第23話「魔王は鷲獅子を自在に操る」
「車で来たんですか?」
石狩市に入って合流した北海道警の刑事は、亜紀とベクターフィールドが乗ってきた白いスポーツカーを見てギョッとした顔をした。本州から北海道まで車で来たとは思わないが、そもそも私用車の使用は、基本的に禁止されている。公務には公用車を使用する事が適法だからだ。
ただベクターフィールドはヘラヘラと笑いつつ、
「こっちで足が必要だから、運んできてもらいました。使い慣れた車が一番、いいですから」
通常、そんな事がいい訳になるはずもないが、そこは魔王と呼ばれる存在だ。北海道警の二人は「そうですか」と流してしまう。
「そうですか。どうですか? 北海道の道は。どこまでも真っ直ぐで、ドライブに最適でしょう?」
刑事の言葉は社交辞令というものだろうが、ベクターフィールドは思わず苦笑い。
「いや、ドライブを楽しみに来たのではないので」
そういわれれば刑事も「そうですね」としかいえなかった。
――道は微妙にブレているし、似たような風景ばかりだし、ドライブが楽しい訳ねェぜ。
内心で舌を出している事が、ベクターフィールドの顔から愛想笑いを消していたのだが、それも仕事のスイッチが入れば気にならなくなる。
亜紀が前へ進み出て、ショルダーバッグから書類を出す。
「逮捕状が出ているのは、
既に同じものを見ている道警の刑事は、さっと目を通しただけで、二人に車を示した。
「案内できます」
「お願いします」
亜紀は、一礼した後、ベクターフィールドの愛車に乗り込む。
***
明津一郎の実家は、ニシン漁で財を成した、通称・ニシン御殿が建ち並ぶ一角にある。
北海道警察から提供された資料と、その景色に視線を行き先させる亜紀は、ふと中学校でならった社会科を思い出していた。
「ニシンの加工場を持っていたそうですね」
道西は古くからニシン漁が盛んな地域であり、明治時代には年間100万トンが水揚げされたという記録がある。
丁度、嫌いと言っていた魚であるから、ベクターフィールドは興味の薄い反応しかないが。
「けど、そのニシンも漁獲量は年々、下がって、今じゃ3000トンも揚がってないんじゃなかったか? そんなだから、この明津って奴も、実家のニシンの加工場を継いでないんだろう」
ハンドルを握っているベクターフィールドは欠伸混じりだった。北海道の道はつまらないといっていた通り、退屈している。
せめて楽しい話をしろというのだろうが、亜紀も楽しい話はない。
「ああ、確かに。警備員の契約社員ですね」
「オッサン警備員が女子高校生と、何の繋がりがあったっていうんだろうな」
そこまでは調べていないベクターフィールドは、ハッと鼻を鳴らす。
接点がまるでない。亜紀もそこは気にかかるし、気にしなければならないところだ。
――トントン拍子に進んでいるけど、この事件の裏にあるものは、何も分かってない……。
ならば、と亜紀が訊ねる。
「それも自白させられますか?」
しかし、これへの返事は決まっている。
「そりゃ勿論」
ベクターフィールドは退屈そうな表情に、若干の笑みを見せた。
「明津に自供させるぜ。全て吐かせてやる」
ベクターフィールドが持っている能力は、人の思考すら思うままにする。
「……」
亜紀も方法は聞かない。説明されても分からないし、合法非合法という分け方のできない手段に違いないとだけ分かっていれば十分だからだ。
そうしている内に、前を走っている北海道警のパトカーがスピードを緩め、ベクターフィールドもアクセルを踏む力を抜く。
「着くみたいだぜ」
見えてくるのは、ニシン御殿という言葉から受ける印象からは外れてしまっている古民家で、併設されている工場も「年季が入っている」と括弧書きできるくらいの佇まいだった。
玄関先に車を停める。
呼び鈴を押すと、ややあって母親らしい老婆の声がし……、
「道警です」
北海道警察の警官は、カメラ付きインターホンに手帳を示し、粛々と進めていく。
「玄関先までお願いできますか?」
静かな声であるが、言い知れぬ強さを込めていった。
玄関を開けて姿を見せた女が恐る恐るという様子だったのは当然なのだが、ベクターフィールドが北海道警の警官二人を押しのけたのは当然ではない。
「調査令状です。明津一郎さんは在宅ですね? ネット上での一連の行動、信用毀損罪、侮辱罪などなど、様々な犯罪の可能性があります」
ベクターフィールドの言葉は、本当の意味で有無をいわさず、明津の母親は混乱した表情が浮かぶ。
「は、はい?」
しかし、そんな表情は一瞬だ。不信感の塊となった被害者遺族に信用させ、本来、降りるはずのない命令を亜紀に降ろさせるベクターフィールドの言葉である。
「はい、それならば……」
邸内に招き入れるように身を引く母親に対し、ベクターフィールドは大股に玄関を潜った。
その騒動は、自室にいる明津一郎の耳にも届いていたのだろう。ベクターフィールドが邸内に入るのは一歩だけ。
「いや、こっちじゃないな」
ベクターフィールドが
バタバタと邸内で足音が起きるのは、明津一郎が裏口から逃走を図ったからだ。それが何を雄弁に語っているから、亜紀にも分かる。
――自覚があった!
