夜
予備校終わりの帰り道、私はいつものように最寄り駅でバスを待つ。
私が通う予備校には科目毎に講義を教える講師の他、生徒一人ひとりに専任の担当アドバイザーが就く。大学生バイトの予備校もあるみたいだけど、私のところはちゃんとした社員が受け持っている。たぶん。詳しく聞いたことはないけれど。
どちらにしても、単なる話し相手に過ぎない。と、私は思う。
あの人たちにできるのは元々それだけだ。アドバイスはしてくれるけど、決めることはできない。決めるのはあくまで本人と親だからだ。
あの人たちにできるのは、ほんの少し生徒の背中を推すだけ。
なぜなら、生徒一人ひとりの進路という人生の重大な岐路に対して、彼らは責任を持てないからだ。結果、当たり障りのないことしか口にできない。
彼らの立場を私は理解しているつもりだ。だから、余計な期待も失望も抱かない。
その代わり、私は私の行きたい大学を自分で決めねばならない。
私は漠然と、大学には行きたいと思っている。
夢のキャンパスライフを描くほど、私は自分を子供だとは思ってない。あくまで現実的に、大学選びは社会的に自立して生きていくための前段階だ。
女だから結婚して玉の輿に乗ればいい、なんて時代は終わったの。このご時世、ちゃんと大学くらい出ておかないと、碌な就職先を見つけられないよ――母の口癖だ。うんざりするくらい聞いたセリフ。暗唱だってできる。
自分の固定観念を娘にまで押し付けないでほしい、と反論したくなることもあるけれど、実際その通りなんだろうな、とも感じた。
ちなみに今年50の大台に乗るはずの父は、私に何も言わない。関心がないのか、母が口喧しく言うからバランスを取っているのか、心の内は知る由もないけれど、まあ年頃の娘に余計なことを言って嫌われたくはないのだろう。
ふう、と短いため息を吐くと、白い息はすぐに消える。
今夜は冷えるようだ。バスはまだだろうか、と首を巡らせると、ちょうど自宅前の駅に停車するバスが到着するところだった。
オキニの定期券を運転手に見せて、最後列の後部座席に座る。
最後列に座ることに、深い意味はない。どこでもいいけど、ふとした拍子に一番後ろから人々を俯瞰する瞬間が、ちょっとだけ好きだったりする。
ランドセルを背負った私より幼い小学生の子。買い物帰りであろう、スーパーの袋を両腕に掛けたおばさん。スラッと長い黒髪と手足を靡かせるキャリアウーマンのような女の人。囲碁か将棋が好きそうな、深い黒色のステッキを片手にゆっくりと歩く白髪のおじいさん。色んな人たちがこのバスに乗り合わせる。
この人たち一人ひとりにそれぞれの人生を生きていて、たった15分の間だけ、私と名前の知らない見ず知らずの人たちの人生が交わる――。
「間もなく発車します」
運転手がそう言った後、乗ってきた乗客は一人だけだった。
その会社帰りのサラリーマンは、ほんの少しくたびれた黒いスーツに、朝見た時と同じ青いストライプのネクタイを締めていた。あの人だ――。
毎朝同じバスで通勤してる人。
数日前の朝、私の定期券を拾ってくれた人。
夜の帰宅時に同じバスになったことは、私の覚えている限りでは一度もない。今日は私の帰りが遅くなったから、たまたま一緒になったのだ。
彼は疲れ果てた表情のまま、私には視線を投げかけることなく、少し距離を空けて私の隣に座った。乗客は疎らなので、詰めて座る必要がない。
それでも、彼が最後尾に座ることは何となく予想がついた。
定期入れを拾ってくれた後も、彼が声を掛けてくることは全くなかった。たぶん、彼の方から声を掛けてくることはこれからもないだろう。
バスが発車してしばらく、私はスマホの画面に目を向けていたけれど、その実何も見てはいなかった。バレないように、そっと隣を盗み見る。
彼は目を閉じたまま、こっくりこっくりと船を漕いでいた。
彼が私に気付いた様子はない。そもそも、認識されてすらいない可能性もある。彼にとって、私はただの年端もいかない小娘だ。
指輪はしてないけど、彼女くらいいたって不思議じゃない。
なぜ、そんなことを考えるのだろう?
どうでもいいことなのに。私には全く関係のないことだ。
ただ、何となく気になる。
何の欲もなさそうに見える彼の横顔から、私は目を逸らして考えた。
きっと意味なんてない。サブリミナル効果とかいうやつだ。
毎朝同じバスに乗っているから、印象に残っているだけだ。
一人、またひとりと乗客は降りていき、いつしか残っているのは私と彼だけになった。次のバス停が終点だ。私と彼が降りるいつものバス停。
私は手を伸ばし、降車ボタンを押し込む。
彼は起きることなく、バスの揺れに同調するかのように揺れていた。マリオネットみたいに、誰かに操られているようでもあったけれど、もし誰かに操られているのだとしたら、それはたぶん睡魔に、だろう。抗えないよね、睡魔。
……起こした方が、いいだろうか。
少し迷ったが、私は右手を伸ばして彼の肩を静かに揺すった。
「あの、終点ですけど……」
眠りこけていた彼も、それでさすがに我に返ったのか、はっと気が付いた様子で慌てて鞄を背負い直し、急ぎ足で降車口へと向かう。私も後に続いた。
バスを降りると、徐に彼と目が合う。
「君は……ありがとう、起こしてくれて。助かった」
はにかむ彼の表情は、夜の帳の中でもよく分かった。
「いえ、あの……。私の方こそ、この間はありがとうございました」
ペコリと頭を下げると、彼は困ったように頭を掻く。
「いいよいいよ、そんなの。それより、気をつけて帰りな」
そう言って去っていく彼が暗がりの中に消えていくのを、私は静かに見送った。
その日、彼と私の「15分」が、初めてちゃんと交わった日になった。
君の隣で15分 氷雨(ひさめ) @icerain828
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。君の隣で15分の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます