どうやら俺は天使になるらしい。

暁ひよどり

天使が死んだ

「一体誰がやっているんでしょうねぇ、こんな嫌がらせみたいなこと。今月五回目ですよ、こういう悪戯。どう思います? ~さん。」

「いやー酷いですよね。罰が当たっちゃいますよねえ。」

 スタジオの画面に映し出されているのは神社の映像。参拝道の砂利が何箇所か抉られ、道の外まで散らばっている。

 休日昼間のワイドーショーはこの話題で持ち切りだ。他にも、ゴミがばら撒かれたり、石畳が傷つけられたりなど、神社や寺、神殿などを狙った被害が世界各地で確認され、ここ数週間でよく報道のネタにされている。

 今のところ建物とかには被害はないみたいだし、本当に度の過ぎた悪戯みたいな感じだな。しょうもない事件だけど世界的に、っていうのは不思議だよな。

 俺はただの高校二年生、谷凪善晴。世間を騒がせているからと言って特に何かするわけでもないが、周辺に神社や寺が多いため少し不安に感じている。こっちの高校に通うために一人暮らしなのもあってなおさら。早く捕まってほしいもんだ。

 なんて漠然と思いながらテレビを見ていると、不意にピンポーンとインターホンが鳴った。

「はーい。」

 扉を開けると、一人の女の子が立っていた。年は同じくらいに見える。白いワンピースに対して、腰ほどまである綺麗な淡い金髪と、不自然なまでに整った輪郭がとても印象的だ。碧眼は真っ直ぐにこっちを見つめて微笑を浮かべている。

 見た目も相まってまるで天使のようだ。

 めっちゃかわいい。何? お礼をされるようなことしたか?

 ドアを開いた姿勢のまま固まっていると、美少女が話出した。

「もし、あなたが天使の生まれ変わりだとしたら、信じますか?」

「あ、そういうの結構です。」

 期待して損した。最近の勧誘はそんな手口を使ってくるのか。人の純情を弄びやがって。許せん。

「ちょっと待ってください! お願いします、話だけでも!」

 閉じたドアの向こうから少女の悲愴な声が聞こえてくる。

 正直話は聞いてあげたいが詐欺とかに引っかかるのは御免だ。

「お願いします! 谷凪善晴さん! 誕生日は十月四日! 十六才! 典摩高校! 初恋の相手は――」

 いやいやいやこわいこわい。個人情報もろバレなんだが! というかなんでそこまで知ってるんだ⁉ ここで出て行ったら間違いなく組織に連れて行かれる! どうする⁉ そうだ、警察に電話しよう!

 あわてて携帯を手に取り、警察を呼ぼうとする。

「あーもう、仕方ないですね。」

 少女がそう漏らした次の瞬間、バコーーーンと派手な音を立てドアが俺のすぐ横を通過していった。

 それを何食わぬ顔で気にも留めず、こちらに歩いてきた少女は俺の真正面に立った。三十センチくらいの距離のところだ。

 なんかちょっと距離近くないか? 

「話聞いてもらってもいいですか?」

 先程と変わらない微笑みでそう言った少女は先程とは異なって、頭上に半透明な輪っかと背中には純白の羽が見える。その姿は、人を導く存在『天使』そのものだった。

 あの、扉吹き飛んだんだけど…? なんかリラックスするいい匂いするし! 輪っかと羽? 天使……?

 頭の中で一度に多くのことが巡り廻った結果、俺はぼーっと立ち尽くすしか出来なかった。

「あの~? 聞こえてます? とりあえず座ってもらって。」

「あっはい。」

 天使? が手を目の前でひらひらとさせる動作で正気に戻った俺は言われるがまま椅子に腰かける。

 対面の椅子に座った天使が話始める。

「で、話なんですけど。もしあなたが天使の生まれ変わりだとしたら、信じますか?」

 その話をされるのは二回目だが突拍子もなさ過ぎて全然どういうことかわからない。

 まるでこの世の真理について考えているような渋い顔をしていると、天使がハッとした。

「あ、そもそも私天使なんですよ、わかります?」

 そう言うと、背中を見せつけてくる。

 背中から生えたかわいいサイズの羽は飾りには見えないし、天使の輪っかっぽいものは天使の頭上をふわふわと浮遊している。

 扉が吹き飛んだからな…… 全然意味わからんけど。どうやら本当に天使らしい。確かに人間にしては顔が整いすぎている。

 天使はこっちに向き直ると俺に向かって指をさす。

「あなたも天使なんですよ! 生まれ変わりですけど。」

「いやそれが全然頭に入ってこないんですけど… どういうことですか?」

 いきなり天使だと言われても全く理解できない。今まで十六年間生きてきて、特別な力なんて使ったことがない。

「この前たまたまもんのすごい将来有望な天使が事故で死んじゃってですね、魂がこっちの世界に流れちゃって、みんな慌てて探したんですけどもうあなたの中に混ざっちゃってたみたいで。いやー大変だったんですよ! 混ざった魂の中から特定の魂を探すの! それで――」

