透明の指輪に口付けを

2121

透明の指輪に口付けを

 神様と私の巡る時間の速度は月の満ち欠け一周分くらい違う。私たちがいつもせわしないと言われるのも、仕方がないことなのだろう。

「いや、神様はさすがにゆっくりし過ぎでしょ。準備手伝って?」

「やるやるー。それよか神様ってあんまり言わないでよ」

 神社の板間には袴姿の男が寝転がっている。眩しいのか目を腕で隠していたが、腕を退かしそれだけ云うとついでのようにわしゃりと一度私の頭を撫でた。

「前に名前付けてくれたじゃんか」

「りっちゃん?」

「それ。そっちで呼んでよ。響きが可愛くていいよね」

「りっちゃーん」

「はーい」

 言われた通りに名を呼べば、にへらと緩みきった笑顔をこちらに向けて、暢気な返事がやってくる。この笑顔を前にすればなんでも許したくなってしまうのは、神様ゆえの特権なのだろうか。

「舞台、まだ組み上がってないんだから一緒にやってよ。お父さんとお母さんの二人でやってるから、完成がいつになるか分かんない」

「仕方ないな、春花はるかが舞いを踊る舞台でもあるのだものね。いっちょやってやりましょう。にしたって、ヒトは働き者で本当に忙しない。君もこんなに大きくなってしまったし」

「身長は今年も三センチ伸びました!」

「七五三のときは小さくて可愛かったのにな」

「いつの話をしてるんだか!」

 起き上がったりっちゃんは「はい」と私に手を差し出した。私はその手を掴んでお父さんのところへと引っ張っていく。

 他の神社の神様がどうかは知らないけれど、うちの神社の神様は人と近い場所にいたいと思っているらしく、神社の周りでは姿を見せていることが多い。とはいえ基本的に見えるのは代々この神社の神主をしている血筋の者だけなのだが。

「お父さん、りっちゃん連れてきたよ。高いところの装飾はお父さんにはしんどいでしょう? 少し前にぎっくり腰もしていたし」

「陸さん!?」

 舞台の上で背伸びをして飾りを付けていたお父さんは、振り向いて驚きの声を上げた。

「すみません、神様は休んでいて下さい。春花、こんなことで神様の手を煩わせるんじゃない」

 りっちゃんは舞台に軽々と上り、置いてあったしめ縄の飾りを取った。

「俺のこと、もう少し頼ってくれてもいいんですよ? それとも、頼りがい無いですか?」

 お父さんに人懐こい笑みを向けてそう言えば、お父さんは慌てて否定する。

「いやいや、そんな訳では!」

「冗談です。これの反対側持ってもらえますか?」

 りっちゃんは背が高い。お父さんが背伸びをしてギリギリ届いていた場所にも悠々と手が届き、舞台の屋根の下辺りに飾りを取り付ける。

「三日後の婚姻の儀は近くの坂下さんのところの子でしょう? よく詣られていたので、しっかりと見届けなければいけませんね。春花のハレの舞いも久々ですし楽しみです」

 三日後には婚姻の儀、いわゆる結婚式が行われる。うちの神社は規模としては大きいのだが、欧米式の結婚式が主流となった今、結婚式をあげるのは地元の人くらいしかいない。

 結婚式で指輪を交換し契りを交わした後は、巫女たる私が舞いを献上することになっていた。だから、この舞台は私が踊る場所でもある。

 日は暮れつつあり、月が出ている。もう数日で満月になるであろう十三夜月。

「ごめんな」

 舞台の上、りっちゃんは頭を撫でて謝った。

 小さく首を振り、私は「いいよ」とつぶやいた。





 三日後。式の日の朝、くーちゃんが起きてりっちゃんが眠ってしまった。

「悪いな。今日は十六夜だ。私が見ることになるんだが、許してほしい。記憶にはしっかり留めておくから」

「大丈夫、分かってたから」

 神様と人との時間は同じではない。曰く月の周期を人で云う一日とし、新月から満月までを朝、満月から新月までを夜としているらしい。神社には双子の神様がおり、男の陸(りっちゃん)が朝を、妹の空(くーちゃん)が夜を交互に起きている。二人が同時に起きているのは新月と満月のみで、寝ているときには何をしようと起きることはない。

