、と叫びたかったが、そこは客商売。喉まで出かかった雑言を辛うじて飲み込む。

 代わりに、「いいですか、お二人とも」と努めて冷静に、聞いた奴の大抵が納得しない渡し船の規則を説明した。


「渡し船は原則平和領域アジールとしての面があります。後から追ってきた者を共に乗せることも、突き出すこともしない。

 たとえ何がしかの理由があって同船したとしても、舳先へさきと船尾に分け、先に乗った者を先に対岸に渡すことが義務付けられている。

 渡し守は、いかなる犯罪にも荷担せず、一貫して中立の立場を厳守しなければならない」


 っていう渡し守の組合規則があるんですよ。


 と叫んでも無駄だと、今までの経験から重々承知してはいた。

 が、二つ先の村からかかる橋を避けてこの船着き場に来る人間は大概訳ありなので、結局毎回説明する羽目になっていた。

 案の定、眼前の女の目が更につり上がった。


「だからなんだって言うのよ! いいから早くその男を渡しなさいよっ」


 ひぃーっ、と俺の背中に何とも情けない声がかかる。

 毎度のことといえ、まだ殴り合いながら乗り込んできたわけでないだけましかと折り合いをつけ、俺は諦めの溜息とともに頷いた。


「分かりました」

「ちょっ、渡し守さん!?」


 更なる悲鳴が上がるのを無視して、船尾に足をかけたままの女性に現状の説明を追加する。


「ですが、男性このかたからはすでに船賃を頂いています。今さら降りられてもお代は返せません。なので、お嬢さんもそのまま船尾に乗ることならできます。その代わり、お代は割増で頂きますよ」