「ちょっと一回待ってもらっていいですか!」

「あーそうですね話過ぎましたね。やっと見つけたのでテンション上がっちゃって、ふふっ。」

 見つけた、とやらを実感しているのか、天使はニヤニヤとしながら落ち着きなく足をぶらぶらさせている。

 話が長くなりそうなので、頭を冷やすのも兼ねてお茶を用意することにする。

 ……いや一応来客だし? 折角来てくださった天使様にお茶も出さないってなると、失礼とかもうそういう問題じゃないからな。

 一番高いティーセットどれだっけな…… あ、これか。

 というかこの天使話すの下手くそでは? いきなり『あなたが天使の生まれ変わりだとしたら信じますか?』って言われて信じると思ったのか? しかも、応答しなかったらドア蹴破ってきたし。コミュニケーション能力に問題があるのでは?

 天使としてどうなんだそれ……

 天使といっても完璧な存在ではないことに、急に親近感を感じてきた。今も自分の手の爪とか見てるし。いや爪とかあるのかよ。そんなにかしこまらなくてもいいのかもな。

「ほい、紅茶。」

「これはこれは、ご丁寧にどうも。」

 慣れた様子で紅茶に手を付ける天使。

 やっぱりこう見ると普通なんだよな、羽と輪っかがある以外。

 ふぅ…… と一息ついてから話し出す。

「あんたの名前はなんて言うんだ? 俺の名前は谷凪善晴。知ってるみたいだったけど。」

「あ、そうでしたね。失礼しました。私の名前は*Φ※リコッタ☆∀といいます。よろしくお願いします!」

 そう名乗ると、ペコリと小さく一礼した。

「え、なんだって? リコッタって部分しか聞き取れなかったんだが。」

「えぇ、そこすっごい中途半端なところなんですけど…… そしたらそれでいいですよ、なんか響きがかわいいですし。」

 そんな適当でいいのか。まぁ本人がいいならいいか。

「それで? まず将来有望な天使が事故で死んだんだっけ?」

「はい。」

 もう既に情報量多いけどな。

「『事故で死んだ』って言うけど天使って死ぬのか?」

「そりゃ天使だって普通に病気とか事故とかで死にますよ。」

 そんな当然みたいに言われても。

「じゃあ将来って言うのは? 職業みたいなのがあるのか?」

「うーん、職業っていうよりかは担当ですかね。概念ごとに担当を持つんですよ。担当の概念を存続させることが仕事です。」

「?」

 俺が理解していないのを察したのか、リコッタが手元のティーカップを見て言う。

「あーそうですね。例えば、この《紅茶》にも担当の天使がいるんですよ。《紅茶》担当の天使の仕事は《紅茶》を人間界からなくさないことです。まぁ紅茶くらい広まってるものだったら、なくなる心配もないので仕事も少ないんですけどね。」

 世の中から紅茶がなくなるなんて、それこそ世界が滅びるくらいじゃないとなくならないだろうしな。

「なるほど。じゃあ《紅茶》担当は楽でいいじゃないか。」

「残念ながら、天界では逆なんです! 天使は概念の存続に誇りを持っています。複雑な概念の担当こそ素晴らしいんです! 楽な担当をしているとご近所で『あそこの家のお子さん、~の担当らしいわよ。』『あら、本当なの? 楽そうでいいわね(笑)』って噂されちゃうんですよ!」

 身を前に乗り出して力説する天使。

 まるで我が身のことのように力説している。いや、まさかね。

「で、リコッタは何の担当なんだ?」

「………………………………《消しゴムのカス》です」

「ぷっ」

「あーー! 今笑いましたね⁉ 私だって好きでやってるんじゃないんですよ! 姉妹はどんどん出世していくのに私だけずーーっと《消しゴムのカス》なんですよ! おかげで家族だけでなく近所からも白い目で見られて……! あああああ!」

