第5話小さな幸せ
家に帰ってから僕は、初めてあの人以外のことを考えていた。もはやなにをしていてもあの人のことを考え続けていたのに、今日は違った。
柏木のことを僕は過小評価していたようだ。僕の中のイメージと実際の彼女はだいぶ異なった存在であった。
見直した……なんて偉そうなことを思う。でも僕の中で彼女の印象はものすごく変わったのは事実だ。
明日は僕から挨拶しようかな。そんなことを思いながら、瞼を閉じる。
翌日のこと。僕は自分の席に座ると、ソワソワとした気持ちを落ち着かせることができず、教科書のページを閉じたり開いたりする。
早く柏木来ないかなーと思いつつ、教室の扉をチラチラと横目で見る。柏木はいつも登校時間ギリギリに来るから、もうそろそろだ……。
時間は8時38分。あと2分で朝のホームルームが始まる。早く来ないかな。
焦る気持ちをぐっと堪え、彼女の到着を待つ。そしてその時はきた。ガラガラと扉を開け、僕の彼女は登校してきた。
ゆっくりと僕の席に近づいてくる彼女に、僕は挨拶をしようと顔を上げ。
「お……おはよう」
初めて自分から柏木にあいさつをした。そんな僕の行動に驚いた柏木は、顔を赤らめて。
「お……おはよ。光輝……くん」
な、名前で呼ばれた! そのことがすごく嬉しかった。確かに付き合ってるなら下の名前で呼び合うものだよな。だったら僕も柏木のことを下の名前で……。
なんて思ったが、そういえば柏木の下の名前ってなんだっけ? 僕はゴミか!?
どこの世界に彼女の名前を知らない彼氏がいるんだよ! えーっと……。
僕は不自然にならないように後ろを向いて。
「ねぇ、今日って宿題あったっけ?」
いつも僕がされている質問を今日は柏木に投げかけ、それと同時に柏木の机の上に出してある教科書を手に取る。
手に取った教科書に書かれていた名前は「柏木ちとげ」というものだ。良かった。
漢字が読めなかったらどうしようと思っていたのだが、ひらがなで書かれていた。
僕は手に取った柏木の教科書を元あった場所に戻すと。
「やっぱなんでもない。その……ち、ちとげに聞いてもわからないだろうしね」
まるでツンデレみたいな言い方で自然と彼女の下の名前を呼ぶ。女子の名前を下の名前で呼ぶのって結構勇気いるな。普段女子の名前なんて呼び慣れてないから……というか男子も女子も下の名前で読んだことないけど。
なんて自虐を心の中ですると、ちとげは照れた様子で。
「べ、別にいつも宿題を聞いてるのはわからなからじゃないよ。あれはその……光輝くんと喋りたいけど、でもなにを話せばいいかわからなくて、だからあんな何にも発展性のないことを毎日聞いてて……」
なんてことを照れながら言ってきたちとげは、すごく可愛らしかった。彼女なりに僕と良好な関係を築くために色々と悩んでいたのだとわかると、こっちまで恥ずかしくなってくる。
僕なんて行動に移さずにただ見てるだけだったからな……。
それからいつもと少し違う日常を送った。例えば言葉を発する機会が少し増えたとか、お昼を食べる相手ができたとか、そんな些細なことだ。別に彼女ができたからと言って、僕の日常が劇的に変わるわけではない。
でもほんの少し、背景に色がついた。
ただそれだけ。そんなことが、僕に取っては嬉しかった。そしてそんな幸福が、この先も続いていくものだと勝手に思っていた。
二股 ラリックマ @nabemu
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