 愛想よく片目を瞑って見せると、


「……分かっ」「嫌ですッ」「たわ」


 僅かな沈黙の後、そんな返事が前後から上がった。後方は無視した。


「毎度あり~」


 客商売は笑顔が第一。

 差し出された銅貨を素早く懐に仕舞いながら、俺は満面の笑みで少しだけ逆立った毛が落ち着いた女性を船尾に座らせた。





 顔のすぐ前には、依然ナイフがあった。

 俺の顔の、ね。


 平底の細長い木船パントの中央に立ち、長棹クワァントで川底を突きながら、一番の難題は実はこれなんじゃないか、とたまに思う。

 今日は、俺を路傍の石とみなし何度でも互いに飛びつこうとする阿呆もいなければ、雨後の危険な急流でもない。黙って座っていればものの数分で終わる、安全な渡しだ。

 しかし残念ながら、数秒で、とまではいかない。

 つまりその間は、この沈黙をどうにかやり過ごさなければならない。

 正確には、殺気混じりのこの沈黙を、だが。

 俺としてはいつだって金の沈黙で十分なのだが、今回もまたそれは許されそうになかった。

 女が、ぼそりと恨みがましい声を発した。


「その男が悪いのよ」


 怒りでか緊張でか、両手で持つナイフを小刻みに震わせながら、女は何度も続ける。

 こらこら、俺の鼻先がなんかチクチクするでしょうに。


「殺してやる。私を裏切って他の女となんて……絶対に殺してやるんだから」


「…………」


 聞こえないフリしてていいかな。


 とーん、と川底をまた突きながら、対岸だけを見据える。

 が、今度は舳先に張り付くようにして震えている男が、黙っていればいいのに言い訳がましく抗議し出したことで、俺の希望は儚く潰えた。


「そ、そのことは何度も悪かったって言ってるじゃないか。それにしたって、彼女を殺そうとするなんて……やりすぎだろ」

「当然でしょ! 私はあなたの婚約者なのよ。婚約者を奪った奴なんて、殺されたって文句は言えないでしょっ?」

「それでも彼女が殺される程君に何かしたわけじゃないだろう」

「何か、した、わけじゃない!? よくもそんなことが言えたわね!」

「お、お前だって俺への当てつけで他の男と歩いてただろ!」

「嫉妬してほしかったのよ! それでやっぱり私を手放せないって思い出してほしかったの! それくらい分かるでしょっ?」

「わか、わかるわけないだろっ。もうお互い気持ちが冷めたかと思って、俺はっ」


 必死で宥めているつもりなのだろうが、逆に火に油を注ぎ続ける男が、対岸だけを見続ける俺にちらちらと視線を向けてくる。


 ちらちらちらちら。


 目顔なのに凄まじく煩かった。

 俺は一度だけ視線を下げたあと、深々と溜息をつきながら昨日のことを思い出した。





『あんた、実は裏で殺しの請負もしてるって聞いたんだが、本当なのか?』


 昼下がりの温かな陽気の中、木船の中で寝転がって昼寝をしていた時に、この男は一度船着き場を訪れていた。

 半信半疑で聞いてきた内容に、俺は実に面倒くさげに「で?」と聞き返した。


 交通の治安が良くなり、川にはどんどん橋が架けられていくこのご時世、渡し守だけで食っていくのは大変だ。

 副業は、渡し守組合でも暗黙の内に許可されている。

 今回の依頼は、女が追いかけて来て殺そうとしたら、殺すこと。

 つまりこの熱視線は、


 いま俺殺されそう、代わりに殺して!


 の合図なのだ。


 相変わらず、こんな仕事しかやってこない。その中でも痴情のもつれは最悪だ。仕事が成功しても失敗しても、怒涛のような怒号と悲鳴と号泣と悔恨が必ずついてまる。

 が、今日の飯と酒のため、俺は仕方なく目の前のナイフに対峙することにした。


「あー、その、お嬢さん」


 長棹を右手に持ったまま、歯切れも悪く口を挟む。と、ギンッと音がしそうな勢いで睨まれた。

 もうやめたい。

 が、ここは十人も乗れないような狭い船上の密室(とは言っても壁も天井もない全面開放型だが)。

 逃げ場はない。

 水中以外にはね。


「えー、まずは少し落ち着いて、話し合いでもしませんかね。お互い誤解もあるようですし」

「誤解!?」


 語尾が飛び跳ねた。俺の口から出たのと同じ単語だとはとても思えない。

 どうやら説得は早速敗色濃厚のようだ。


「私を! 誰より愛してるって言ったのが誤解? 結婚しようって言ったのが誤解? 黙って他の女と会って結婚の約束をしたのが、どんな誤解だって言うの!」

「なんで怒らせるんだよぅっ」


 まさに金切声、と感心する俺の裾を引いて、男が背後で抗議してくる。

 あんたがそれを言うかと、目線だけで突っ込む。結局殺すなら、怒りの段階が憤怒でも激憤でも逆上でも大して変わりはない気がするのだが。

 と思っていると、女がまた声調を変えてぼそり、と吐き捨てた。


「ただの気の迷いだったら、私だって許してあげたのに……」


 どこか泣きそうな、少し後悔しているようにも聞こえる声だった。

 ナイフは相変わらず俺の顔に突き付けられたまま。

 だが、視線が彷徨った一瞬の内に取り上げて押さえられるかも、と目算を立てた時、


「……運命だって感じたんだよ、会った瞬間」


 背後から、いらん言い訳が入った。

 案の定、金切り声が戻ってきた。


「運命の相手は私よ! 私がずっと、あなたに会うために生まれてきたんだって、そのくらい愛しているって言ってたのに」


 ぐぐいっとナイフの刃先が焦眉しょうびに迫る。

 こら後ろの男っ、俺を押すな盾じゃねぇぞ!


「それなのに……あんな性悪な女に本気なんて! 何で私の方が捨てられるのよ!」

「アンニは性悪なんかじゃないっ。家族のために健気に働く、優しいいい子だ」

「優しいいい子が人の男に手を出すわけないでしょ!」


 激昂してるのに意外と冷静だな、とつい分析する。

 女は感情だけで突っ走って、過去も未来も他人も全部ごちゃ混ぜにして責め立てるくせに、時々冷静に核心をついてくるから怖い。

 一方俺の背に張り付いたままの男はと言えば、言い訳のつもりで本音が駄々洩れている辺りが一番残酷だと、気付いてもいない。

 正論は正義で、真実が誠実だと勘違いしている。

 終始嘘を吐き通した方が、女にとってもそれほど不幸な話にはならなかっただろうに。


 が、それは俺の勝手な自論なのでここでは披露しない。代わりに、別の角度から挑戦してみる。


「それね、本当だよなぁ。君の大事な恋人は、きっと悪知恵の働く魔性の女に騙されたんだね」


 背中の男はぺっぺっと剥して、しみじみと女性に同情する。

 と、刃先越しの瞳が途端に表情を一変させた。


「そう、そうなのよっ。あの女、少し綺麗な金髪ブロンドだからって自慢気にしちゃって、家族のために働くって? 女ならそんなの当たり前じゃない!」

「そうだよねぇ。君だって毎日身を粉にして家族のために働いてるのに。この手だって、痛々しいあかぎれだらけで、君がどれだけ文句や我が儘を堪えて真摯に頑張ってきたかが見えるようだよ」