 全力で頭を抱えて机に突っ伏したリコッタ。

 取り乱し方から欠片も天使らしさを感じない。本当に天使か? というか《消しゴムのカス》担当ってなんだ…… 保全のために無意味に消しゴムをこするのだろうか。 

「ごめんごめん。有名な天使が死んじゃったんだっけか?」

「そんな半笑いで! 天使を馬鹿にして天罰が下っても知りませんよ!」

 尊敬していた天使でした、と前置きが入る。

「上から数えた方が早いくらいの高名な天使が死んでしまったんですよ。その後、散り散りになった魂がなんの偶然か人間界に流れてしまったんですよね。」

「なるほどな。その散り散りになった魂が俺に混ざったってことか。」

「そうです! こんな事は今までなかったもんですから、暇な……手の空いてる天使が探すことになったんですよ。」

 暇なんだな、《消しゴムのカス担当》は。

「それで? 魂が混ざったっていうのはわかったが、俺は何かする必要があるのか? あいにくだが俺はただの人間だぞ?」

 自分が天使の生まれ変わりとかいうのもリコッタに言われて知ったくらいだ。いやそもそも《天使》が存在するっていうのも知らなかったし。いや今も信じきれてないが。

「あーそうですね、あなたには……あ、なんてお呼びすればいいです? 善晴さんでいいです?」

「あーいいよそれで。」

 なんだそのタイミング。だいぶ話してたし『あなた』でいくのかと。肩身の狭い思いをしているみたいだし、もしかして本当に友達いないのか?

 なんて失礼なことを考えているとリコッタがおもむろに立ち上がり、こっちに指をさした。

「では、善晴さん! あなたには天使になってもらいます!」

「えぇ⁉」

 また訳の分からないことを言いだした。脈絡ってものを知らないのか⁉

「人間を超えた超越存在になりたいですよね⁉」

「いきなり決められるわけないだろ!こっちにだって生活があるんだよ!」

「生活? きっと人生よりも天使生の方が楽しいと思いますよ!」

「いや天使生ってなんだよ! あ、天使の人生だから天使生か⁉ いやそうじゃなくて…… いきなり天使になってくださいって言われて、はいそうですかとはならないだろ!」

「そうですか? 困りましたね…… 善晴さんが天使にならないってことになると天界特定機密保護法を違反することになっちゃいますので、天界に連れていくか、ここで口封じをするしかないんですよね…… どっちもやることは同じなんですけど。」

 そういうと、リコッタの手元にどこからともなくステッキのようなものが現れた。模様が描かれておりただの棒ではなさそうだ。

「じゃあちょっとだけちくっとしますよ~」

「え、ちょっと待って、痛い痛い痛い!」

 まるで予防接種でもするときのような掛け声と共に、リコッタの持つステッキからきらきらした光が俺の腹に向けて流される。

「むっ! もしかしてちょっと痛いくらいなんですか? 普通の人間だったらこれでイチコロなはずなのに……」

「いや普通に痛いが⁉ え、何。イチコロって一撃で殺すって意味で言ってるのか⁉」

 可愛らしく小首をかしげるリコッタ。そこそこの大きさの注射針を何度も連続で刺されているような痛みだ。ちょっと涙が出そうなくらいには痛い。

「ちょ、ちょっとストップ! ストーーップ!」

「あ、はい。」

 返事があったかと思うと、やっと痛みから解放された。俺は服をめくり、腹に傷がないことを確認して訊ねる。

「何だったんだ今の⁉ 腹が千切れるかと思ったぞ!」

「今のは【浄化光線】です! 普通、一般生物に当たったら天に召されるはずなんですけど…… どうして善晴さんは平気なんでしょうかね?」

「そんなこと知るか!」

 そんな不思議そうな顔をされても。急にそんな殺傷性のあるビームを出してくる方が不思議過ぎる。言う事聞かないから殺すって何だ⁉ 確かに手っ取り早く魂を取り戻すことは出来るが、いくら何でもその判断は暴君にもほどがあるだろ!

「やっぱり上位天使としての権力が魂レベルで刻まれているんですかね。うーん、どうしましょう?」

「いや知らねぇよ! てかなんだよそのステッキ⁉ そんな魔法みたいなことが出来るならドアを直してくれよ!」

 リコッタに吹き飛ばされて風通しが最高な、ドアがあったはずの場所を指して叫ぶ。

 せっかく格安で住まわせてもらってるアパートなんだ。これで退去になんてなったら困る。

「あ、そうでしたね。では…… こほん。【トビラナオール】!」

 リコッタがステッキを構え、すっかり変形し転がっているドアに向かって詠唱をしたかと思うと、ドアにさっきと似たようなビームが流された。ドアはみるみる元の形に戻り、元あった場所に戻っていった。

「なんだその呪文! ていうかステッキすげぇ! 何でも出来るんじゃないのか⁉」

 急に殺されかけたのが頭に来て適当なことを口走ってしまったが、案外なんとかなるらしい。さすがは腐っても天使。

「ふふん。すごいでしょう? 今、私の紹介で購入すると三万九千八百ソウルのところ二万九千八百ソウルです! おまけにこちらのしょんべん小僧ストラップが五つ付いてきます!」

