第7章「呪術師と負の世界」

第34話「お茶漬け一杯分」

 クリス・ルカーニアには、冥府も介入が許されない。



 明津あくつの喉に薄く削ったプラスチック製のスプーンを突き刺す殺人事件は、生者の犯行なのだ。



 そしてクリスの殺人者としての能力は、卓越している。膝裏を蹴って脱力させ、股間を蹴り上げる事で前へ倒すという方法は、口でいうには簡単だ。行動の起点となる膝を崩し、身体の重心である腰を曲げさせるのだから理にかなう。しかし、それを狙ったタイミングでできるというのは、行うは難し、である。


 以前、八頭が命を繋ぎながら無力化できたのは、幸運が味方したとしかいえない。


 そして何故、クリスがここに現れたのかは、拘置支所外へと続く壁の穴にたたずむ女の姿が全てを教えてくれる。



 その女の素性こそが呪術師・・・だ。



 警官でも刑務官でも、また消防や救急隊員でもない服装の女は、一部始終を見ていたと思わされる笑みと共にクリスに向かって手招きしている。


 ベクターフィールドは大きく舌打ちし、


「三つ、空けてたのか」


 呪術師は、明津の房だけでなく、クリスの房にも穴を空けていた。


 呪術師は、鷹揚に頷く。


「復讐を遂げさせてあげたかったけど、これはこれでよかったでしょう?」


 霊媒師は声を、明津を襲う気をなくしてたたずんでいた女子高校生の霊へ向けていた。その悪びれない態度は、大人しいアズマですら毛を逆立てる程。


「あの人……」


 直に見た事はない相手だが、あの深夜病棟で霊を操っていた呪術師の気配を、アズマは忘れていない。そして呪術師も八頭とアズマを覚えている。


「雷神の子供を連れている……あら、あの時の?」


 クリスに復讐しに向かった霊を止めた事と合わせ、二度も同じ非正規の死神に阻止されていれば顔も覚えるというものだ。


 そんな呪術師の姿は、八頭に疑問を抱かせる。


「どうなってる? あの時、クリス・ルカーニアを殺そうとしていたのに、今は手を結んでいる?」


 八頭には二人が繋がっている理由が分からない。元から繋がっていたとすれば、殺してしまおうとした行動に矛盾があるし、殺そうとした後で繋がったとすれば、そんな方法を取ったのか想像もできない。


「……」


 呪術師は肩をすくめた。「どっちでもいいでしょ」といいたいのだろう。


 そしてどちらでもいいといえば、この場もそうだ。


「殺された明津一郎は、同情の余地なんてない相手よ」


 明津は最長でも5年にしかならない事がおかしいと思わないならば、その方が異常だ、そう呪術師は嘲笑を混じらせる。


「それを間違っているといい切ってみせるの?」


 亜紀と八頭は言葉に詰まるが、ベクターフィールドは逆だ。


「どっちでもいいんだろ、そんな事」


 呪術師の嘲笑に対し、ベクターフィールドは面倒臭そうな口調で答える。


「必要悪だ、正義の鉄槌だってツラで語ってる貴様、したい事はここで殺された相手を霊にして、手駒にしたいだけだろ」


 魔王の剣の柄に手を遣り、「へっ」と薄笑いを浮かべて見せるベクターフィールドは、嘲笑には嘲笑で返す。


趣味・・実益・・だ。全部、自分のためだぜ」


「どう思おうと勝手だけど」


 ただ呪術師は、負け犬の遠吠えにしか聞こえないという。


「抜くの? 私は人間だけど。ここ、まだまだ死神が大量にいるのよ?」


 ベクターフィールドが生者に刃を向ければ、死神が黙っていない。八頭ですら、ベクターフィールドの眉間を割りかけた。もしも八頭の得物が死神の剣であったならば、ベクターフィールドは斬り伏せられていた可能性は高い。


