第4話「魂の価値」
「腹、
運転席に座るベクターフィールドは時折、シフトノブから左手を放し、腹を
「足りないよりいいかなって……」
「いや、足りねェよりはいいぜ。その通り」
申し訳なさそうにする亜紀へ、悪かったと言うベクターフィールドが愛車を向かわせる先は、前世紀には
開発が中途半端なまま中断し、再開される気配もない場所だ。
一角にある開業できなかったホテルの駐車場に愛車を停めると、ベクターフィールドはククッと喉を鳴らした。
「昼間来たら、最高なんだけどな」
愛車から降りたベクターフィールドは、両手をフレームに見立てて構える。ホテルと愛車は同時期のものであるから、駐車場に停めている景色が似合うと思った。
それは亜紀も同感と感じる所もあるのだが、
「そんな事より――」
仕事の話は最優先である。
「
亜紀が被害者宅で見つけた薬を示すと、ベクターフィールドは頷いた。
「黒と思ってだろうけど
「血……」
見つめても何が分かるという訳でもないのに見つめてしまうのは、亜紀の隠しきれない嫌悪感からか。
だがベクターフィールドは苦笑いなのか嘲笑なのか、そんな曖昧な笑みを見せ、
「昔から手ェ出す人間がいる分野だぜ」
「そんな事、本当にやってたら人類の存亡に――」
話が大きくなりすぎていると言う亜紀の声は、ベクターフィールドに
「人間を一番、殺してるのは何だと思う?」
「人間?」
首を傾げる亜紀に対し、ベクターフィールドは「ブッブー」と唇を尖らせた。
「蚊」
意外な事ではない。
「それが媒介する病気が、自殺より事故より戦争より人を殺してるぜ。だったら、この程度の薬、人類の存亡にゃ関わらねェよ。第一、そんな事で動いてないだろ?」
そう言われると、亜紀はハッとさせられる。
亜紀がベクターフィールドを呼び出してまで調査しているのは、人類の存亡が理由ではない。
人を傷つけるものだからだ。
「行きましょう」
亜紀は力強く頷いたが、廃ホテルに入る時は緊張した。今、手の中にあるのは特殊警棒のみ。書類整理を命じられている亜紀に銃などない。
「車で待っててもいいぜ。危ないだけだ」
横目で亜紀の方を見るベクターフィールドも、スチール製とは言え、特殊警棒一本しか持たない亜紀は頼りない。亜紀も警官であるから剣道を
「行くわ。私が責任者なんだから」
責任感から出た言葉であるが、それに対してベクターフィールドは嘲笑を向けるしかない。
「死ねば、お前の魂をもらっていく事になってる。気をつけろ」
ベクターフィールドとの契約は「亜紀が死ぬまで」だ。
魂を失えばどうなるかは知らないが、行動を阻害する理由にしないのが亜紀の性分だ。
そして
「小規模でしょう? 犯人は個人に近い規模」
「どうして?」
ベクターフィールドが聞き返すと、亜紀は「簡単」と肩を竦め、
「大規模になればなる程、露見する確率は上がる。漏らしそうな人、実行者を始末すればいいって言う人もいるけど、それは逆。殺人と密売の
そこまで考えていたからこそ、亜紀はここへ来た。錯乱した女生徒と薬が結びついた所で予想し、ベクターフィールドの調査で確信した。
「死体処理まで入れたら3件か」
その通りだとベクターフィールドは笑った。
確かに相手は単独。
ただし――、
「おい! 相手は悪魔をどうこうできる奴だって忘れるな!」
ベクターフィールドが怒鳴ったのは、奥へ行こうとドアを開けた亜紀が、あまりにも
「張るなら、そこなんだよ!」
「え?」
立ち止まって振り向いてしまった事で、亜紀は失敗を重ねてしまった。
何かがドアを貫いた音は耳に届いたが、衝撃はなく、また痛みは、更に遅れてやって来る。
腹部を
「チィッ」
大きく舌打ちしながら、ベクターフィールドがドアを蹴る。ドアを
「ハッハァ」
ベクターフィールドに嘲笑を向ける男は、亜紀が見た中年男だ。亜紀はサラリーマン風だったと言ったが、スーツを着崩し、髪型を手櫛を入れた程度に見えるくらいのラフにすれば、成る程、「悪魔」と言うイメージに合致する小汚さになる。
「チッ」
男に注意しつつ、ベクターフィールドは亜紀を一瞥した。下腹部を刺され、
「
男の嘲笑は亜紀よりも、出自を見抜いたベクターフィールドへ向けられている。
「
契約を取って代価を得る――セールスマンとは巧い例えだ。代価に魂を得るベクターフィールドを、男は強く
「何に使うんだよ?」
金のように役立たないと笑いつつ、男は亜紀を刺した剣を持ち上げた。柄に
その自由は何を指しているかと言えば――、
「お前も元人間――
苦痛を味わう側ではなく、味わわせる側になったと言う事。
――自殺?