 そっと、驚かせないように女性がナイフを持つ手に触れる。

 見た目以上に、その枝切れのような手はがさがさで、苦労がにじみ出ていた。

 頬に浮いたそばかすも、それだけ陽に当たる時間が長かったことを物語っている。


「そうよ、私は……器量が悪いって言われても、地味とか暗いとか言われても、彼が――ハンスが私のこと可愛いって、よく頑張ってるって言ってくれたから、それだけで良かったのに……」

「エマ……」


 背後からの神妙な呼びかけに、ナイフの刃先が大きく揺らぐ。

 憐れな女だ。

 失った恋に狂わず、新しい物を探せば良かったのに。


「でもしょうがない。これは君の大好きなあの男が望んだことだから」


 ぐっと女性に近づき、耳元で囁く。

 木船がぐらりと揺れ、女性が体勢を崩して一歩後ろに足を出して支える。

 その一瞬の内に、触れていたナイフを持つ手をくるりと捻り、痛みもなく俺の手に落とさせた。


「……え?」


 女が困惑した声を上げ、一瞬だけ、やっと目が合う。

 乾いた瞳だな、と思いながら、左手に受け止めたばかりのナイフを、女性らしい曲線も乏しい細い腹めがけて刺しこむ。


 ぷつり、と布を裂く音が響いた、直後。


「まま待ってくださいっ!」


 舳先から突進してきた男に強引に引き剥がされた。

 船の中心を知らない素人のせいで、木船がばっしゃんばっしゃんと横揺れする。

 長棹を掴んでいなければ転覆していたところだ。


「何すんだあんた! 危ねぇだろうがっ」

「いやでも待って、待ってください! これはそのっ」


 男が何を言いたいのかはすぐに分かった。

 依頼内容は、殺そうとしたら、だ。

 改心して殺さないのであれば、何もしなくていいと言いたいのだろう。

 俺は全てを分かった上で、敢えて口に出した。

 だって、言うなとは言われてないからな。


「殺しに来たら殺せって依頼したのはあんただろうが」

「なっ何言って……! それに今エマは」

「改心しそうだって? 人ひとり刺しといて、今さらそんなことねぇだろ」

「さ、刺したわけじゃ――」

「私を……殺す?」


 誰を庇おうとしているのか、男が言い訳するように首を横に振る中、船尾に尻餅をついた女性が呆然とそう零していた。

 まだ揺れが収まらない中、瞠目して見上げる女の視線に堪え切れないというように、男が先に目を背ける。

 俺はといえば、罪悪感なんかまるでない冷めた目で、小刻みに震えだす女性を眺めていた。

 それは決定的な裏切りに対する怒りか哀しみか。どちらにしろ、俺が思ったのは、


 演技が上手いなぁということだった。


 そう、この女は、男が自分を殺せと依頼したことを、知っている。

 何故なら、村に俺の噂を流し依頼をするように仕向けたのは、他ならぬこの女自身だからだ。

 ちなみに誤解のないように補足すると、俺はこの女と知り合いでも何でもない。俺がそれを知っていたのは、頼んでもいないのに女が自分からそう言ってきたからだ。

 女はその後にこうも続けた。


『その男の依頼を受けたふりをして、私を殺して。勿論本当に殺すんじゃないわよ。私が死んだふりをして、あの男に罪悪感を植え付けるの。泣いて謝って後悔したあの男から言質を取ったら、目を覚ますから』