裏口へ回ろうとしながら、亜紀は最後に見たSNSの書き込みを思い出す。
――あの一言、犯行声明だったって自覚してるんでしょ!
逃がすものかと身を
「!」
思わず息を飲ませ、亜紀を立ち尽くさせるのは加速していく原付バイクだった。
激突しようと知った事かとばかりに加速させる明津は、門扉から文字通り飛び出していく。
ならばとベクターフィールドは愛車に飛び乗り、
「
運転席から怒鳴った。
「ごめんなさい!」
亜紀が助手席に飛び込むまでの数秒でも、狂ったように加速を続ける明津の原付バイクは、急速に小さくなっていく。
亜紀は焦る。
――まずいでしょ!
北海道の道は真っ直ぐだといっても、枝道が皆無ではない。そこに入り込まれたら、車では追えなくなる。
だがベクターフィールドは嫌みな笑みを浮かべ、
「あれは
エンジンを始動させる手つきには、余裕すらある。勢いよく飛び出していった明津だが、原付バイクは時速40キロが精々。自ずと限界があり、それを見誤るベクターフィールドではない。
「リミッタ解除、10馬力って所か」
エンジンに火が入ったところで、ベクターフィールドはアクセルを踏み込んだ。空転させて白煙を上げさせるようなミスはしない。280馬力を絞り出すクーペで追跡に入る。
狭まる視界だが、枝道へ逸れず、真っ直ぐ走っていく明津の姿は見易い。
「直線で単車が勝てると思うなよ」
気持ちの悪い道である事に変わりはないが、ベクターフィールドも順調に加速させた。
原付に追い付く事は難しくはない。
しかし亜紀は、頬を引きつらせ、
「追い付いて、止めさせられますか?」
追い付いた後、止める術をベクターフィールドが持っているのか――その心配だ。
「追い付いて、引っ張り上げてやるさ」
窓から手を伸ばして掴み上げてやる、とベクターフィールドは鼻を鳴らした。危険
「あまり、手荒なまねは――」
避けて下さいといおうとした亜紀だったが、そう言っているうちに追い付いてしまう。
「さぁ!」
併走させるためハンドルを切ろうとするベクターフィールド。
しかし次の瞬間、とんでもない光景が二人の目に飛び込んできた。
バイクを横に倒してしまうくらい傾け、アクセルを捻って回転数を上げた明津一郎は、アクセルターンを見せたのだ。
――
亜紀には、どうハンドルを切ろうともスピンしてしまう未来だけが見えてしまう。
「チィッ!」
そんなベクターフィールドの舌打ちを聞かされた亜紀は、強引に肩を掴まれて引き倒されていた。
「!?」
突然の事に目を白黒させられる亜紀は、ベクターフィールドに膝枕されているような体勢になっていたのだが、膝枕というには余りにも激しくベクターフィールドの膝が頭に当たる。
亜紀を引き倒すが早いか、ベクターフィールドはギアを落として急ブレーキを踏み、一拍を置いてハンドルを切った。
当然、急ブレーキと急ハンドルが起こした加重移動はクーペを前方へ傾ける。それは引き倒されて前が見えていない亜紀には、明後日の方向へ吹き飛ぶしかない事を予感させられた。
だがベクターフィールドは自殺などは考えていない。
傾きが深くなった瞬間、アクセルを踏み込む。
それは再び後方へ、しかも急激に加重移動させ――、
「何ィッ!?」
避けようと急ブレーキを踏み、スピンさせてしまうはずだと思っていた明津一郎も、思わず大声で叫んでしまった。
ベクターフィールドのクーペは左のタイヤを跳ね上げ、
――ジャンプ台なんてないのに!?
亜紀も不意に襲いかかってきた浮遊感にギョッとさせられた。亜紀の身体を引き倒したのは、人が助手席に乗っていたのでは、できなかったからだ。
「驚くな」
冷静なベクターフィールドは、魔法を使った訳でも何でもない。荷重移動と車体の傾きを利用しサスペンションを軋ませ、もう一度の荷重移動で跳ね上げたのだった。ただし理屈はそうでも、エンジンの死点を見極めての荷重移動は、何万分の一秒というタイミング。それを全て揃える事は、奇蹟に等しい神業である。
明津一郎のバイクを避けたクーペは車体を戻し、続いてスピンターンした。
ただし180度旋回した先からは、追跡の必要はない。明津一郎は、片輪走行したクーペに恐怖し、転倒していたのだから。
ベクターフィールドは、「はッ」と鼻を鳴らした。
「これは公務執行妨害だな」
ただ言葉を向けられた亜紀は、まだ自分が膝枕されている形になっている事に慌てさせられてしまうのだが。
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