第4章「快楽的殺人者クリス・ルカーニア」
第14話「殺人鬼の退屈」
速くなる呼吸は抑えなければならない。
意識的に呼吸を深くしても、口で呼吸しようとする衝動は抑える。不自然に深くなってしまうし、口を乾燥させてしまう。
平常心だ。
それを保つ事が、何を置いても基本となる。
クリス・ルカーニアは壁を背にして、「フォルセ、フォルセ」と呟いていた。
その短い、「多分」を意味する言葉を繰り返す事で、クリスは呼吸を整えていた。
壁を背にして屈んでいるのは座り込んでしまった訳ではない。
上体を低くし、いつでも飛び出せる態勢を作っている。
目は一点を見つめているが、目に映るものだけでなく周囲全てに注意力を払う。
「……」
その張り巡らせた集中力に、何かが触れた。
ゆっくりとクリスが持ち上げる手には、
巨大なランボーナイフだ。
しかも刃物として使用された形跡がある。
刃を見つめる男の目に光りが宿ったかと思うと――、
「つまらん!」
言葉と共に、ナイフが一閃!
その一撃は素振りと思う者が殆どだろうが、現実には恐るべき者を切り裂いていた。
クリスにも手応えらしい手応えはないが、ナイフが振るわれた空間には一度、バチッと青白い光が走り、続いて声が上がる。
「ああああ……」
甲高い声には強い違和感がある。無論、クリスのものではない。悲鳴とも思えるが、
大音量の囁き――これを違和感なく受け入れられる者はいまい。
クリスも違和感はあった。
気にしないが。
「つまらねェ!」
その思いがクリスの違和感を塗りつぶしていた。
クリスがナイフを振るった相手は、半透明の身体で睨み返してくる。真っ当な生き物ではない。
亡霊、悪霊、怨霊――そう言った方がいい存在だ。
実態のない存在に対し、ナイフがどれ程、効果的かと言えば
風にも溶けてしまう程、
ナイフの刀身は鉄製――鉄は
クリスは霊の身体を覆う
「ちったぁ、頭使え!」
悲鳴を上げながらも向かってくる霊に対し、クリスは眉間にナイフを突き立てる。生きていた時と同じく、眉間と胸は霊になっても急所だ。
拡散し、空気に溶けてしまう霊には、もう一瞥すらしない。
ナイフをシースに収めたクリスは、天を仰ぐように視線を見上げさせる。
――飽きたな。
霊に狙われるのは初めてではなかった。遭遇する回数も、最初こそ数えていたが、もう数える気が失せてしまう程。数えていた間は人間と違う相手だけに面白みも感じたのだが、数えるのを止めた理由はつまらないと感じたからだ。
――あいつらは頭を使わない。壁をすり抜けられるのに、何故か廊下を歩きたがる。天井や床から現れる事があっても、絶対に部屋か廊下からだ。
クリスは人の動きならば読める。
――死んだくらいで俺より強くなれる訳ねェだろ。
そんなクリスを表す単語で最も簡単で分かり易いのは、「快楽的殺人者」――つまり
決して短いとは言えない生涯で殺した人数は、二桁半ばに達している。
それら今まで殺してきた相手に比べ、霊はつまらなかい。
――人間はいい。助かるために必死で考える。その結果が、袋小路で俺に捕まる事になったとしても、死ぬ程、考えて行動している。
ベッドの下やクローゼットの中といった、見つかればお終いになる場所に隠れる者が殆どだが、それは死ぬ気で考えているとクリスは感じていた。
それに比べれば、立場が逆になったとでも考えているのか、霊は面白くない。何も考えずに廊下を歩き――足がないのだから歩くと言うのは適当ではないが――ドアや壁をすり抜けてくるだけ。
反撃は容易く、返り討ちにするのも容易い。
「全く……誰だ? つまらん事をしやがって」
シースに収めたナイフをジャケットの下に隠しながら、クリスは部屋を出た。
***
霊は
虚とは「存在しない」を意味する言葉。
霊が生きている人間に害を加えようとする時、彼らは動く。
冥府の役人、死神だ。
特に、こう言う厄介な事案に対して、常に呼ばれる男がいる。
非正規の死神――名を
彼の決して報われない仕事は、何も非正規の死神だけではない。
その日も、午後から半日だけ有給休暇を取らざるを得なった彼へ、上司は罵声のようなダミ声で怒鳴った。
――お前、年休は20日余してから取れ!
年間20日ある有給休暇は、未取得分は翌年度へ上限20日まで持ち越せるというシステムだからか、皆、年初に最大の40日まで残るよう計算するのに、八頭はギリギリまで取らざるを得ないからか。
――仕方ないだろ、こればっかりは!
それに耐えて――若干、耐えきれない部分を抱えて――帰路に就いた八頭を出迎えたのは、アパートから走ってくる同居人の悲鳴だった。
走ってくる同居人は、見事な
「八頭さーん!」
明確な言葉を発する同居人は、ウサギではない。
雷獣と呼ばれる存在である。
その雷獣は――、
「助けてー!」
危機的状況に
「は……?」
思わず足を止めてしまう八頭が見たのは、同居人・アズマを追いかけてくる、テンションが上がってしまった様子のコーギー。
アズマはやっと八頭を見つけたと安堵の表情を浮かべるが、そこで逃げる足を緩めてしまったものだから、コーギーに追い付かれる。
「はーん!」
コーギーは甲高く鳴くと、捕まえたアズマに鼻を擦りつけ、なめ回す。これは襲いかかっているのではなく、「遊ぼー!」という意思表示であるから、八頭も思わず笑ってしまう。
「遊んでほしいんだろ」
可愛いもんじゃないかと手を伸ばす八頭は、アズマからコーギーを引き離す訳ではなく、ポンポンと二人の頭を撫でた。
「えー……」
追い掛けられて怖い思いをした、とアズマは
「
コーギーの飼い主であろう女性は、慌ててコーギーを抱き上げ、
「あ、すみません。お宅のうさちゃん? うちの子が……」
慌てた様子で何度も頭を下げる。
「いえ、大丈夫です。何故かこいつ、動物に好かれる
いつもの事だと言う八頭の言葉は、嘘ではない。アズマは動物に好かれる。テンションの高い仔犬に追い掛けられる事など、日常茶飯事と言っていい。
しかしウサギが逃げていたのを知っているだけに、女の顔は申し訳なさでいっぱいである。
「本当にすみません。うさちゃん、怖かったでしょ? ごめんなさい」
女性はアズマの方にも頭を下げ、何度も謝りながらコーギーを連れていった。
そのコーギーと女とアズマに、八頭は少し救われた。
「ペットと飼い主って似るっていうけど、そんな風だな」
八頭が笑う。
笑顔は、これから「嫌な話」をしなければならない現実へ向かう気力になってくれた。
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