 目を爛々と輝かせて、女はそう依頼した。

 男が来る二日ほど前のことだった。


 女が噂を広める前から、渡し守の噂を知っている者は僅かながらいただろう。

 橋が出来たのにいなくならない渡し守。

 不自然なものには、様々な憶測が飛び交うのは世の常だ。

 特に土地の内外の人間が集まる酒場では、そういった話題も上がりやすい。

 だが意図的に噂を流して成功する確率は、素人仕事では随分低い。


 しかし男は来た。


 家庭に入る夢など捨て、商売人にでもなった方が良いだろうに、と名演技をする女を眺めやる。

 と、こちらも実に煩い視線が、早くしろ、と急かしてきた。


 恋に駆け引きはつきものとはいえ、巻き込まれた方としては全くもって鬱陶しいことこの上ない。

 とっとと片付けるべく、俺は背中にへばりついたままの男を無造作に船底に放り出すと、改めて奪ったナイフをへたり込んだふりを続ける女に向けた。

 男に振られ、挙句に殺しの依頼までされていた哀れな女を演じる女が、さぁ来よ!と言わんばかりに腹に手を当てて目配せする。

 はいはい、そこね。

 俺は遠慮なくそこ目がけて腕をねじ込んだ。


「っま! やめろッ!」

「!」


 その腕を、再び背後の男に取られた。

 今度は捻るようにぶん投げられる。

 ばっしゃばっしゃと木船が跳ね、川の水がじゃばじゃば入ってきた。

 もつれるようにして転んだ二人の上にもかかる。


 あぁ、俺の昼寝用の枕と布団がぁっ。


 こんな被害が出るとは聞いてないぞ、とどちらに怒鳴ろうかと上半身を起こす。

 取りあえず、下敷きにしていた男の方に文句を言おうと覗き込んで、止まった。


「…ぅ…ぁ、ぁ……っ」


 男が、浸水した船底に横たわったまま、苦しげに呻いていたのだ。

 その腹を、血のような液体で真っ赤に染めて。


「…………あー」


 長考の末、取りあえず出たのはそんな声だった。

 不審に思った女が、それまでの演技を中断してそっとこちらに這い寄ってくる。

 そして次には、ハッと息を呑む音が聞こえた。


「……な、何が起きて……どういうこと? ハンスは、何をして……」


 それは演技ではない、本物の動揺だった。

 どうしたものか、と思いあぐねながらも、正直に伝える。


「どうも……殺しちまったみたいだな」


 しかし反応はなかった。

 あれ、と訝しんで振り返った瞬間、


「――いやぁぁぁぁッ!」


 絹を裂くような悲鳴が、俺の鼓膜をつんざいた。


「なん…何でハンスが死……そんな、私そんなつもりじゃ……!」


 女が叫びながら男に駆け寄る。

 けれどその言い訳は、最早まともな言葉にもなっていなかった。


「私は…私はただ元に……私の元に戻ってきてほしかっただけなのに、こんな、」

「良かったじゃないか」

「!?」


 怯えながらも男に触れようとする女の背に、朗らかに声を投げる。

 ぎょっとした目が、細い肩越しに振り向いた。

 見開かれた瞳に、俺は優しく語りかけてやる。


「殺してやりたかったんだろ?」

「そ……それは、そんなの本気なんかじゃ」

「でもあの女は殺そうとした。一緒だろ?」

「! 一緒なんかじゃ」

「一緒だって。どっちもあんたを騙して苦しめた、最低な奴らだ。憎いだろ?」

「それは……そう、だけど」

「それにさっき聞いた分じゃ、あの男、そう簡単にはあんたのところに戻ってきそうになかったじゃねぇか。あんた、あの男を殺さずにいて、みすみすあの女の所に戻っていくのを許せたのか?」