「なんだその不穏な単位⁉ しかも抱き合わせ商法じゃねぇか⁉ むしろそんなキーホルダーいらないけどな!」

 どこからともなく五つのストラップを取り出したリコッタ。五人のしょんべん小僧はそれぞれ異なったポーズをしていた。解放感に満ち溢れた独特なポーズ。

 五つも付いてくるところから在庫処分の気も感じる。

「まぁそんなことはいいとしてですね。現実問題、善晴さんが天使になってもらわないと困るんですよ、例えばほら。」

 そういってリコッタが指さしたのは、先程まで俺が見ていたテレビ。今も神社の映像が流されている。

「最近話題になってますよね? 『いたずら被害』みたいな。あれってどこが狙われてるのか知ってます?」

「寺とか神社とかだよな?」

「そうです! それって何に関係してるかわかります?」

「……神様か?」

 そして目の前にいるのは《天使》という存在。

 リコッタは演説するかのように、身振り手振りで仰々しく続ける。

「エクザクトリー! 私たち天使は困っているんです! 《奴ら》が進出してきているのです! ……そう、《悪魔》が。」

「……」

 リコッタの神妙な表情に思わず眉唾を飲み込んだ。

《悪魔》、天使と対をなし、人を惑わす存在。

 そりゃ天使もいたら悪魔もいるか。しかもその《悪魔》というのが悪さをしているらしい。話の規模が大きくなってきた。にしても《悪魔》の仕業という割には被害の規模が小さいな。

「でも、その『悪魔の進出』に俺、いや俺の魂がなんで関係してるんだ?」

「それはですね、高名な天使が付いていた『担当』に問題があります。彼は《平和》の担当でした。彼が死ぬこと、それは《平和》の概念の存続を放棄することに繋がります。その結果として悪魔達が活発になってきたのです!」

 要するに、『彼』がいなくなったことで《平和》の均衡が保てなくなったってことか。

「そんな大役の代わりなんて俺に出来るものなのか? 言っちゃ悪いがただの人間だぞ?」

「いやいや、むしろ彼の魂を継いだ善晴さんじゃないとダメなんです! 私を助けると思って…… ダメですか……?」

 目をうるうるさせて上目遣いで俺を見つめてくる。

「っ……⁉ 仕方ねぇな!」

 決してかわいさに懐柔されたとかそういうのじゃない。ピンチらしいし! 俺にしか出来ないことなら助けてあげないとな!

「よっしゃ!」

「ん?今ガッツポーズしたか?」

「いやそんなまさかまさか。」

 目をそらした視界の端で何か見えた気がするが。気のせいか。

 どの道、俺に選択権はない。大人しく従うことにした。

「それで? 天使になるにはどうしたらいいんだ?」

「はい! 人間が天使になるためにはある程度の《資質》が必要になります。善晴さんの場合魂に天使が混ざっている、ということで《資質》は問題ありません。」

「おう。」

 さすがに誰でも人間を超える存在にはなれないらしい。

「そうすると後は《実績》の問題です!」

「実績?」

「はい! すなわち、平和維持活動です!」



 平和維持活動、そう言って連れてこられたのは近くの商店街。休日の昼下がり、商店街は買い物客でなかなかに賑わっていた。

「しっかしいいところですよねここ。落ち着いた雰囲気が和みますね~」

「まぁ昔からあるらしいからな。のどかでいいところだよ。」

 きょろきょろと周りを見回すリコッタ。傍から見ると初めて観光に来た観光客みたいだ。さすがに羽と輪っかは消しているが、太陽光に照らされて艶を出す綺麗な金髪と、外国人然とした整った顔立ち。鈍い色を基調とした落ち着きのある建物が並ぶ中で明らかに浮き出て見える。

「それで? ここには何をしに来たんだ?」

「この辺りで悪魔の反応がするんですよね…… 多分近くにいると思うんですけど。」

 その恰好でさえ目立つのに、さらにはステッキを片手に歩いているのだ。明らかに悪目立ちしていた。見た目はいいのにね……

 悪魔を探しているというのに、そういうところは気にしなくていいんだろうか。

「お、反応が近いです! この辺りかもしれません!」

 リコッタの持つステッキが何かに反応するかのように、激しく点滅し電子音を響かせる。

「いました! あそこです!」

「あ、おい待てって!」

悪魔の姿を捉えたらしいリコッタが裏路地の方へと一目散に駆け出した。

 俺には全然見えなかった。天使は視力もいいんだろうか。

 素早いリコッタの後ろを追うように入り組んだ狭い道を進んでいく。右へ、左へ、リコッタは道に散乱したごみや鉄パイプを持ち前の運動神経で、難なく躱してして進む。

「さぁ観念してください! もう逃げ道はありませんよ!」

 追い詰めたリコッタが何者かに向けて声を上げる。まるで悪役のセリフだ。

 通路の奥、行き止まり。そこにいたのは、ただの子供の犬みたいだった。

 柴犬のようにスラっとした体格で、で全体的に黒っぽい色をしている。

道中ひっくり返したごみでも浴びたんだろうか、毛が汚れでべたついていていかにも獣ような風貌だ。特にこっちに威嚇するわけでもない。よく見ると小さく震えており、まるで本能的に逃げるべくして逃げてきたというようだ。