 負け犬といわれれば確かにそうで、今、ベクターフィールドがいえるのは全て負け犬の遠吠えだ。


「憶えてろよ」


 ベクターフィールドの捨て台詞は在り来たりのものであったが、呪術師と共に去ろうとしたクリスの顔を振り返らせる。


「……あいつ……」


 クリスに思わず呟かせるくらい、ベクターフィールドの顔は昔の記憶を刺激した。


***


 痛みを堪えつつ愛車を運転する八頭は、時折、ルームミラーで背後から来るベクターフィールドのクーペを見ていた。


 二組が行動を共にしているのは、ベクターフィールドの提案があったため。


 ――どこかに身を隠すぜ。


 それを八頭は断れない。



 霊となった女子高校生を確保しているからだ。



 ――まだ冥府に送れないぜ。


 ベクターフィールドはいう。


 ――自殺者は魂を失ってる場合が多い。このまま冥府へ送ったら、確実にろくでもない事になるぜ。


 自身も自殺者であるというベクターフィールドであるから説得力を持っていた。


 ――魂ってのは、次に人間に生まれる権利だ。つまり、それを持たずに冥府に下る事は、人じゃなくなるって事だぜ。


 ならば彼女の魂を取り戻す必要があり、それを持っているのは呪術師の女という事になる。


 そういう意味では戦闘は続いており、しかもメンバーは八頭、亜紀、アズマ、ベクターフィールドの4名で動くしかない事態だ。


 二台の車が停まったのは、八頭のアパート前。


「片付けてませんけどね」


 自分の部屋に案内した八頭は、こんな形で亜紀を招く事になるとは思っていなかった。


 集まるとすれば亜紀のアパートか八頭のアパートしかなかく、亜紀の部屋は1K、八頭は2LDKとなれば、どちらに集まるのがいいかは明白である。


 亜紀は遠慮がちに「気になりませんよ」というが、これは本心だ。普段から片付けていろとはいわないし、いえない。


 逆にベクターフィールドはずかずかと遠慮なく入る。


「気にしねェよ」


 その声にも、少々、刺々しいものがあるが。


「それより、何か食べるものがあると嬉しいぜ。何せタコ殴りにされたお陰で、頭痛ェ」


 LDKへ入る足取りも、亜紀のアパートに来た時と同じくらい、勝手知ったる他人の我が家といった風で、流石に亜紀の方が恥ずかしくなる。


「ベクターフィールド……ちょっと遠慮してよ」


 しかし、今の八頭は、亜紀の一言でベクターフィールドへの苛立ちなど消えてしまう。


「構いませんよ。こっちも血だるまにされてるので、大したものは出せませんけど」


 ベクターフィールドへ皮肉を返せたのも、そのお陰かも知れない。


 ただ亜紀は益々、遠慮する。


「あの、八頭さん。お構いなく。そんな事よりも、腕の怪我の方が……」


 第一、ベクターフィールドの一撃を受けた八頭の左腕が心配だ。止血のために縛り上げているが、本当ならば救急車が必要な事態のはず。


 何なら自分が呼ぶとスマートフォンを握っている亜紀だが、八頭は苦笑いと共に首を振る。


「夜が明けたら、救急外来にでも飛び込みます。今、救急車を呼ぶ訳にもいかないでしょう?」


 どこで、どうやってついた傷なのかを説明するのは骨が折れる。話せない事が多すぎるのは、亜紀も分かる事。スマートフォンをポケットに入れ、まずは八頭の手当を、と室内を見回す。


「まず手当を……」


 しかし救急箱の類いより目立つ、背の高いベクターフィールドは薬や包帯よりも冷蔵庫の方を見ていた。


「で、何がある?」


 これが何とも亜紀には居心地が悪いが、八頭はあまり気にしない。


「お冷やご飯くらいしかない。あと、冷蔵庫に松前漬けがある」


「お」


 それで十分だ、とベクターフィールドが身を乗り出すと、八頭も文句はないなと判断した。


「お茶漬けでいいか? お冷やご飯をレンジでチンして、松前漬けを丼に並べて、お茶づけ海苔で」


「いいぜ、いいぜ。そういうの。夜食って感じで」


 クククッと喉を鳴らすベクターフィールド。


 丼に盛った飯に松前漬けを載せ、周りにお茶づけ海苔を振る。


 あとはケトルから湯をかけるという簡単なものだが、湯気の上がる丼にベクターフィールドは満面の笑みを浮かべる。


 ただ亜紀は真逆の顔をするしかない。


「だから、ベクターフィールド」


 亜紀がいい加減にしてくれとばかりに眉尻を吊り上げたのだが、ベクターフィールドはスズッとお茶漬けをすすりつつ、八頭の方へ顎をしゃくる。


「俺は借りは絶対に返す。ほら、左腕は痛いか?」


 そういわれると、八頭は左腕に感じていた激痛が、いつの間にか消えている事に気付かされた。


 場合によれば死者すら快復させるベクターフィールドの力だ。


「……すまない……」


 八頭も思わず礼をいうが、ベクターフィールドはお茶漬けを啜りながら、


「いや、このお茶漬けに比べたら、大した事してないぜ。うまいな。丁度いい感じに、松前漬けのカズノコが辛くて、海苔の香りが引き立ってて」


 まさしくご満悦という顔に、八頭もふと微笑んだ。


「……昔、元カノが教えてくれたんだ。その頃も、夜食によく食べたよ」


「はん」


 ベクターフィールドは鼻で笑うと、「ごっそさん」と丼を置く。


 そして笑顔を真剣な表情に切り替えると、


「暫く、二人でいろ。あの女呪術師の事は、俺が調べる」


「大丈夫なの?」


 そう訊く亜紀に対し、ベクターフィールドは「まぁな」と曖昧な言葉を頭につけはするものの、言葉はハッキリいう。


「あの呪術師、今夜、集まってた悪魔とも繋がりがあるんだろ。案外、簡単に捕まえられるかも知れないぜ」


 玄関へ進むベクターフィールドは、ドアノブに手をかけたところっもう一度、八頭を振り返った。


「ごちそうさま。本当にうまかったぜ」


 ベクターフィールドの本音である。八頭の元カノが誰かは知らないが、今夜の対峙で自分と因縁のある非正規の死神と八頭は、何か関わりがあるのかも、と直感していた。

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