「そ、それは……ゆる……せ、な」

「だったらこれで良いじゃねぇか。願いが叶ったんだよ」

「……ねがい……」


 導くような問いを繰り返すたびに、女の声がどんどんとか細く弱々しくなる。

 俺を見る目が自信なさげに彷徨う。

 俺は一層優しげに目を細めて、女の細腕を取った。


「大丈夫」


 その声は、今までで一等慈しみに満ちていただろう。


「死体はこのまま俺が川に捨てておいてやるから」


 揺れの収まった木船の上に一度立たせ、それからゆっくりとまともな席に座らせる。

 倒れた長棹を避け、血の付いたままのナイフを船底に無造作に捨てる。

 女が呆然と見ている前で、格段に重くなった男の体を引きずり、押し出すように船外に出した。

 ぼちゃん、と鈍い水音がした。


「ハンス……」


 追いかけるように零された声は無視した。

 長棹を拾い、最初とは反対側に向けてとーん、と川底を突く。

 色々あったが、木船自体は川の真ん中までも進んでいなかった。

 引き返すのはあっという間だった。


 出発した船着き場に着くと、ずっと押し黙ったままの女を促すように手を取り、立たせた。

 女の目は、俺を見向きもしなかった。

 だからこれも意味はないだろうと知りながら、いつも去っていく客に向ける台詞を、その背にそっとかける。


「それでは、良い第二の人生たびを。……あんたも、新しい人生を踏み出した方がいい」

「!」


 こちらに背を向けたままの女の肩が、びくりと震える。

 集落など、どこにいっても狭い世界だ。

 娯楽の少ない村では、ちょっと転んだだけでも噂が村中を駆け巡る。

 婚約者を奪われたことで、周囲の目も口も針のむしろのように煩かっただろう。

 神経の細やかな者であれば、息をするのも辛くなる。

 それでも村を逃げ出す力のない者には、取る道など一つか二つしかない。

 あの女は何をするだろうと思いながら、やっと動き出した重い足取りを見送る。

 毎度あり~、と心の中だけで手を振った。


 沈黙。


「――っもう少しで死ぬところだったぁ!」


 ざばばぁっ、と盛り上がった水の中から出て来た水草まみれの手が、だんっ、と俺の木船を掴んだ。

 三度みたび船がぐらんぐらんと揺れる。


「おいおい、まだちっと早いぜ、旦那」


 ふなばたを必死で掴んで、がはあっ、と大きく息を吸ってはむせる男――ハンスに、俺は体を屈ませて小声で耳打ちする。

 実際、先ほどの女はまだ背中が見えるか見えないか程度にしか離れておらず、勘付かれてもおかしくはないのだ。


 しかし男はゼーハーと繰り返すばかりで返事をしない。

 そりゃそうか。

 川に落とした時、この男は死んだふりをして目を閉じていたし、落とされそうになっても大口を開けて息を吸い込むわけにはいかなかったんだしな。


「い、いいからっ、早く、引き上げてっ」


 あっぷあっぷする男が、喘ぎながらもう片方の手も必死で船の中へと伸ばす。

 それを暫く眺めてから、俺はニッと笑った。


「? お、おい、何してる。早く、」

「ご依頼ですか?」

「はっ?」


 鳩が豆鉄砲を食ったような顔で困惑する男に、俺はこれもまたいつもの台詞をにこやかに口に乗せる。


「こちらエステ川の渡し守。犯罪に荷担はしませんが、依頼とあらばお受けしますよ。勿論、人助けも。別料金ですがね」

「な!?」


 男が木船にしがみついたまま愕然と顎を落とす。

 見開かれた目が、そんな話は聞いていないと叫んでも、痛くも痒くもなかった。


 客の足元を見るのが俺の仕事だからね。


 しかし残念ながらご理解はいただけなかったようで、男は憤慨した。


「ふっ、ふざけんな! 金なら多すぎるくらい払っただろうっ」

「人を殺そうとか騙そうとか考えるんですから、高くつくのは当然でしょう? 命に比べたら、お安いもんですよ」

「ぅっ」


 願いを聞いてやったのに怒鳴り散らす男に、俺はあくまでにこやかに正論を与えてやる。

 が、大抵の客はそれで自分の愚かさに気付いたり悔い改めたりはしないので、更なる怒声が飛ぶ前に言葉を継ぐ。


「もう少し料金を弾んでいただけたなら、別の良い解決法も提案できたんですがね。彼女が諦め、あなた方二人が安全に結婚できる方法とか」

「は、はぁぁああっ!?」


 が、逆に怒らせてしまったようだ。

 おかしい。純然たる善意だったのに。


「そんなこと、昨日は言わなかったじやないか!」

「聞かれなかったもので」

「聞かれないって……俺がなんでこんな馬鹿げたことをする羽目になったかは話しただろう!」

「まぁ、聞きましたね」

「だったらっ、」

「でも依頼は、『殺されたように見せかけて、あの女を諦めさせてほしい』でしょ。新しい女と安全に幸せになりたい、ではかった」

「っそ、そんなの……!」

「俺は依頼通りに彼女を諦めさせましたよ。彼女はあんたのご希望通りに、肩を落としてこの道を引き返した。随分ゆっくりと歩いていたから、村に戻ったらどんな心ない視線や噂や仕打ちがあるかを考える時間も、十分にあるでしょうねぇ」


