第33話「いきなりのサヨナラ」
このタイミングは何を意味するのか?
それとも何の意味もないのか?
それを判断するには誰も彼も判断力を欠いていた。
亜紀にタイミングを任せるベクターフィールドも、これがベストかどうかわかっていない。
――
歯がみさせられているベクターフィールドには、何もかも唐突だった。
霊が来るならばまだしも、房から逃げ出した明津と
「……」
それすら
――三人、相手にしてるようなもんだな!
ベクターフィールドにプレッシャーかかかる。隙を見せれば、八頭は
しかし八頭とて同じ事だ。
――霊が来た!
こちらもベクターフィールドから視線を逸らせるには、
八頭こそ、ベクターフィールドに対する警戒を
それでも霊が姿を見せたのだから、優先順位はベクターフィールドよりも霊が高い。
その二人の間で、亜紀は霊と明津の双方に目を
――これが、ベクターフィールドのいってた状況……!
亜紀の切り替えは早い。八頭が何故、ここに来たのかを気にしていた事など、頭の隅にすら置かない。それが警察官としての
当の明津は足を竦ませている。爆発のあった房から命辛々逃げだした先で、剣を持って対峙している男がいるなど思ってもいなかったのだから、その異様さ故に。
動かない――動けない明津へと、霊が一歩、近づく。その顔は、
明津も息を呑むくらいはできた。
「!」
何が起きているかくらいは察せられる。明らかに生者ではない者が自分の方を、しかも表情が分からないくらい歪んでいるのにも関わらず、睨んでいると感じられるのだから。自分が自殺に追い込んだ女子高生とは、ネット上だけの繋がりであったから容姿までは知らないにしても。
――何なんだ!?
明津が思うたった一言は、亜紀とベクターフィールドに捕らえられ、全てを吐き出したあの取調室で感じた事と同じだ。
「俺が一体、何をした!?」
ベクターフィールドの能力ならば、何もかもを
霊が
――変な爆発があったと思ったら、いきなり壁が崩れて……。
事情を知っている者ならば、房の壁も、また明津が目指して走った外壁も、呪術師が霊を使って空けたものだと分かるが、明津には飛びつくべき幸運に過ぎない。
ベクターフィールドは舌打ちする。
――穴を二つ空けてたのか。そこまでしたら、そりゃ冥府にも気付かれるぜ。
霊を使っての小細工は少なければ少ない程、小さければ小さい程、冥府も関知しにくいが、壁に二つ――しかも内外共に強固な拘置支所の壁を崩して隠すという行為は、呪術師の隠遁能力を上回っていた。
「――」
ベクターフィールドが立ち位置を変えようとした、その時、霊が何事かを叫んだ。
顔を覆っていた歪みは大きくなり、そして男二人が叫ぶ。
「
その声が出たのはベクターフィールドからか、それとも八頭からか。ベクターフィールドは霊を守らなければならない、八頭は霊を斬らなければならないが、虚を突かれたベクターフィールドは遅れ、八頭は左腕の激痛に阻まれた。
霊の顔に二つ、真っ青な光を
違う――と思ったのは、アズマだ。
「あ――」
霊を打ち砕く気がないからこそ見えたのは、復讐を遂げて霊が満足する場面ではない事。
霊が相貌に浮かべた殺意は、怒りではなく
霊の顔に浮かぶ悲しみの色で、皆の動きが遅れた。
しかし悲しみの色であったからこそ、動けた者もいる。
「!」
亜紀だ。
亜紀は霊と明津の間に割り込むと、霊に向かって大きく両手を広げて見せた。
「ダメ!」
亜紀の声は、必死に張り上げたという表現がそのまま。
形としては明津を
明津の首へと伸ばされていた手をそのままに、霊も立ち止まった。悲しみを湛えた霊の相貌は、止めてくれるなといっているのかも知れないが、亜紀は言葉を向ける。
「ごめんなさい」
亜紀の言葉は謝罪。それはベクターフィールドにすらら
――今更、何いってる?
逆恨みで自殺にまで追い込まれた霊に、今更、かけられる言葉など皆無だ。あるとしても、謝罪は有り得ない。謝罪たり得ないのだから。
だが亜紀が口にした言葉は、「ごめんなさい」の6文字だった。
「私が、もっとちゃんと動けていれば、もっと組織として動いておけばよかった。捕まえても、立件できたのはたった四つ、全部合わせても最長でも5年で表に出てくる……」
口惜しいだろうという。
それこそ口惜しいの4文字では語りきれない程に。
その中で、最も口惜しいのは――、
「ご両親に、抱えなくて済む悲しみを抱えさせてた……」
亜紀にとって、それが一番、口惜しい。
たった5年にしかならない罪にしか問えなかった時、亜紀を怒鳴りつけてもよかった。法の不備、警察の不備、亜紀の及ばない点……その全てを感情のままに
だが両親は亜紀を責めなかった。
亜紀がしてきた事を認める事により、娘の死を
「……」
霊が伸ばしていた手を下ろさせたのは、彼女の目にある悲しみ。
もし霊の懐く感情が憎しみであったならば、止める術などあるはずがない。
だが悲しみならば、その悲しみの元を巡ればいい。
彼女の悲しみは、怒りと憎しみを昇華させられる両親を泣かした事だ。
手を下ろさせたのは、亜紀の言葉ではない。
「ごめんなさい」
亜紀を許し、そして認めた両親の教育である。
やられたらやり返せと教えるような親に育てられていたならば、彼女は明津に伸ばした手を下ろせなかった。
両親が許し、認めた亜紀の静止を、どうして振り切る事ができようか。
その光景に、ベクターフィールドは「ははッ」と笑って剣を下ろす。
「ははッ。こりゃ、俺には無理だったぜ」
退いて八頭を間合いから外すのは、この事件は終結したという意思表示だった。
喜怒哀楽の内、哀の感情を失う事と引き換えに魔王となったベクターフィールドには、亜紀のような解決方法は思いつきもしない。
霊の身体が明津から離れる。
「殺してやりたいって思っていたけど……私には、できない……」
もう霊には、明津に振り上げる凶器はない。
「殺してやりたいって思っていたけど……」
亜紀の心に、この一言は突き刺さる。
明津を起訴できた事の報告に向かった時から感じていた事だ。
――この子の優しさが失われた事が、何より酷い事でしょ。
自分を自殺に追い込んだ男を許せる者は、この世には何人もいない。
解決である。八頭も剣を鞘に収めた。
「解決……か?」
語尾に疑問符を付けるが、八頭も何が何でも霊を斬らなければならない事態は脱したと思っている。
ただ当事者でありながら、蚊帳の外にいる明津は混乱しかしていないが。
「何が……起きた?」
そこへ、更に外から声が投げかけられる。
「簡単だ」
その声は、果たして何事だっただろうか?
少なくとも明津には分からない。
分かる必要のない世界へ落とされたのだから。
膝裏に感じた衝撃と、僅かな間を置いて股間に感じた激痛が、明津の感じた最後から二番目と三番目の感覚。
最後に感じたのは、体勢を崩して前方に倒れ込んだ時、プラスチック製のスプーンが喉に突き刺さるものだった。
「!?」
目を剥く三人と一匹を余所に、明津を始末した男は悠々と立ち上がる。
その顔は、八頭が忘れていない。
「クリス・ルカーニア……」
明津の
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