「ああ、酷かったぜ。こっちの一ヶ月があっちじゃ十年だ。頑張れても百年だった。そこから先は、こっち側だぜ」
自嘲だ。
そんなベクターフィールドの自嘲に、自分でも分かってるじゃないか、と男は益々、バカにした表情を見せる。
「魔王なんて身分の割に、契約者の前に行くとか、アホか」
ただし自由気ままに振る舞えるのに、と言う男に対しては、ベクターフィールドの自嘲は相手への嘲りに変わる。
「悪魔なんて、ホトホト頭に来る連中ばっかだろ。時間にルーズ、平気で嘘を吐く。いい加減な仕事をされるより、自分で出向いた方がマシだぜ」
ベクターフィールドが宙に手を伸ばした。
「クソ食らえだ。いや、悪魔共を前にしては言わないがな」
その言葉は、悪魔らしい悪魔である男へこそ向けられている。
「お前、本当に食いそうだ」
「殺す!」
殺気の
地面を蹴り、脇に構えた剣で
だがベクターフィールドに刺さったのは、その声だけ。
剣は刺さらない。
次の瞬間、男の視界の中から、握っていた手ごと剣が消えていた。
「は……はぁ!?」
「手……手ェ!」
手首から先を断ち切られた両腕に呆然とした顔をする男に対し、ベクターフィールドは言う。
「
「!?」
何を訊かれているのか分からないと言う顔の男に対し、ベクターフィールドは
「俺はあるぜ。悪魔は自分が零した涙を飲むと、感情と引き換えに力を得ていく。喜怒哀楽のどれか一つが丸ごとなくなるくらい涙を飲み続けた――力をつけた悪魔が魔王だ」
剣を構える。男の頭上に降り注ぐ斬撃を容易に想像させた。
「待て!」
男は
「悪かった! 助けてくれ!」
もう一度、地獄に落とされるのはご免だというのか。
「魂だったら、一つなんてセコい事、言わねェ。百でも二百でも――」
薬のためならば魂を売る者もいるはずだと言うが、ベクターフィールドの表情は何も変わらない。
「魂って何に使うか知ってるか?」
馬鹿にしていた取引材料だろうと言うベクターフィールドは、回答を期待していない。男の返答など待たず、ベクターフィールド自身がいう。
「次に人間に生まれてくる権利だ」
ベクターフィールドは剣を持ち上げた。
「いらねェよ、お前が集めてくる小汚い魂なんか。俺が探してる人のじゃねェ」
持ち上げた剣は、ただ振り下ろすのみ。
「俺がなくした感情は
「……こんな腐った世の中に……」
地に伏した男は、やはり嘲笑を浮かべていた。自分を自殺に追い込んだ世界だと言うのだろうが、それに対してはベクターフィールドも嘲笑で答える。
「全世界を見てきたような言い方してんじゃねェよ。俺ですら、そう腐ってないって知ってるぜ」
鼻先で笑うベクターフィールドが思い浮かべるのは、亜紀のアパート。
「そいつは寝て食って、日がな一日、ゴロゴロするしか能がないけど、生まれてから一度も嘘を吐いた事がない」
亜紀のコーギーだ。
「そいつは世界も人も愛してる。腐ってるとは言わせないぜ」
その声を男が聞いていたかどうかは分からないし、ベクターフィールド自身に確かめる気がない。あるのは
そして聞いていないと言えば、亜紀もまた声すら聞こえなくなっていた。
「……」
そんな亜紀へと近づくベクターフィールドは、腹を抉られ、もう意識のない亜紀を見下ろす。
ただし死ぬのを待ち、魂を持ち去ろうというのかと思えば、そうではない。
――事件は、まだ解決してないんだがな……。
亜紀との契約は、「持てる能力の全てを使って協力する事」だった。
女子高生の転落事件ならばこれで解決であるが、薬物事件は完全な解決とはいえない。
――悪魔が一人で、勝手にやってる訳じゃねェんだよ。
舌打ちした後、ベクターフィールドは剣を持ち替えた。
――神なら、命の摂理を歪めたりしない。けどな。
剣で自分の
「けど、悪魔なら――魔王なら……」
***
「!?」
亜紀が目を開けた時、眼前に飛び込んできたのは警察署の席だった。
机上に報告書が一枚。
書きかけの内容は、先日の自殺未遂を発見した事について。
驚きに目を瞬かせる亜紀が見たカレンダーは、「翌日」だった。
「
状況が理解できないまま、係長が呼ぶ声に立ち上がらされる。
係長は座ったままでと手で示した後、
「被害者のフォローに走り回ってたんだってな。母親から礼があった」
ばつの悪そうな口調だった。それで何を言いたいかというと――、
「お前も、立派な警官だ。悪かった」
管轄外の事に首を突っ込むなら、書類整理でもしていろと言った事への詫び。
「は、はい」
呆気にとられてしまう亜紀だが、すぐに気付く。
ベクターフィールドが全ての能力を使って協力したのだ。
「はい、精進します」
相応しい言葉かどうかは分からないが、気持ちは込めたつもりだった。
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