 全力疾走で疲れた俺は息を整えながら尋ねる。

「はぁ…… こいつがその《悪魔》ってやつなのか? 随分とかわいいけども。」

 パッと見た感じ悪さをするようには見えないし、ただの子犬っぽい。

「いえ、ハズレみたいです。こいつは《魔族》です。悪魔たちが飼っているペットのようなものです。しかもまだ成長中のケルベロスみたいですが。」

「なるほど?」

 エキドナとか、キマイラとかの怪物の類なのだろうか。犬に近いものだとケルベロスか。名前の割にはかわいいのが出てきて内心ちょっとホッとした。

「近くに飼い主はいないようですね。 ……それならここでやってしまいましょうか。」

 リコッタはそう言うと、手に持ったステッキを小型銃のようなものに変形させた。ステッキ万能だなおい!

「いやわざわざ殺さなくても良くないか? こんなにかわいいのに。」

「騙されてはいけません! こいつだって立派な魔族です! 成長したら世界を滅ぼしちゃうかもしれません! むしろ早いうちに退治できてラッキーですよ!」

「ほら見てみろって。全然無害じゃないか。」

 ケルベロス? の近くまで行って抱き上げて見せる。威嚇をする様子もなく大人しい。

 と思っていたら。

「ガルルルルッ!」

「うわぁぁぁぁ!」

 かわいい顔からありえないほど狂暴な顔に変化させて俺に唸り声を上げた。

 ケルベロスは俺の腕から飛び降りると俺とリコッタに対して激しく威嚇している。

 その威嚇は野生動物のそれとは違い、威圧感が違っていた。心に直接圧がかけられたように感じた。

 圧倒されて思わずしりもちをついてしまった、股辺りが微妙に濡れているように感じるのは嘘だと信じたい。

 リコッタがにんまりとした顔で俺を見る。

「ぷぷっ。 ……だから言いましたよね? 立派な魔族なんですって。いい悲鳴でしたよ!」

 サムズアップをするリコッタ。危険だとわかってて助けないとかお前の方が悪魔だろっ!

 確かに豹変したケルベロスは信じられないくらい獰猛な顔つきだ。さっきまでの怯えていた態度が嘘かのようだった。

 リコッタは無言でケルベロスに近づいた。

 数回、乾いた発砲音が聞こえると唸り声は聞こえなくなった。姿もない。血痕だけかそこに存在している。

 俺は座ったまま動けなかった。

 こっちを振り返ったリコッタは笑顔だった。

 家ではあんなにふざけていたのに。

 すっかり血まみれの、純白だったはずのワンピース。それでも変わらずに茶目っ気を感じさせるその笑顔がひどく歪に感じた。


※※※


 すっかり日も暮れ、静かな夜に鈴虫の鳴き声が響いている。

「っぷはー! やっぱり風呂上りは牛乳に限りますね!」

「おっさんかよ。」

 リコッタは風呂から上がり、さっぱりとした様子でリビングをうろうろしている。バスタオル一枚で。こんな性格でも見た目はいいだけに、正直目のやり場に困る。

「しかしなんでうちにいるんだよ。どこか場所ないのかよ?」

「別にいいじゃないですか。善晴さんは私が近くにいて安心ですし、私も快適ですし。」

「いやでもそうやってうろうろされるのは…… 困る。」

 それ以前に美少女(見た目のみ)と一緒に生活しているとなると気が気じゃない。

「え? なんですか二人きりだからってやめてくださいよもう! 勢いに任せて堕天なんてしたら洒落にならないんですから!」

 照れた様子で背中をバシバシ叩いてくる。普通にめっちゃ痛い。もういいよ、何でも。

 よっこらしょ、と漏らしリコッタがソファに座っている俺の横に腰掛ける。おっさんか?