「大丈夫? ……本当に?」

 くーちゃんが、心配そうに私のことを覗き込む。

「久々のハレの舞いだったのに。見せたかったんだろう?」

「くーちゃん、大丈夫よ。本当に大丈夫。分かっていたもの。代わりにくーちゃんがしっかりと見てくれるでしょう?」

「ああ、もちろんだ」

 二人は記憶の共有される。だから、くーちゃんが見てもりっちゃんの記憶に残ることになる。全く何も見れない、という訳ではないのだ。

「こればかりは仕様がないからな。とはいえ、つねっておこう」

 ぐにー、とくーちゃんはりっちゃんの両頬をつねる。神社の奥に敷かれた布団で、二人は眠る。ぐにぐにとくーちゃんが頬を容赦なくつねるも、起きるそぶりは無い。

「何をしても全然起きないね」

「どうせだし顔に落書きでもしておくか?」

 既に黒い油性ペンを持ったくーちゃんが、キャップを外してペン先をりっちゃんの顔に向けた。くーちゃんは意外と悪戯が好きなのだ。

「目の上に目でも書いておくか。……よし、出来た。君も何か腹いせに書くといい」

「何書こうかな」

 くーちゃんからペンを受け取り、迷うように空でペン先を動かした。

「自由に書きな。あいつは君がすることならなんでも受け入れるだろうよ」

 そしてわしゃりと、りっちゃんと同じ大きさの手が私の頭を撫でた。

「ちょっと用事で出るから、ここを任せてもいいか?」

「いってらっしゃい。気を付けてね」

 くーちゃんは部屋を出て行ってしまった。開け放したままの戸から、風が入る。

「本当に全然起きない。ちょっと寂しいな」

 どんな落書きをしてやろうかと考えて、不意に思い出したのは今日の婚姻の儀のことだった。そこから何を書くか思い付いた私は、りっちゃんに落書きをする。

 手に触れると、温度があった。そういえばここは少し冷えるなと思って、布団に潜り込む。暖かい。

「体温は普通なんだ」

 仰向けで眠るりっちゃんの胸に耳を付ける。

「……心臓の音はしないんだね。知らなかった」

 りっちゃんの顔を見下ろす。肌の色は白く、生気がない。生や死とは違う概念の元にいるのだから、生気がないのは当たり前なのだけれど、ちょっと怖い。

「死んでるみたいだ」

 少しだけ、二度寝をしよう。

 式は午後からで、まだ時間はあるから。





 結婚式の舞いは、我ながら上手に舞えて「祝いに相応しい舞いだった」とくーちゃんも褒めてくれた。

 二人の門出を、願いと祈りを籠めて祝う。くーちゃんは、二人には見えないし聞こえもしないけれど、近くで見守り祝いの詞を上げていた。

 新月の日。

「りっちゃん起きたー?」

 むくりと半身を起こしたりっちゃんは、まだどこか焦点が合っていない。

「寝ているときは、死んでるみたいで怖いよ。起きてくれて良かった」

 いつもよりもぼーっとしていて、心配になった私は下から顔を覗く。目が合って、りっちゃんが深くため息を吐き、無言でわしゃわしゃと頭を撫でた。いつもと違う寝起きだ。一体、何を考えているのだろうか。

「よく舞えたんじゃね?」

「ありがと。顔洗ってきた方がいいんじゃない?」

 くすりと、くーちゃんの書いた瞼の上のもう一つの目に笑ってしまう。

「あ、そうだった。空! なんでお前は落書きを油性ペンで……!?」

 妹を怒り顔を洗うため、だんだんと声が遠ざかっていく。

 と、思ったら足音が戻ってきた、しゃがんで目線を合わせがしりと頭を掴まれた。青みがかった黒い瞳の奥は揺れていて、複雑な感情が見える。バレたなぁと思いながら、用意していた反応を脳裡で反芻する。

「……お前は……!」

「……何?」

「この指は春花の仕業だろう! 神様と結婚なんて──」

 左手の薬指には一周するように円が描かれている。私が落書きしたものだ。見覚えのあるそれに、私はふふ、と笑う。

「……既婚者なのに指輪してないから」

「は?」

「くーちゃんと夫婦なのでは?」

「あれは妹だと言っとろうが!!」

 ころころと笑いながら、私ははぐらかす。

 この気持ちが恋だと云うことを私は知っている。怒られるだけで、もう満足だった。

 人と神様が同じ時を歩めるはずがない。

 あの日、私の薬指にも円を書いた。半月近く経った今、もう消えてしまっている。

 私の気持ちと一緒に、さようなら。





 光陰矢のごとし。人の時は瞬きをする間に過ぎていくように思えるほど、早く過ぎていく。

 七五三のときの可愛らしい着物姿も、学生ののときも、成人したときも、君が結婚したときも、子が産まれたときももちろん、嬉しいことがあったときには君はいつもここへ報告に来てくれるから、俺はいつも見届けていた。

