第32話「退くに退けぬ、進むに進めぬ」
支給されている隠れ
その素性など、八頭でなくとも想像するに易い。
――霊じゃなく、悪魔か!
剣に手を
悪魔も霊と同じく、本来ならば風に溶けてしまう程、虚ろな存在であるが、プラスの
だが一概に不利とはいえないのだから、ベクターフィールドも間合いを計る。
――そう焦ってくれて助かったぜ。
ベクターフィールドは内心で抱いた安心は、殺傷力を持っていないというのは八頭の主観に過ぎない事を示す。樹脂製の刀身も、
攻撃力という考え方をすれば、頼みにするには
八頭を支えてきた剣は、振るう腕があるならば、
故に今、八頭には不安があり、ベクターフィールドには油断がない。油断なく、ベクターフィールドは魔王の剣を大上段に構える。
――さて……。
構えの通り、ベクターフィールドの狙いは、切っ先に
狙いは見え見えだが、八頭が
「ッ」
八頭は背筋がゾッとした。
ベクターフィールドは構えを完成させている。だが八頭は?
――どう抜く!?
八頭が剣を抜く一瞬は、ベクターフィールドが必殺の一撃を放つに十分な時間だ。
――避けつつ、抜いて、反撃……。
八頭の脳裏に浮かぶ手段は、それこそ都合のいい妄想、夢物語だと思わされる。ベクターフィールドの打ち込みが
八頭の手が湿っていく。焦りが募る事を否応なく自覚させられる。
周囲で未だ散発的に起こっている爆発と、それに混じっている怒号は拘置支所の職員と収容者のものばかりではあるまい。
八頭とベクターフィールド以外にも、悪魔や霊と死神の激突が起こっている。
それは即ち、八頭の救援に来る死神はいないという事だ。
八頭も、眼前のベクターフィールドが、どんな存在であるかは佇まいから分かる。分かってしまう。
――並の悪魔じゃない。隠れ蓑が消えていくぞ……。
魔王と非正規の死神という構図だからではなく、警察官として柔道や剣道を修めている亜紀から見ても、優劣は明白だ。
――これ……。
今も
――
剣道に
ならば残るは、先も後もない、ただの
――居合抜き?
それが不条理な事とて知っている。そもそも居合い程、評価の分かれる技術はない。飛び道具のようなものだという流派もあれば、ないよりはマシという流派もある。無論、亜紀は居合いの事など知りはしないのだが、八頭が得意としている訳ではない事だけはハッキリと分かる。
ここで介入するならば、アズマしかいないのだが……、
「八頭さん……」
そのアズマは、どうしていいのか分からない顔をしたまま、身体を震わせていた。相手は魔王なのだから、アズマも人を守るために力を振るう事ができる。しかしベクターフィールドの背後にいる亜紀がダメだ。
八頭とベクターフィールドが互いしか視界に入らなくなる頃、爆発音は散発的になり、鳴る間隔を長くしていった。霊が侵入よりも攻撃に転じたのかも知れないし、死神が押し返し、戦闘が終わろうとしているのかも知れないが、それを意識の外へ出してしまう程の集中力が二人に
炎が二人の顔を照らした、まさにその時、二人の呼吸が合う。
ベクターフィールドが踏み込む。
「リィィッ!」
ベクターフィールドの気合いは、正に充実していた。大上段からの打ち下ろしだが、その切っ先は音の壁すら切り裂く速さを備えている。
対する八頭は――、
「ッッッ」
歯を食い縛っているのだから、何の声もない。
だが迎え撃つに当たり、八頭は「後退」を選んだ。
当然、人間の身体は前へ進む方が後ろへ下がるよりも速いが、それを分かった上で、必殺の一撃を放つための後退である。
――固定しろ! 右は肘を直角に、左手を腰に! 後退する
これは剣を鞘から抜く基本動作でもある。右手は抜き去るまでは動かさず、左手を引く事で抜く。でなければ日本刀ならば刀身に傷が付き、抜く速度が殺されてしまう。
