君の隣で15分

氷雨(ひさめ)

 通勤を快く思っている社会人などいない、と僕は思っている。

 そもそも仕事が好きな社会人もそうはいないだろう。もしいるとしたら、社会的天然記念物と呼ぶべきか、あるいは社会的絶滅危惧種と形容すべきか。

 もしかしたら、社畜文化遺産に登録した方が良いかもしれない。それか社畜褒章。いやいや、何が勤労感謝だ。労働なんかしたくないに決まってる。

 とまあ、どうでもいいことを考えてしまうほど現実逃避したくなるのが、朝の通勤時間である。一様に覇気のない表情でバスに乗り込む社会人たち。

 そんな大人たちに混じり、幾人かの学生たち。その中のひとり。とある女子高校生いわゆるJKの存在が、僕にとって朝のささやかな癒やしだった。

 社会に疲れ果てた大人の楽しみなんて、大体そんなもんである。


 僕はバスに乗る際、最後列の後部座席か、そこが空いていなければ最後尾から2列目の左窓際に陣取ることが多い。理由は単純で、スマホをイジっている画面を後ろの人に見られたくないからだ。別にやましいことをしているわけではないが、SNSを開いているところを見られるのは気が引ける。

 なら開くなよ、という突っ込みはあまりにナンセンスである。

 僕が乗り込むバス停は始発なので、大抵この場所を確保することができるから、さして問題はない。問題は問題にしなければ問題にはならないのだ。

 そして彼女は、いつも僕と同じ時間帯、7時1分発のバスで最寄り駅に向かっているらしい。そこからどこの学校に通っているのかは分からないし、知りたいと思ったことはない。大事なことなのでもう一度言うが、知りたいと思ったことはない。


 ただ、何回目かの折、毎日隣に座るJKが同じ女の子だと気が付いた。

 最初はJKが隣に座ってくれることに、僕はまだ「大丈夫な側の人間」なのだ、と思っただけだ。何というか、社会的に許されている、とでも言うのだろうか。

 世のJKは大概、おっさんを一瞥するなり「不潔だ」とか「キモい」とか思っているものだ、というある種の確信めいた思い込みを僕は持っている。

 社畜7年目の29歳になる僕も、彼女たちから見れば十分「おっさん」の素質を会得しているのだろうが、ひとまず心の中で安堵する自分がいた。

 しかし、今度は不思議に思えてくる。別に僕の隣だけが毎回空いているわけでは断じてない。そんな悲しい事実は一切ない。他にも空いている席はある。

 ――なぜこの娘は、毎回僕の隣に座るのだろう?


 そう思って窓ガラスを見る振りをし、反射したガラスに映るJKを盗み見た。

 小さな手でスマホを抱えるように、ちょこんと持っている。まるで小動物のようだ。例えば、リスが向日葵の種を抱えて持っているかのように。

 当たり前だが、僕に対する興味関心は全くないように思える。乗車時間の15分足らずの間、彼女がこちらに視線を向けることは一度もなかった。

 僕が窓際、つまり奥に座っているので、降車の折には自然と彼女が先に席を立つ。ふわりと靡く丈の短いスカートに、僕は毎回少しだけどきりとする。

 よくあんなに短いスカートを履けるものだ。この布切れはスカートとしての本分を全う出来ているのだろうか。パンツが見えてしまうんじゃないかと、こちらの方が心配になる。まあ、朝からそんな元気のある社畜もいないのだろうが。


 肩より長い黒いセミロングの後ろ姿を見送り、僕はそっとため息を吐く。

 ――たぶん十中八九、意味なんてない。

 意味のないことに意味を求めてしまうのは、モテない男の悪癖だ。

 僕は一般的な成人男性に比べて体が小柄な方なので、そこがちょうど広く座れると思っただけなのかもしれないし、あるいは僕と同じようにSNSを後ろの人に見られたくなくて、なるべく後部座席に座ろうと考えただけなのかもしれない。

 とにかく、うっかり「君、いつも同じバスだね?」なんて声を掛けようものなら、犯罪者を見るような冷たい目で僕を睨みつけてくるに違いない。はたまた唖然として口を開けた後、頭のおかしいやつがいたものだと、目を背けるか。

 僕はまだ社会的に死にたくない。通報されて前科一犯になりたくない。


 ところが、ひと月も経った頃だっただろうか。

 ある日の朝、僕は彼女に声を掛けることになった。なった、という言葉からも分かるように、これは僕が能動的に声を掛けようと思って掛けたわけではない。

 成り行き、あるいは偶然の産物。

 どちらでも良いのだが、いつものように彼女が席を立ち、僕は空いた空間にふと目をやった。そこには定期入れのようなものが落ちている。

 何かのキャラクターでデコられた、いかにも可愛らしいそれは、普段彼女が鞄にぶら下げているものに相違ない。何かの弾みで落としたのだろう。

 僕はそれを拾い上げ、駅に向かって歩いていく彼女を呼び止めた。

「君! これ、落としたよ」


 振り返った彼女は、突然呼び止められたことに驚いたのか、クリクリとした大きな目をさらに大きくして、僕と僕の手元を交互に見た。

「あっ、ありがとうございます」

 さほど大きくもなかったのに、初めて耳にした彼女の声は、鈴の音のように透き通っていて、僕の鼓膜を心地よく震わせた。可愛い声だ。

 惚ける僕の手から定期を拾い上げると、彼女は軽い会釈を残して駅へ急ぐ。

 こうして、僕と彼女の「15分」は、静かに始まりを告げた。

 ……わきゃない。現実というのは冷たく厳しいのだ。そんな簡単にラブコメ漫画やラノベのような展開が始まったりはしない。その後、何も起きていない。

 嗚呼、人生とは無常なり。

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