 テレビではついに神社本体に被害が出たらしく特集が放送されている。

「てかニュースになったりしないのか? 発砲音とかさせてたが。」

「あのときには結界を張っていたので大丈夫です! 何も問題ありません!」

「ああ、そう。」

 なんて都合のいい結界だ。ステッキが有能すぎる。

「それで? どうでした? 平和維持活動。略して『平活』」

「なんだその『ヒレカツ』みたいな。どうも何も俺は何もやってないからな。いまいち実感が湧かないな。」

 そもそも天使の生まれ変わりとか言われたのも今日だし。なんか知らない美少女(見た目のみ)が一緒に住むことになったし。状況が目まぐるしく変わりすぎて、本当に現実なのかとも思えてくる。ただ、悪魔というか魔族は恐ろしいものだと理解できた。

「善晴さんの資質は完璧ですし。やればできる子なので大丈夫ですよ!」

「いや誰目線だよ。」

 屈託のない笑顔のリコッタ。

 すると下を向いて指を動かし始めた。

「やっぱり『あの人』に似てますし、雰囲気とか。」

「……」

「もし、私が困っていたら、助けてくださいね?」 

 珍しく曇りを見せたリコッタは確かにそう言った。その顔は俺に向いていたが、どこか違うところを見ているようだった。


※※※


 リコッタがうちに来てから数週間が過ぎた。その間、日に一、二体ペースで魔族を倒していった。倒したといっても俺は見ているだけだ。なんだかんだ初日のケルベロスがトラウマになっている。

 肝心の悪魔とはまだ遭遇していない。生息数が少ないのだろうか。

対して天使のリコッタはというと、平日の朝だというのにソファへ横になり、テレビをつけて片手間に消しゴムをこすっている。それ俺の消しゴムなんだけど。しかも新品……

いつも朝は弱いのだが今日は特に眠そうにしている。

 もしかして数年前から一緒に住んでいたのだろうか? いや、こいつの距離感がおかしいだけだが。なんかすっかり慣れてしまった。

「なんだ? 《怠惰》の担当にでもなったのか?」

「そんな大出世してたら一回天界に帰ってますよ。家族に自慢しに。」

 そりゃそうか。

「じゃあ行ってくるぞ。」

 準備を終えた俺は出かける間際にリコッタに声をかけた。

「いってらしゃぁーーーい」

 なんだかんだで玄関まで見送るリコッタを尻目に家を出る。

本当に数年くらい一緒に住んでいるみたいな気安さだ。性格は悪いしおっさんのような行動もするが、なんだかんだ一緒にいて心地良く感じている。

リコッタはいつも笑っている、だからこそ初日に見せたあの曇った表情が忘れられなかった。

 今日の天気は曇りだ。厚い雲が覆っているのだろうか、いつもよりどんよりとしていて気怠く感じる。


 学校へ行く途中の商店街の人も、学校の人も誰もが無気力なように見えた。

 午前中の授業だって半数以上が寝ていたからまともな授業にならなかったし、先生も注意する気力がないようだった。誰もがやる気をなくしている。

 外を見ると、朝よりもさらに雲が厚くなっているように思えた。真っ昼間なのにまるで夜だ。不気味で仕方がない。

 外ばかりに気を向けていたからだろうか。目の前に見知らぬ男が立っているのに全く気が付かなかった。

「っ⁉」

 まず目に入ったのはその顔だった。作り物のように整ったパーツ。さらに長身で細身、それなのにスーツの上からでもわかるほどに、鍛え上げられた筋肉。まるで理想の男性像だ。

 周りを見ると誰もいない。教室に俺と男の二人きりだ。

「やぁ、君が善晴くんかい?」

 男は俺に話しかけてくる。甘ったるい声だ。まるで誘惑しているような。

「あれ?そうだよね? 谷凪善晴くん。誕生日は十月四日。十六才。典摩高校。初恋の相手は――」

「その話しかけ方流行ってんのか⁉」

 ろくな話しかけ方ではない。と同時にこの男もろくな人物でないと確信した。

「あぁ良かった、合ってるんだね。僕は《悪魔》。君を殺しに来たんだ。」

 これが悪魔なのか。あの時のケルベロスなんかとは格が違う。目の前の悪魔からは何も圧を感じることすら出来ない。

 ただ、ここから逃げ出したい。絶対的な強者に対する根源的な恐怖だけが自然と湧き出て、全身を包んでいるのがわかる。

 目の前の悪魔から目を離すことが出来ない。こんな顔あと数秒見ているだけでも発狂しそうなのに。『悪魔』に敵意を持たれているという事実はそれほどに精神に異常をきたしていた。