 どれだけ早く時間が過ぎようとも、生は蓄積されていく。

 春花は幸せな時を過ごし、笑顔の似合うお婆さんになっていた。一人娘で婿を取ったから、彼女はずっと神社の隣に住んでいて、毎日挨拶に来ていた。

 今日は来るのが遅いなと思っていたら、春の訪れのような風が吹く。

 その報告に来たのは春花の子どもだった。

「今朝のこと。母、春花が亡くなりました」

「そう、報告に来てくれてありがとう」

 春花の面影のあるその子を撫でて、感謝を伝えた。生と死は巡るもの。積み重ねた生は礎となり、残された者を支える糧となる。

 それとは別に──早いな、と思う。目まぐるしく毎日を過ごす人々に、「忙しない」と頻繁に溢していたが、こんなにも生は短いのだから忙しないのも仕方ないのかもしれない。

 想起するのは春花と過ごした日々。一際記憶に残っているのは起きたときに落書きされていた日のことだった。

 あの日、起きた瞬間に布団は寒くて俺の隣にはぽっかりと空白があった。流れ込んできた妹の記憶と、この状況が一致して歯噛みした。

 これは丁度春花の大きさだ。妹の記憶にも、用事が終わって帰ってくると俺とあいつが添い寝していた場面がある。

 あのときは何も言えず、目の前にいる本人の頭を撫でる。

 顔を洗って、視界に黒色がちらついたから己の手をよく見れば、左手の薬指にはペンで書かれた指輪があった。

 目眩がするようだった。

 何も言えなかったのは、春花に好意があったからに他ならない。

 神様と結婚するのは人を捨てることになるため春花には負担が大きい。神様と結婚なんてするべきじゃないと諭そうとしたら、よりにもよってはぐらかしやがった。

 こんな落書きまでしておいて、俺にも何も言わずに勝手に諦めるのか?

 人に堕ちたいとこれ程までに思ったことはない。願われれば、堕ちることも辞さないと決めていたのに、この薬指に書いた指輪しかくれなかった。

 春花の家は、神社の隣にある。

 姿を見えないようにして壁を抜けると、春花の子が眠る春花の隣に正座していた。俺は側に下り立ち、姿を見せる。

「りっちゃんさん!? 穢れですので、あまりこちらへやってくるのは……」

 あまりの驚きに、春花の子は不思議な呼び方をした。その慌て方が少し春花を思い出させたから、少し笑ってしまう。

 神道において死は穢れであり、葬式を神社で行うことはない。むしろ神棚を閉じて穢れが入らないようにするほどだ。

「こんばんは。随分世話になったからね、別れの挨拶くらいさせてよ」

「私は少し出ておきますね」

 春花の子は部屋から出る。

 床で白い小袖を着た春花が横たわっている。

 死んで、起きることはない。

 死んでるみたいで怖いと言っていた意味が今ならば分かる。

 俺はいつもこんな思いをさせていたのか。

 心臓は動かず、温度はない。

 春花はもう永遠に起きることなど無いのだけれど。

「ありがとう。短い日々ではあったけれど、君と過ごした日々は忘れない」

 くしゃりと頭を撫でる。手の下で笑う顔ももうない。それだけを告げて、立ち去った。

「泣いている?」

 境内に座り、足を揺らしていると背後から声が掛けられた。見上げた空には満月がある。妹が起きたのだ。記憶は共有されて、春花が死んだことは伝わっているのだろう。

「泣いてはいないさ。とはいえ、慕っていた子が亡くなるのはやはり少し寂しいね」

 春花との日々に、間違ったことは一つも無かったのだろう。

 人は人の幸せを掴み、神は神として生から死までを見届けた。

 これが正しいことだと分かりきっているのに、胸の内の靄が拭えない。思い出すのは、布団のとなりの空白と薬指に書かれた落書き。神でなくなっても構わないとさえ思っていたのに、はぐらかされたあの日のこと。

 それとも俺の意志のみで、人に堕ちてしまえば良かったのだろうか。

 思考は堂々巡りで、しかし考えたところで何もかもがもう遅い。

 出来ることならば──同じ時を過ごしたかった。

 左手を、夜空に翳す。

 とうに消えてしまった、透明の指輪に口付けを。

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