第35話「闇は人を素直にさせた」
ベクターフィールドが出て行くと、残された
「休むなら、僕のベッドを使って下さい。シーツ、取り替えますから」
2LDKではあるが、八頭は来客用の寝具など持っていない。ベッドも自分の寝室にあるもののみで、部屋とてもう一室は物置同然になっている。
しかしそこは亜紀が恐縮してしまう。
「悪いですよ。私は、別にどこでも構いません」
どこでも休息が取れるというのも警官に必要な素質だと思っている亜紀だが、八頭も同様野茂のを持っている。
「僕も24時間勤務のある部署にいましてね。どこでも寝られます。ソファで十分」
今、亜紀が腰掛けている三人掛けのソファで十分だというのは強がりではない。八頭の仕事は当直ではなく夜勤のため、休憩時に1時間くらいの仮眠しかできないのだから、ソファで寝るのは慣れている。
しかし、双方が共にそちらがそちらがと譲り合っていては、やはり八頭は笑ってしまう。
「……それとも、何か飲みますか? 寝る前だと、ちょっと糖分とビタミンCを補給したら、疲れも取れやすくなりますよ」
そしてキッチンに立った八頭は、冷蔵庫の中からレモネードを漬けた瓶を取り出した。氷砂糖とレモンで漬けた本物のレモネードは、以前の合コンで八頭がいっていたもの。
亜紀も思わず腰を浮かしてしまう。
「あ、それが自家製のレモネードですか?」
ここは先日、話してくれた紅茶とレモネードの炭酸割りが気になるが、寝ようかという前にカフェインは取れない。
八頭は「そうですよ」と笑みを強め、透明なトールグラスを片手に取る。
「炭酸で割って、レモンスカッシュにしても美味しいです」
「じゃあ、それで」
亜紀も笑みで返すと、八頭は「少々、お待ちください」とグラスにレモネードと炭酸水を入れた。その測り方も、亜紀の笑顔を明るくする。グラスに添える指で量を量っているのは亜紀と同様だったからだ。
八頭が量るレモネードと炭酸水の分量は、
――レモネードは指一本分、その上に指三本分の炭酸水を入れて、倍になるまで氷。
亜紀が濃縮紅茶を割った時と同じ。
「はい、どうぞ」
八頭がテーブルに置いたトールグラスは、透き通ったレモンイエローが実に鮮やかに見えた。
「レモネードを割る前にガムシロップを入れてやると、レモン色と透明のコントラストが綺麗なんですけど、味が均一にならないと、最後が甘くなり過ぎてしまいますから」
見栄えより味を優先したという八頭に、亜紀はぺこりと頭を下げる。
「いただきます」
亜紀も手製のレモネードは初めてだった。氷砂糖とレモンがあれば簡単に作れるが、自分で作る事などまずない。
「美味しいです」
亜紀の言葉は世辞ではない。
「何でもできますよね、八頭さん。車の事も、料理も」
そこまで知っているとはいえない相手であるが、それが亜紀の八頭に対する評価であるが、八頭は思わず苦笑いしてしまう。
「仕事は全然です」
「そうなんですか? 投げ出さずに粘り強く仕事をしそうな印象がありましたけど」
今度も亜紀は世辞などいっていない。
ベクターフィールドと対峙している光景を見ていたからだ。
今までベクターフィールドと対峙してきた相手は、奇襲に成功したり、攻撃手段を封じたりした上でなければ向かった来なかった。それは「有利だから戦う。不利ならば放棄する」という事でもある。
だが八頭は武器を抜けないという状態でも戦いを放棄せず、ベクターフィールドに手傷を負わせたのだから、度胸と責任感の
だが八頭の職場での評価は――、
「能力も責任感も欠如しているっていわれます」
非正規の死神という役目は、サラリーマンとの相性が悪い。年次有給休暇が比較的、取りやすい環境にいても、連絡を常時、待っているような状態では職務に専念しているとはいえない。ならば責任感の欠如といわれるのも当然だ。
「仕事なら、
「私は……」
今度は亜紀が苦笑いしてしまう。