「じゃあいきなりで悪いんだけど、死んで?」

 言い終わると同時に背中に激痛が走った。肺から無理やり空気が押し出され、一瞬世界が止まったのかと錯覚する。

「ん? せめて痛くないように一撃で終わらせるつもりだったのに。《混ざりもの》とはいえ、頑丈なんだねぇ。」

 悪魔は感心した様子で、こっちに歩いてきながらにやにやと楽しそうに笑っている。天使も悪魔も性格悪いやつしかいないのかよ。

 霞む視界の中、俺と悪魔の距離がゼロになると思った瞬間、何者かに抱きかかえられた感触がした。

 至近距離に見えるのは、綺麗な淡い金髪、不自然なまでに整った輪郭、まっすぐにこっちを見つめる碧眼。リコッタだ。

「善晴さん! 大丈夫ですか! 意識をしっかりしてください!」

「あぁ、なんとかな。」

 身体中のあちこちに激痛が走っている。なんとか生きている。

 上空へ俺を攫ったリコッタはそのまま屋上へと着地した。

 リコッタがステッキを俺にかざすとたちまち傷が治っていくのがわかった。

「本当にすげぇなステッキ!」

 無詠唱でもできるのかそれ。今まではなんだったんだ。

「善晴さん! 生きててよかった!」

「おい抱きつくなって!」

 涙目で抱きついてくるリコッタ。落ち着くいい匂いがする。こういうところは天使っぽい。

 リコッタを引きはがした俺が尋ねる。

「いやそうじゃなくて、なんで俺が悪魔に狙われてるんだ!」

「それは僕から説明しよう。」

「《誘惑》!」

「そう怒らないでくれよ《消しカス》」

「誰が《消しカス》ですか! 馬鹿にしないでください!」

「いや何も間違ってないんだけどな。」

 音もなくいつの間にか屋上に降り立っていた悪魔。《誘惑》の悪魔らしい。悪魔にも担当があるのか。

 見ると、さっきまではなかったが頭に一対の角と、背中に二対の羽を携えている。上の羽は横に伸ばした腕よりも大きい。下の羽は背中から少しはみ出る程度、リコッタの羽と同じくらいの大きさだ。羽の大きさによって等級が違うのだろうか。

「君の魂は悪魔にとって邪魔なんだ。混ざっていてなお、強大だからね。だから殺してもっと劣化させる必要があるのさ。」

 混ざって劣化したとしても元は上級天使の魂。悪魔にとっては存在が邪魔らしい。もしかして俺って結構面倒な立場?

「まだ戦えない状態なのでせめて精神的に参らないよう、学校くらい通わせてあげようと思っていたんですが…… 裏目に出てしまったようです。」

 本当にごめんなさい、とリコッタが申し訳なさそうな顔でこちらを見ている。リコッタが真面目にしているとどうにも気が休まらない。

「いやまぁそれは俺も悪いしいいんだけど。問題はこいつだよ、明らかに強そうだけど勝てるのか?」

「そうだぞ? なんなら人間の生気をもらって元気一杯だ!」

 飄々とした態度で《誘惑》が言ってのける。みんなの元気がないのもこいつの仕業だったのか。実力でも、準備でも負けている。そんな相手に勝てるのだろうか。

「それでも。勝つしかない! 絶対に善晴さんは殺させません!」

 リコッタが小型銃を《誘惑》に向けて構える。

「おぉ、言うねぇ。じゃあ実力はどうかなっ!」

 瞬間、《誘惑》が肉薄する。牽制するように発砲した弾は、硬い肉体に阻まれ全く効果が見られない。

 金属で殴られたような鈍い音と共に、リコッタはなすすべなく真横へと吹き飛ばされた。貯水タンクへぶつかり沈黙したリコッタは横腹を抑えてよろよろと立ち上がる。そして再度誘惑に向けて小型銃を構える。

 準備の差以前の問題だ。下級天使であるリコッタでは上級悪魔である『誘惑』とでは力量差は歴然だった。

「まだ立ち上がるのかい? いいねぇ! もっと楽しませてくれよ!」

 何度倒されても、壁に叩きつけられても、嘲笑われても立ち上がるリコッタ。

 俺にはどうすることもできない。立ち尽くし、リコッタが嬲られているところを見ることしか。

 どうしてリコッタがこんな目に合わないといけないんだ。一体誰が悪さをしたというんだ。どうして他の天使は助けに来ないんだ。

 《誘惑》の楽しそうな笑い声がどこまでも響き渡っている。

 地面に転がるリコッタの抵抗っも空しく、攻撃され続けている。

 あぁ、もし本当に神がいるのならリコッタを助けてくれ。俺なんてどうなってもいい。リコッタがまた笑ってくれるなら、それでいい。

 リコッタは言っていた。もし自分に何かあったら助けてくれ、と。それだけの力が俺にはあると。

 ゴトン、と目の前に何かが落下してきた。ステッキだ。リコッタがいつも持っていたものだ。

 幾何学的な模様がちりばめられていたステッキは、今はもうあちこちが欠けていた。ただの汚い棒切れも同然だ。

「うおおおおおおお!」

 気が付けばステッキを手に持ち走り出していた。リコッタを救いたい。その一心だった。

 恐怖なんてない。そんなものを感じている余裕なんてない。

 出せる限りの全力で《誘惑》をステッキで殴りつける。硬い手ごたえ。全身に振動が反響する。一回殴っただけでも耐え難い振動が全身を貫く。それでも何度も、何度も叩きつけた。