鞘から刀身が閃く寸前、右に溜め込んだ力を解放し、切っ先に込める。
「!」
亜紀の顔にハッとした表情が浮かぶ。炎で照らされた男の顔が、今夜、知り合ったばかりの男である事にも驚かされるが、その八頭が見せた動作こそ後の先を体現した動きであったからだ。
剣道師範からいわれた「受けるのではなく、応じる」という言葉が胸に去来する。
八頭の剣は、ベクターフィールドの剣を受けるためではなく、
それはベクターフィールドの踏み込みと互角か、それ以上。
「ギィッ!」
だが悲鳴を上げたのは八頭だった。
ベクターフィールドの一撃が、左上腕を捉えている。斬り落とされる事がなかったのは、八頭のスピードがベクターフィールドに勝ったからだ。
「ッ」
対するベクターフィールドは、
ベクターフィールドも額に傷があった。もしも以前、ベクターフィールドを破った非正規の女死神のように正規職の力が宿っていたならば、ベクターフィールドは
八頭の一撃がスピードで勝った事、またその一撃をベクターフィールドが反射的に逃げようとした事が相打ちという結果を残してくれた。
しかし、この相打ちは、八頭には苦い。
「クッ」
舌打ちした八頭は左手の握力を失ったに対し、ベクターフィールドは
「……へっ」
ベクターフィールドは、無礼と知りつつも、軽く笑ってしまった。眉間を割られたのならば兎も角、急所であっても
左手に力を入れただけで激痛が走ると見て取れるのだから、ベクターフィールドの顔に浮かぶのは必勝の笑み以外にない。
――剣士にとって左手は命だぜ。
おもちゃとはいえ、八頭の剣とて日本刀を模して作られているのだから、ベクターフィールドの嘲笑は
八頭の状況を見て、自分が有利と断じたのは
ましてや八頭は剣士ではない。
――
八頭の技をベクターフィールドは見抜いた。剣で人を斬る技術ではなく、純粋に剣を振るう技術だ。成る程、人間相手ならば役に立たないかも知れないが、霊を相手にするならば、この上ない技術である。
そして八頭も諦めていない。
「……」
激痛を抑えつつ両手で剣を持つ。断つ事ではなく振る事を重視し、もう一度、挑む覚悟だ。
その佇まいに、ベクターフィールドは一敗地にまみれる事となった、あの非正規の女死神を思い出してしまう。
――あいつも、考えてみたら殺陣か!
雷獣を連れ、殺陣を使う非正規の死神――油断できないし、とっとと終わらせてしまいたい衝動に駆られるのも仕方がない。
ベクターフィールドの油断のなさに、八頭は激痛を頭の中から叩き出す。
――さっきの手は、もう使えないな。
八頭は左足を前へ出し、剣先を右小手につけて構えた。本能的に構えただけだが、ベクターフィールドの上段に対する構えである。ベクターフィールドが読んだ通り、八頭には剣道の経験がないが、正解を選べた。
次の交差は鈍くなるであろうが、激しい衝突となる事を感じさせられたのだが――、亜紀の声が、その空気を切り裂く。
「八頭さん!?」
アズマの声であれば八頭を動揺させただけだろうが、亜紀の声は八頭とベクターフィールドの双方を制す。
八頭の顔が向けられる。
「
それは驚きで彩られた。
赤々と燃える炎に照らされた八頭、亜紀、ベクターフィールドの顔は、一様に同じだったはずだ。
次にその静止を動へと変えたのは、炎に照らされていない顔を持つ存在。まずアズマが気付いた。
「八頭さん!」
アズマが慌てた声が、全員の顔を振り向かせる。
炎に照らされない顔を持っているのだから、霊だ。
亜紀も知っている顔を持つ霊の視線を追えば、そこには燃えさかる拘置支所から逃げていく一人の男に行き当たる。
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