第36話「魔王が生まれた日」

 冥府から見れば霊を使役して生者に害を為す警戒対象であるが、それ以外は呪術師も一般市民だ。誰に後ろ指を指される憶えもない。


 裏でコソコソせず、シティホテルに堂々と部屋を取っている。そのホテルも、地上18階のスィートルームを持つ、地方都市としては高級なもの。


 48畳のスィートルームには広々としたバスルームが備えられ、呪術師は身体をバスタブに横たえていた。


 しかし湯につかってリラックスタイムという訳ではなく、その顔には晴れと曇りが半分といった風。


 ――全く……。


 晴れ晴れとした表情の理由は、二度も煮え湯を飲まされた非正規の死神に反論を許さなかったから。


 曇らせている理由は、名ばかり管理職の魔王に捨て台詞を吐かれたからだ。


 決してできがいいとはいえないベクターフィールドの捨て台詞。


 ――憶えてろよ。


 呪術師が見逃せないのは、それが自分ではなく、クリスに向かって投げられていた事だ。呪術師など眼中にないとばかりに。


 ――あの外人!


 呪術師の気性は単純である。



 敵は叩き潰さなければ気が済まない・・・・・・・・・・・・・・・・



 下らない捨て台詞だと思えば思う程、しかも自分ではなくクリスに向かって吐いた事を考えれば考える程、苛立ちがつのる。



 無視された――呪術師の性格上、消化できない。



 バスタブの湯で乱暴に顔を洗うと、バスルーム全体に湯からウッディの香りが広がる。スィートルームのサービスである、バスタイム用の香水だ。ウッディの香りは気分を落ち着ける効果があるはずなのに、一行に苛立ちは消えてくれないが。


「ふんッ」


 強く鼻を鳴らし、消えない苛立ちを振り切って、呪術師がバスタブから出ていく。


 バスローブを羽織り、濡れた髪にバスタオルを当てながら戻った部屋にはクリスがいた。今夜、呪術師が拘置支所から出したクリスは、呪術師の艶姿になど興味など持たず、窓から海と町並みを見下ろしている。


「……」


 クリスの顔からは、何を考えているのかはうかがれず、また呪術師もクリスの思考には興味がない。


「こんな時間じゃ、ルームサービスもないわね。明日の朝にでも、何か頼むといいわ。留置所でも拘置支所でも、ろくなものを食べてないでしょう?」


 ルームサービスのメニューを取り上げた呪術師は、それをクリスの前に置いた。


「朝からステーキというのも、乙なものよ? お金なら心配しなくていいから」


 呪術師に金の心配など無縁だ。死神を撃退する事で命を繋ぐような依頼を受けていれば、それこそ一日100万でも200万でも手に入る。それを払うような者が相手の商売なのだから。


「お金で気持ちは買えないけど、食事やベッドは買える。合理的でしょ?」


 笑う呪術師がシティホテルを自宅代わりにしているのも、合理的な考えに基づいている。黙っていても掃除をしてくれるし、ランドリーサービスまであるのだから、デザイナーズマンションに住むよりも余程、清潔で綺麗に過ごせるというものだ。


 ただ金銭度外視でストレスの少ない生活を、といわれても、クリスは興味がないが。


「……」


 クリスは一瞬、呪術師に目をったが、バスローブの胸元から覗いている谷間や、風呂上がりで潤いっている髪などには一瞥すらくれなかった。


 呪術師にとっては、これは丁度いい。寧ろ、ここで発情される方が嫌悪感を覚えてしまう。


「何か見えているの?」


「……」


 呪術師の微笑みにも、クリスは返事らしい返事をしない。ただ窓の外――特に町の灯りではなく真っ暗な海の方を見遣るのみ。これは、少々、呪術師の癪に障る。


「殺そうとしたっていうのを、気にしているの?」


 クリスが逮捕される切っ掛けとなった事件を口の端に載せた呪術師は、大袈裟なほど大きく溜息をいてみせた。


「あなたは霊になって永遠に存在できる。それでいいかと思ったんだけど?」


 そういう人間だろうといわれるクリスは、激高するでも、また呆れるでもない。


 クリスがいだく言葉はただ一言、「その通り」だ。


 生き死にそのものに興味を持っていない。霊とは形を変えた生・・・・・・であり、クリスには畏怖も恐怖も嫌悪も不在だ。ならば仇討ちくらい――相手が自分に勝ればの話であるが――させてやってもいいとも思う。霊との戦いは、つまらないが。


 そんなクリスだからこそ、呪術師と組んで霊を量産するような事を了承した。


 口を開いたクリスがいうのは……、


「昔を思い出していた」


 ただ一人、快楽的殺人者としての衝動を持て余していた頃を、眼前の宵闇へ思い浮かべていた事。


「憶えていろよとうそぶいた男の顔だ。覚えがある」


 ベクターフィールドだ。呪術師は反応してしまう。


「?」


 クリスは殺した相手を忘れないという。


 ――あいつと面識がある?