「こざかしいなぁもう。今こっちで遊んでるのに。」

 いつでも処理できる雑魚にかまっている暇はないとでも言うように、疎まし気にこぼした《誘惑》によってリコッタとは逆側の壁に飛ばされる。それだけで人間の俺には完全に致傷。身体はまともに動かない。地面に転がるばかりだ。全身から血の気が引いていくのだけがわかる。

 俺の右腕にそのほとんどがバラバラになったステッキが突き刺さっていた。

 もう痛みすら感じない。ここまで必死になっても誰も救えない。まだ《誘惑》はリコッタを痛みつけて遊んでいる。

 ダメだった。所詮、人間の俺には何も出来なかった。人間は人間を超えた存在に対抗できない。考えるまでもなく当たり前だ。

 視界が段々狭まってきた。このまま現世ともお別れだ。




 いや、まだ右腕が動く。右腕が発光していた。

 バラバラになって埋め込まれたステッキが俺の意志、《魂》に反応するかのように。

 右腕で地面を殴った。

 凄まじい速度で空中を突進していく。《誘惑》の方向へ。

 そして、いつの間にか前に出していた右腕が《誘惑》の胸に突き刺さった。

「がはっ、いったい何が……?」

 背中から胸部を貫かれる形で停止した《誘惑》は、ただ驚きを隠せていないように見えた。口からはどす黒い血が流れ、貫いた胸部から白い粉へと変化していく。

 取るに足らないと思っていた人間風情に己がやられてしまうなんて。そんな心が透けて見えた気がした。

 やがて《誘惑》は完全に白い粉となり空へと散っていった。厚い雲の隙間から眩しいほどの光が差し込んでくる。天気はすっかり快晴だ。

 随分とあっけなく終わってしまった。リコッタがやられた分くらい返したかったのに。

 《誘惑》のいた場所に支えをなくして倒れこむ。

 右腕はもう役目を終えたとばかりに輝きを失っていた。

 それでもまだ動く右腕を必死に動かしリコッタへと手を伸ばす。そのほっぺを撫でる。

 顔には攻撃されなかったらしい。出会った時そのままの、今見ると性格の悪そうな笑みを浮かべ俺を見ていた。

「何やってるんですか。汚れるんですけど。せっかく顔は守ったのに。」

「お前こそ何やってるんだよ。そんな余裕なかったろ。」

 一方的にやられていただけのはずだろうに。いい根性してるよ。

 ホッとしたのか、朗らかな様子のリコッタが空を見てゆっくりと語り始めた。

「私はあなたを通して『彼』の姿を見ようとしていました。でも『彼』はもういません。」

 俺を通して『彼』を見ようとしていた。リコッタにとってはそんなに大切な天使だったんだろうか。

 何とも言えない気持ちでいると、リコッタがこっちを向いた。

「でも善晴さんは『彼』ではありません。あなたを作っている一部なだけです。『彼』だけじゃない、善悪混ざった結果が善晴さんです。」

「誰が悪だ。」

「ふふっ」

 そりゃ誰でも助けたいなんて思わないし、面倒だったらやりたくないくらいだ。お世辞にも、清らかな心の持ち主とは言えない。

「本当にありがとうございました。私はあなたが善晴さんで良かったです。」

「なんだそれ。」

 俺の元が天使だったから。急に天使の生まれ変わりだなんて言われて訳が分からなかったし、平和維持活動なんてやって痛い目を見た。

 やるしかなかったからこうなっているが、リコッタとの生活はなんだかんだ楽しかった。土壇場でリコッタを救えた。その点では自分の《魂》にほんの少し感謝している。今も全身が割れるように痛くて辛いのだが。

 痛みを実感すると、意識が遠のいていくのを感じた。

「なぁ、俺がこのまま死んだら天使になれるのか?」

「どうなんでしょう? 色々複雑ですし。」

 人間に混ざってしまった天使の魂は、再び解放されたらどこへ向かうのか。よくわからないが複雑そうだ。

 だめだ。考えていたら眠くなってきた。

「……」

「善晴さん⁉」

「……なんだよ。」

「生きてるじゃないですか! やめてくださいよもう! きっともうすぐ迎えが来ますからしっかりしてくださいね!」

「……」

 仲間の天使が迎えにでも来るのだろうか。縁起でもない。

 リコッタは幸せそうな笑顔をしていた。天使のような優し気を帯びた顔。この笑顔を守るために俺は戦ったんだ。守れたんだ。本当に良かった。

 実感したのもつかの間、抗えない眠気にやられ今度こそ意識が落ちる。

 天にも上るような誇らしい気分だった。









 目を覚ました俺が本当に天に上っていたのはまた別の話だ。



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どうやら俺は天使になるらしい。 暁ひよどり @hiyodori_akatsuki

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