 己の幸せばかりを考え、その依頼が成功したあと女がどんな末路を辿るか考えもしなかった男は、肩から下は依然冷たい川水に浸したまま、ついに言葉を失った。

 寒さでか、震えだした両手をやっと船縁から放し、のろのろと船着き場の脚に向けて泳ぎ出す。


 男は長時間冷水につかっていたせいで体力を奪われ、手もかじかんでいたようだが、板場に上がるまで一言も俺に助けは求めなかった。

 だがそのまま黙って離れようとしたので、俺は最後に肝心の用件を切り出そうと「おい」と声をかけた。


「あんたの血がついたナイフ、」

「俺の血じゃない」


 言い切る前に、鬼の形相で睨んで去ってしまった。

 あんたの血じゃないことは知ってるんだけど。

 何せ俺がナイフを持っていたのだ。

 刺さっていないことは俺が一番よく分かっている。

 大方、鶏の血でも袋に入れて仕込んでおいたのだろう。


 そうではなくて。


「と枕と布団が、ね」


 血と水で台無しになったから弁償してほしかったのだが……仕方ない。諦めるか。


 二人目の依頼人を見送りながら、明日は洗濯日和かなと空を見上げる。

 布団を敷かないごつごつした船底での昼寝は背中が痛くなるから、一日だけで勘弁してほしいんだがなぁと、俺は頭を掻いた。



         ◆



 客のいない快晴日は、昼寝に限る。

 船着き場に繋いだままの木船パントの中にごろんと横たわって、雲もない青天井を見上げている時が一番幸せを感じられる。


「やっと布団も乾いたし……このまま客なんかずーっと来なけりゃいいのになぁ」


 客が来なければすぐに食うに困るのだが、そこはそれ。

 現実は見ない方向でお願いします。

 が、夢想はいつだって簡単に邪魔される。


「あのぅ」


 半信半疑な呼びかけが、空の向こうから落とされる。

 俺は暫く狸寝入りでやり過ごすか悩んだ末、仕方なく気のない返事をした。


「……あー」

「あんたが、エステ川の渡し守、でいいのか?」


 実に億劫に上半身を起こすと、旅装の男が一人、川岸に立っていた。

 人目を忍ぶように外套のフードを目深に被り、しきりに後方を気にしている。


「川を渡りたいのか?」


 別の目的があることはすぐに分かったが、そらとぼけてそう聞く。

 案の定、男はすぐにしどろもどろになった。


「いや、そうじゃなくて……あ、いや、川も渡るんだが、その……昨日、このすぐ先の村で宿を取ったんだが、そこの酒場で噂を聞いて」


 またか、と胸中で毒づく。

 あそこの酒じじいは相変わらず簡単に俺の情報を流す。

 しかもたちの悪いことに、ただ酒を飲みながら適当に話しただけだろうに、口入れ料を要求してきやがる。

 いい加減、紹介料の折り合いをつけなけりゃならんな、と顔をしかめながら、俺は適当に話を誤魔化してみた。


「噂って……あぁ、あれか? 浮気された女が男を殺したとかっていう」

「は?」


 すると、男は面白い程予想通りに困惑して眉尻を下げた。

 しかし話題を戻して用件を切り出す覚悟がまだ出来ないのか、「あぁ、そう言えば」と先を繋いだ。


「なんか、男を取り合って女が二人暴れてたとか言ってたなぁ。殺すの殺さないだので、すごい修羅場だったとか」

「へぇ。それ、どっちか死んだの?」

「さぁ。そこまでは言ってなかったけど」

「あらそー。痴情のもつれって怖いねぇ」

「あ、あぁ。……それで、」

「あっちもこっちも物騒で。長旅なんかに出ちまえば、酷い目に遭って簡単に行方知れずになっちまうし。怖い世の中だねぇ」


 男が何か言おうとしたところを、矢継ぎ早にまくしたてて遮る。

 男の迷っていた目が、らん、と意思を固めたのが分かった。


「長旅で……」

「そう。旅先なんか、分からないもんだらけだからねぇ。突然いなくなったって誰にも分からない。よくある話さ」


 うんうん、と今日もどこかの旅路で亡くなっているだろう無数の旅人を偲ぶように、訳知り顔で頷く。

 顔を上げると、己の幸せのためだけに何かを決意した目と合った。


「あの、明日なんだが――」



          ◆



 俺には関係のない重大な決断が、今日も軽やかに世界を回す。

 俺は俺の信念のもと、にこやかな笑顔でこう言うだけだ。


「毎度あり~」

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