「出来が悪いですよ。自分が思い込むと、突っ走ってしまうんですよね。警察って、簡単に暴力装置になる危険があるから、権限が厳しく、細かく分けられてるんですけど、そうじゃないって思ったら、管轄外の事件に首を突っ込んだりしてしまうので……」
つい先日も、ベクターフィールドを召喚して追い掛けた事件は、防犯課少年班の仕事ではない薬物事件だった。
「好きな刑事ドラマの影響っていえばそうなのかも知れないですけど、いつまでもガキみたいな事を……って、よくいわれます」
「そうなんですか……」
八頭が語尾を萎ませてしまうと、亜紀は慌てて「いえ、いえ」と手と首を横に振る。
「でも上司には恵まれてるんです。怖い人で、よく叱られるんですけど、いってる事は正しいと思うんです。例えば、よく拳銃の使用について適切な使用だったって説明しますけど、本当は
「グレー?」
八頭が目を瞬かせると、亜紀は「グレーです」と繰り返した。
「銃って怖いんですよ。危険な上に怖い道具で、怖いのは銃弾だけじゃなくて、
そこで亜紀は言葉を句切り、パンッと音を立てて手を合わせ、銃を握るような仕草をした。
「私が好きだった刑事ドラマって、カーチェイス、銃撃戦、爆発! って感じで、今の目で見たら荒唐無稽なんですけど、格好良かったんですよね」
そのドラマは八頭も知っている。スポーツカー、バイク、高級スーツで、イカしたセリフと荒唐無稽だが熱の入ったアクションが目を引く名作だ。
名作だからこそ、亜紀は思う事がある。
「でも現実の銃が怖いって感じた子供は、銃ってカッコイイなんて思ってくれないでしょう? なら、それってものすごい損失だって思うんです。楽しい事が一つ消えてしまうかも知れませんから」
銃を構えたポーズから手を下ろした亜紀は、八頭を真っ直ぐ見返した。
「刃物を持った相手を無力化するために、剣道や柔道、逮捕術とか身につけてる訳ですから」
それが亜紀なりに上司の言葉を解釈した結論である。即ち――、
「鍛えられた身体で、みんなの心身を守る!」
ピュッと竹刀を奮うような仕草をしたところで、亜紀は照れ笑い。
「でも、やっぱり、そう考えると縄張りとか飛び越えちゃうんですけどね」
――自家用車でカーチェイス、片輪走行して相手を転倒させるとか、係長や補佐が聞いたらどういうか……。
それを思い出せば冷や汗を掻いてしまう亜紀だが、八頭は「そうですか」と軽く微笑んで視線をそらせた。
「
「それは――」
亜紀も、それは八頭とて同じ事だといおうとしたのだが、言葉を噛み殺した。
八頭が責任感を持っているのは非正規の死神に対するものであり、職場の事ではない。そして仕事を一本化するような事は有り得ない話だ。
亜紀が言葉を切った事に、少しばかりの優しさを感じたところで、八頭は起ち上がる。
「寝てください。ベクターフィールドは、きっちり調査してくれるんでしょう?」
八頭は今もベクターフィールドには好感触など抱けていない。
だが亜紀が契約しているのならば間違いない、とも感じている。亜紀も、それを保証する事に、
「それは、間違いなく」
「なら、すぐ動く事になるんでしょうから」
八頭は亜紀が飲んだグラスをキッチンの流しへ置き、シーツを取り替えようと部屋を出た。
それを追うアズマは、不安そうな顔を止められないが。
「八頭さん……」
「ん? ああ」
分からない八頭ではない。
クローゼットからシーツを取り出しながら、IMクライアントを確かめる。死神へ今後の対処を訊ねていたのだった。
返答は短い。
――冥府も、呪術師に直接、手を出す事はできません。
冥府から見ても危険な存在である呪術師だが、生者である事に変わりはない。企みを阻止する事はできても、呪術師を直接、排除する事は摂理に反する。何より、今夜は色々な事が起きすぎていた。拘置支所の爆破により、悪魔や霊まで大騒ぎしているのだから。
つまり呪術師と相対するのは、やはり4名だけ。
八頭が呟く。
「……大丈夫」
その小声は、自己暗示の類いだろうか。
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