 呪術師は考え込んだ。ベクターフィールドの風貌ふうぼうからは、混血児という事もあって年齢を推測しにくいのだが、二十歳前後か。クリスは年齢の事はいわないが、二十代後半だ。接点があった時期を考えるが、どうもかみ合ってくれないが、クリスが語ってくれる。


「ガキだ。あのガキの面影がある。いつも泣きながら、女の子の手を握っていた」


 その記憶の最も古いものは、その少女の家の前だ。


 玄関先に顔を見せた少女の母親らしい女に、男児は名前を告げた。


 途端に頭上から降ってくる嘲笑。


 ――バーカ! 2年になって、まだ女と遊ぶのかよ!


 ――バーカ! クニ帰れ!


 少女の兄弟とその友達からのものだった。


 ゲームソフトを片手に少女が来た時、もう男児はベソを掻いていた。


「そして、あの日か……」


 クリスが思い出す、二人の最期の日。


 ――お前、野球なんてできねーだろう。ルールもちゃんと知らねェじゃん。


 ――タッチアップって知ってっか?


 嘲笑は一際、大きかった。


 一際、大きな嘲笑と、尻餅をつかされる胸への一発。


 ――みんなに迷惑かけるなよ。


 嘲笑、嘲笑、嘲笑。


 ベソを掻きながら二人で連れ立って帰る道々、男児は持って帰ってしまっていた学級日誌に、こう書いた。



 ――もう死にたい。



 男児がどれ程の精神状態だったのかは分からない。クリスは知らないが、ベクターフィールドは「郵便ポストが赤いのですら、自分のせいにされた」という児童だった。辛さを知るのはその男児――ベクターフィールドと、傍にいる少女だけ。


 今、学級日誌に書いた一言も、明日、教師に提出すれば消され、適当な言葉に書き換えられる。


 だから――クリスはいう。


「俺が叶えた・・・


 クリスは自分が殺した相手の事を忘れない。


「二手に分かれた。俺は男のガキを追った」


 死にたいと記した男児を追った。


「いや、追おうとした」


 ただし現実には、追えなかった。


「二手に分かれたフリをして、女のガキは立ち止まっていた」


 その女児を始末せずに男児を追い掛けるのは、賢い選択肢ではない。


「自殺だな」


 男児を守るための自己犠牲は、自殺という単語には不釣り合いだと感じられるが。


「自殺だった」


 主語を省略したクリスの言葉は、呪術師の想像が追い付かない。



 ――翌日、その男のガキも俺の前へ自分できやがった。



 男児にとって、自分の命は少女が自分の命を犠牲にして救ってくれたモノではなく、少女の命を横からかっさらってしまったものだからだ。


 死が望みというのならば、クリスに躊躇ちゅうちょはない。


 呪術師は「長々と……」と舌打ちした。呪術師にとって重要な事は、ただひとつしかない。


「……そのガキが、あの男?」


 ベクターフィールドはクリスに殺された過去がある。


「面影がある。間違いない」


 ベクターフィールドが「憶えていろよ」といったのは、その日の事だ。


 そして二人は知らないが、ベクターフィールドはいった事がある。



 ――私にも幼なじみの、姉のような人がいました。しかし彼女も同じく標的にされていましてね……。ある日……。



 覚えていろといったベクターフィールドが、どれくらいの気持ちを込めていたか――それを考えると、呪術師はクスクスと笑ってしまう。


「面白い事になりそうね」


 ベクターフィールドを叩き潰す切っ掛けを得たのだ。


「私、悪魔とも繋がりがあるのよ。悪魔の体液を凝固させたら、ずっごくいい薬になるの。お金だけでなく、魂や命まで差し出してくる連中が来るの」


 今夜、拘置支所を襲撃できたくらい、呪術師は悪魔を動員できる。集めている霊を合わせれば、その人数が膨大だ。


 ――もう一回、けしかけてやろう。


 それは危険もはらむが、呪術師は気にしない。


 ――叩き潰すわ。冥府の力が借りられない非正規の死神なんて怖れるに足らず。眷属のいない名ばかり管理職の魔王なんて、こちらの人数に抗いきれない。


 抑えきれない笑いは、こんな事態なのだから滞在するホテルを変えるべきなのに、それを拒否する精神状態へ呪術師を追い込んだ。

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