第5章「亜紀の初仕事、ネットワーク犯罪者・明津一郎」

第18話「数年がかりの小さな事件」

 甘粕あまかす亜紀あきには癖がある。


「ごめんください」


 すぐに相手から返事がある訳ではないのに、チャイムを鳴らしながら挨拶してしまう事だ。


 それを横目に見るベクターフィールドは、襟元を切りしながら意地の悪そうな笑みを見せる。


「聞こえてないぜ?」


 亜紀の横に立っているベクターフィールドは、真偽の程は分からないが日加にっかハーフ――カナダ人の父親と日本人の母親から生まれた――で背が高く、肩幅が広い。


 だからスーツが似合うのだが、亜紀の相棒に化ける時しか着ないのでは、ネクタイを締めると窮屈に感じるくらい慣れていない。


 亜紀が「癖なの」と、溜息混じりに答えると、程なくしてインターフォンから「はい」と中年女性の声が聞こえてくる。


 もう一度、繰り返す。


「ごめんください。甘粕あまかすです」


 名乗れば、玄関から女が顔を見せた。


 亜紀は女に一礼した後、両手で抱えていた花束を持ち上げて見せた。白、黄、紫、ピンク、赤の5色を選んだ花束は二つ。


「どうぞ」


 邸内へ招き入れる女に対し、亜紀は「失礼します」と、もう一度、頭を下げる。


 ベクターフィールドと共に通されるのは仏間・・だった。



 亜紀の花は、仏壇へ手向けられる。



 亜紀は蝋燭に火を灯し、線香を立てた後、チンと一度、お鈴を鳴らした。


 手を合わせて報告する相手は、仏間に掲げられている遺影の中で、唯一、セーラー服を着ている少女である。


「改めまして――」


 居住まいを正して女と向き直り、そこで亜紀は深々と頭を下げた。



「起訴まで持って行けたそうです」



 これは自分が初めて担当した事件の結末である。


***


 亜紀が奉職したのは、高校を卒業した直後の18歳の時。


 1年に及ぶ警察学校での研修の後、配属されたのは県都の所轄しょかつ警察署だった。県警本部ではないが、刑事ドラマに憧れていた亜紀にとっては所轄に配属される事は望むところ。


 ただし警察学校を出たばかりの新米の配属先が刑事部などという事は有り得ず、配属されたのは今と同じく防犯課少年班である。


 そして最初に担当した事件が、この親子が持ってきた相談だった。


 当時から変わらないショートボブだが、初々しさと青臭さが漂う亜紀は、母娘が手渡してきたプリント用紙に首を傾げさせられる。


「ネットのなりすまし……ですか……」



 SNSの画面を印刷してきたもので、そこには炎上しているアカウントがあった。



 内容は主に、高校生の娘がバイトしているアイスクリーム店での仕事の愚痴だが、酷い言葉が並んでいる。


 ――ハゲがアイスなんて買いに来るんじゃねーよ。クサいんだよ、オヤジ臭が。


 その書き込みと共に、黒ずんだコーンに載せたアイスクリームの画像が張られていた。スレッドを進めてみると、コーンの黒ずみは床に擦りつけたからだと書いている。当然、亜紀は眉をひそめさせられた。


「酷い内容ですね……」


 一言だけを見ての事ではない。


 ――流石にやり過ぎだろ。


 第三者の一言から始まった罵詈雑言の応酬だ。


 第三者が書き込んだのは善意と正義感からだったのかも知れないが、善意や正義感は往々にして暴走する。その暴走は燃え上がった感情に端を発するのだから、油を注ぐのも簡単だ。


 感情をヒートアップさせてやれば、簡単に炎上を招いてしまう。


 そのヒートアップを最高潮に達させたのは、一言。



 ――お前、それ面と向かっていえんの?



 これが全てを相談者の成り済ましであるから、亜紀はゾッとしてしまう。


 ――だったら来いよ。一高いちこうの2年だよ!


 成り済ましは名乗った。


 そこからは、もう見ている事すら辛くなる惨状が広がる。


 すぐさま高校が特定された。そもそも学校名――略称であるが――と学年を明かしているのだから絞込は容易い。


 そしてバイト先が判明しているのだから、生徒を絞り込み、個人の特定が開始される。


 亜紀がいえるのは、ただ三文字。


「酷い……」


 吐き捨てるようにいった。


 そして亜紀は意を決したように顔を上げると、相談に来ていた女子高校生の手を握り、


「自分は、全力を尽くします。きっと、絶対、この成り済ましを見つける」


「本当ですか!?」


 被害者の高校生が声を弾ませたのは、亜紀以外に、こういってくれる者がいなかったからだ。


「でも、時間はかかります。一週間や二週間じゃない……もっと一ヶ月とか二ヶ月とか、かかると思う。でも、自分は全力を尽くします。だから――」


 亜紀は女子高校生の手を握る力を強めた。


「負けないで!」


 精一杯の激励だった。


 だが――、亜紀から相談を持ちかけられた係長は、顔を顰めさせ、


民事不介入・・・・・だ」


「でも、現実に被害が――」


 親子から聞き取りをした事柄を纏めた報告書を示す亜紀であるが、係長の手は書類を受け取るのではなく、苛立たしそうに髪をなでつけた。


「今、起きている被害は何だ? 危害を加えるという予告か? 住所や氏名、電話番号のような容易に個人を特定できる情報が書き込まれたか?」


 その問いへの答えは、亜紀自身、自ら作った報告書を見るまでもなくわかる。


 ――ない。


 聞き取りでも、また自分でSNSでの遣り取りをチェックしたが、全てない。


「でも、個人を特定するには十分なものが描き込まれています。学校も、学年も、アルバイト先も――」


「いいか? 容易に、だ。それら全て、容易に個人を特定できるものじゃない」


 係長の声には明確な苛立ち。


「……」


 その苛立ちに対し、亜紀は沈黙して答えた。


 ――明確に傷ついている人がいるのに……。


 それが理由だ。頭に来ようと腹を立てようと、十分、事件に発展する可能性があるのだ。


「警察は簡単に暴力装置になる。警察が個人の判断で事件になるかも知れないからと、容疑者の個人情報を抜く訳にはいかん」


 職権乱用になりかねないと釘を刺されるのだが、それで納得できる亜紀ならば、相談に来た親子へ「絶対」という言葉は使わない。


「……」


 係長は手を下ろし、何かを振り払うように溜息を吐くと、


「そのSNSの管理者に連絡を取って、コメントを削除してもらえ。相談でも、それくらいはできる」


 逆にいうならば、それくらいしかできないのだ。

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