第5話 落ちてきた少女③
「じゃ、訳わかんねーお話はこれくらいにして」
と、フウトはノートを閉じた。
「さっそく、転生候補者どものお宅訪問と行こうぜ」
彼は残りの紅茶を一気に飲み干して、席から立ち上がった。慌てたカイがもたついている間に、彼はカウンターをゆうゆうと通り越し、颯爽と店から出ていった。
フウトと同じように、残っていた紅茶をぐっと飲みこもうとしたカイは、意外なほど熱を保っていた赤い液体にびっくりして噴き出してしまった。げほげほとむせる彼女のもとに、マスターが「どうかしましたか」と、心配そうな顔でやってきた。
「い、いえ。ちょっと熱くてびっくりしちゃっただけ」
涙の乾いた布切れで、口の周りをごしごしと拭く。
「そうでしたか。氷をお持ちしましょうか」
「いや、もう出ていくので大丈夫です」
そう言って、カイははっとした。
――お金、持ってない。
「おや、そうですか。では、伝票をお持ちになってください」
マスターはくりっとした眼で、テーブルの上に置かれている小さな紙に視線を落とした。それから、席を立とうとしていた彼女の方に顔を戻した。
「――え」
彼は困惑した。目の前にいたはずの少女が、跡形もなくいなくなっていたのだ。
親切なマスターを想い胸を少し痛めながらも、カイは外にいたフウトと合流した。
「指輪は外してるか」
彼の問いかけに、カイはまっさらな両手を広げて見せた。
「おし。じゃ、まずはこいつだ。
そう言うと、フウトは傘もささずに駆け出した。勢いを増した雨模様に足がすくんだカイは、喫茶店の屋根の下で傘を広げてから、彼を追いかけた。
雨の降る都会の雑踏の中を、彼女はフウトの後ろ姿について走った。道行く人が、カイの体をすり抜けていく。――いや、むしろ彼女の方が、すり抜けていった。
「……この人が片栗粉さんですか」
カイは訝し気にフウトに尋ねた。二人は、古びたアパートの一階、片栗が住む一〇三号室へと忍び込んでいた。
「片栗羽根男だ、カイ」
フウトがのんびりした口調で訂正した。片栗羽根男は、カーテンを閉め切った四畳半の部屋の中で、ベッドに寝転がり、スマホ片手に尻を掻いていた。
「なんか」
カイは脂ぎった顔の片栗を見下ろして、
「きもいです」
と、情け容赦ない感想を述べた。
「今にも魂の連鎖から抜け出しちまいそうだろ」
フウトは懐から取り出したノートの中を確認しながら言った。片栗は奇妙な居心地の悪さを感じたのか、ベッドの傍に立っている二人の方へ、小さな液晶から視線をずらした。しかし、彼の眼には、部屋の隅に張っている小さな蜘蛛の巣しか映っていない。カイは、そこにいるのがバレてしまったのかと、一瞬胸をどぎまぎさせた。
「じゃ、指輪つけるぞ」
二人は同時に銀色のリングに指を通した。スマホをいじっていた片栗は、暗闇に浮かび上がった見知らぬ影を察知し、声を上げて跳び起きた。目を真ん丸にして、言葉に詰まる彼に、フウトは「よう」と軽薄な調子で笑いかけた。
「な、ななな――何だよお前ら。一体どこから入った?」
「玄関に決まってるだろ、片栗羽根男。俺はフウト、隣の女はカイ。今日は、お前の異世界転生者としての適性を審査するために、ここに来た」
弁当箱の容器やペットボトル、雑誌で散らかった部屋の中で、片栗はしばらく呆然としていた。やがて下を向き、顔を手で覆うと、くっくっく、とこみ上げるような笑い声を洩らした。
「ついに来たか、俺の元にも。異世界転生の遣いが……!」
「だからそうだって」
フウトは真顔で言った。片栗は、ぼさぼさに伸びた髪を振り乱して狂喜している。そんな彼をよそに、フウトはノートのページを手繰った。
「えーと、片栗。お前の希望は、中世の世界で魔法剣士となり、世界を救うことだったよな」
YES、その通り!と、片栗ははしゃいだ。ずいぶんベタなシチュエーションだな、とカイは思った。
「そういう世界線ならいくらでもあるから、正直こっちはいつでもお前を送り出せるんだけど?」
試すようなフウトの視線も意に介さず、片栗はガッツポーズのまま跳ね回った。どこかのゲームの主人公じみた彼の挙動を、カイは目を細めてじっと見ていた。
「今すぐ行かせてくれ!俺を待っている人々の声が聞こえる」
そう言って、低い天井を仰々しく仰ぐ片栗の腕を、フウトがぐっと掴んだ。そして、彼の手の甲に何やら不思議な模様をペンでしたためた。
「おけ。それじゃ――いってらっしゃい」
フウトは片栗から一歩下がり、胸に手を当て、ぶつぶつと何やら呟いた。すると、片栗の手に描かれた模様が青い光を纏い、次第に強さを増していった。
「お——おお?!」
眩さの濁流に包まれ、戸惑う片栗。部屋の中が青白い光に溢れ、彼の姿が瞬く間に消え去った。
「……彼は、別の世界に?」
手で目を覆ったカイが言った。
「そゆこと。じゃ、次いくぞ」
フウトはノートを閉じた。
その後、二人は雨の中、計八十人ほどの元を訪れ、話を聞いて回った。実際にフウトやカイの姿を目にすると、中には異世界転生を尻込みする者や、二人を不審者と罵って追い出そうとする者、異世界転生なんて本当は信じていないんだ、とうろたえる者も多数いた。フウトのノートから、転生者候補のほとんどは、その名を消去された。
「おし。今日はこんなもんだろ」
フウトは大きく伸びをした。本日最後の訪問先である中川邸から出てきた二人は、雨雲が流れ去った後の夕焼けに、全身を照らされていた。
「転生していった人たちは、ちゃんと世界を救うことができるのかな」
カイは、足元の水たまりに目を落とした。水面は風に揺らめくばかりで、彼女の姿はそこに映っていない。
「そりゃあいつら次第さ。ま、転生者のほとんどは野垂れ死にするのが現実だけどね」
フウトは感慨もなく言ってのけた。
ベルペトは、空の世界でフウトの帰りを待っていた。そこは、雨も降らず、太陽が傾くこともない、空っぽの世界だ。
ふと、彼の上に影が落ちた。空を見上げる。はるか上空には、人影が――二つ。
「しっかり掴まってろよー!」
軽い調子で笑うフウトだったが、その腕にしがみつくカイは必死だった。空を切り裂いて急降下していく感覚は、何度経験しても気持ちのいいものじゃない。フウトのとなりに見知らぬ顔を認めたベルペトは、その表情を少し強張らせた。
ぼく、異世界転生召喚士。 そうま @soma21
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