第20話「コーラ一本分の義理」

 きっと一週間は長すぎたのだ――そう亜紀は思い知らされている。


 相談者の少女が自宅マンションの屋上から身を投げたという連絡を受けた時、目の前が真っ暗になる思いがした。


 13階から飛び降りた少女は即死。遺書もあり、自殺である事は確実だった。


 遺書はネットの成り済ましから始まった事件をつづり、最後に結ばれていた言葉は、こう。



 ――どうしてあれを信じるの?



 亜紀が書き込みの削除を申請するために駆けずり回った一週間は、事態を急変させるには十分すぎる程だったと思い知らされる。


 容易に個人を特定できないといわれた断片的な情報は、困難であっても個人を特定する事ができる情報であり、その困難さは人数が――数の暴力・・・・がカバーした。


 学校名と学年、バイト先から名前が特定され、次に部活、出身中学、友好関係が明らかにされた。


 卒業アルバムや友人のSNSにアップロードされていた写真が、次々とバラ撒かれた。次に髪と瞳の色を変えた写真がチャットサイトに掲載され、顔だけを挿げ替えた動画がアダルトサイトに載るに至っては、亜紀だけでは手が回らない。


 亜紀がチェックし、削除依頼を出していくSNSの書き込みもヒートアップしていった。


 ただ相談者の少女がヒートアップさせた面もある。


 ――変なサイトにスクショが悪用されちゃった! 誰か助けて。


 少女の書き込みに対してついたコメントは、まず一件。


 ――大丈夫ですか? 変なサイトって?


 このコメントをしてくれた人を、少女は覚えていなかった。1000人を超える相互フォローを、全員、覚える事など困難だと言い訳するだろうが、覚えていなかった。


 結果、事態は訪れる。


 ――悪用ってエロサイトだろ。そういうリスク知ってて晒したかまってちゃんかな?


 ――ざまァ。


 ――自業自得でしょ、


 ――晒したお前が悪い。


 ――安易に晒しちゃ危ないってルールにも書いてあるだろ。それとも日本語の読めない? 在日の方ですか?


 ――天誅~。


 少女の心を折るのには十分だった。


 目に余る誹謗中傷により自ら命を絶つ事態へ至ったのだから、亜紀は係長へ声を荒らげる。


「もう事件ですよ、これ!」


 だが――、


被害届・・・は、出して貰えるのか?」


 壁があった。


 出すならば、自殺した少女に代わって両親が出すという事になるが、一週間を浪費した――事実はどうあれ、形としては事態を進展させられなかった――亜紀を、両親は信じるか?


 ――動いたけど……。


 亜紀は言葉を失う。動いたけれど動けていなかった、が正しい。だが娘を失った両親に「なら仕方ないですね」といわせられる状況では、断じてない。


***


 その夜、亜紀は時間を持て余してしまう事になるのだから、自殺した少女の両親とはアポイントすら取れない状況である。


 ――もう結構です!


 電話を切られる直前の一言が、いつまでも亜紀の耳の中で繰り返されてしまう。


 一週間。


 そは亜紀が足掻あがくには短すぎ、しかし少女の心を折るには十分すぎた。



 そして娘を失った両親にとって、短すぎるはずがない。



 ――野球選手なら、3割打てれば良い。でも警察や医者は、10割打者でなきゃいけない……。


 うつむき加減に歩く亜紀は、そんな考えが頭の中を旋回しているのだから、今後の動き方を考える余裕など不在だ。


 そんな中で出会でくわした事態に動けた理由は、亜紀が持つ警察官としての本能かも知れない。


「!」


 俯き加減の亜紀の視界にも入ってきた蹌踉よろめく足取りの男。


「大丈夫ですか?」


 亜紀は一も二もなく飛びついた。


 胸を押さえている男は出血していたが、それを確認するよりも早く肩を貸す。服が汚れるのなど気にしている場合ではない。


「え……いや……」


 困惑した顔をする男こそ、女死神から命辛々、這々ほうほうていで逃げてきたベクターフィールドである。


 大怪我のベクターフィールドに対し、亜紀に疑いの目はない。


「救急車を――!」


 片手でベクターフィールドの手を支え、もう片方の手でジャケットの内ポケットを探る亜紀は、携帯電話に手が届いたと同時に、ベクターフィールドが出て来た裏路地に女がたたずんでいる事に気付いた。


 手には赤く染まった剣を持っているのだから、尋常な事態ではない。


「あなた、その手のは!」


 声を荒らげるくらいの事しかできなくとも、女死神・・・の追撃を制するには十分だった。死神とて怪力乱神かいりょくらんしんに属する。生者を敵に回して闘う事はできないし、第一、亜紀はここで死ぬ運命にはないのだから。


「ッ」


 舌打ちが聞こえた気がした次の瞬間には、女死神の姿は亜紀の眼前から消える。死神の持つ隠れみのだ。


 姿を隠してとどめの一撃を入れてくるのではないかと思っていたベクターフィールドは身体を硬くしたのだが、それは心配する程の事ではなかった。


 ――人間を巻き込む攻撃は、死神にゃできねェよな。


 ベクターフィールドはホッとする状況だが、勿論、亜紀には理解でないもの。


「何……?」


 目を瞬かせる亜紀には、肩に感じる重さが現実を教えてくれる。


「あ! 大丈夫ですか?」


 亜紀にはベ顔を覗き込まれたクターフィールドは、もう大丈夫だと亜紀から身体を離す。


「いや、俺は大丈夫。肩、ありがとう。放してくれていい」


 押さえていた胸からも手を放すと、そこに傷はない。死神の剣で傷つけられた場が修復されるに十分な時間が経っている。


 それでも亜紀は「待って」とベクターフィールドを引き留めた。


「でも、怪我を――」


 ベクターフィールドは笑ってしまう。


「そうね。コーラでもあれば嬉しいくらいかな」


 ベクターフィールドが冗談めかしたのは、無事だとアピールだった。


 だが亜紀は「はい」と返事をすると、丁度、そばにあった自販機からコーラを買う。


 そして「大丈夫ですか?」と繰り返し問いかけて手渡してくるものだから、ベクターフィールドも受け取るしかなかった。


「……ありがとう……」


 グッとあおるベクターフィールドは、顔は上へ向けつつも、目だけは下へ向け、


「けど、大変な事になりますよ、あなた」


 言葉を向けられた亜紀は、何の事か分かっていなかったはず。


 路地裏から逃れてきた者を保護した経験もなかったし、ましてやその男が魔王・・などという存在であろうなど、想像もしていない。


 だからベクターフィールドの言葉も、変な冗談になるはずだった。



「悪魔に貸しを作るなんて……ね」



 ベクターフィールドが口にした言葉は、誰がどこをどう聞いても出来の悪い冗談だろう。


 だが亜紀は――どうでもよかった。


 亜紀は後に思い出しても、ベクターフィールドが魔王であった事など、どうでもよかったという。


 亜紀にとって必要だったのは、自分に力をくれる存在だった。


 契約を司る悪魔であるベクターフィールドにとって、貸し借りは絶対である。コーラ一本の事であっても。



 ――私の捜査に、力を貸してください。



 亜紀が望む事は、それしかない。

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