第2章「非正規の死神・八頭時男と雷神の子供・アズマ」

第5話「正規と非正規の死神」

 きょじつ


 せい


 いんよう


 全て対比される字を続けたものであるが、この中で唯一、「虚」だけが異質・・だ。


 負の数、正の数は存在するが、虚数は概念しか存在しない。


 虚偽きょぎとは、うそ


 そもそも「きょ」を「うつろ」と読めば、何もない事を意味する。



 うつろとは即ち、「存在しないもの」――。



 故に、この世に存在する事を許されない存在も、うつろでなければならない。


***


 蒼天に、長い葬列そうれつ


 初夏へと向かうある日、葬儀場に黒一色の人々が集まっている。


 親戚一同が整列する中、出棺しゅっかんの時間だ。


「……」


 そんな列から離れたところに、喪服ではない白いスーツの女が老爺ろうやを連れて立っている。老爺の姿は白装束であるから、彼は明らかにこの世の者ではない。当然、女も。


 女は並んで立っている老爺の顔と、葬列とに視線を往復させ、


「よろしいですか? 未練はありませんか?」


 女の声かけは、霊柩車の発車に合わせている。


「そうだね。でも、ちょっと待ってくれ」


 老爺は女に一礼すると、ゆっくりと国道へ出て行く霊柩車を見守る子供に近寄った。


 小学校の制服を着た男の子は、ぎゅっと牛のぬいぐるみを抱きしめながら、赤い目を向けている。孫か、ひ孫だろうか。


「たぁくん。お祖父ちゃん、行くからね。たぁくんは賢いし優しい。きっと偉くなる。うんと勉強しなよ。元気でね」


 触れられない手を伸ばし、頭を撫でるように動かしながら、届かない言葉を口にする老爺。


 孫にどんな顔を向けたかは、女からも分からない。


 ただ牛のぬいぐるみを抱えた男の子は、老爺の言葉が通じたかのように、すくっと立ち上がって母親らしき女の方へ歩いて行った。


 声も手も届かないが、気持ちは伝わったのだ。そう思えば、女の口調も幾分、柔らかくなる。


「もういいですか?」


「はい。いいよ、もう」


 ただ、そうは言いながらも、老爺は家族の方を向いていおり、女はもう一度、同じ事を訊ねる。


「未練はありませんか?」


「あるよ」


 老爺は否定しない。


「孫の成長を見たいと思う。これから中学、高校、大学、就職、結婚……見られるなら見たい」


 断ち切りがたい未練だ。


「でも、だからってこの世に留まりたいとは思わない。あの子は優しくて、賢い。わしの死をいつまでも悲しんでいるはずがない。乗り越えて、もっと強くなる。絶対、偉くなるよ。確信してるから、儂はこの世に残る理由がない」


「そうですか」


 女はにっこり笑った。


「神も仏も命の摂理を曲げない理由の一つは、人は親しい者の死を乗り越えて強くなれるからです。しっかり育てられたのですね」


「うん、うん」


 老爺は満足そうに頷いた。


「では、よき旅立ちでありますように」


 女はそう言うと、老爺の頭に手をやる。


 そしてテーブルクロスでも引き抜くようなジェスチャーをすると、手の中に限りなく透明に近い布が握られていた。


 その布が引き剥がされると同時に、老爺の姿は風に溶けてしまったかのように消える。それを確認した後、女は携帯電話を手に取る。


「……予定通りです」


 万事さわりなし。


「はい、予定通り、そちらへ旅立ちました。はい」


 老爺と並んで立ち、見えない姿を見て、聞こえない声を聞いていた女と、この女の仲間たちを指して、人々はこう言う。



 死神・・――と。



 電話の先に繋がっているのは彼女の上司だ。


 しかし報告だけで済まず、次の仕事を告げられると、その内容に女は顔を曇らせた。


「では、今夜。いつもの通り、派遣を」


 深刻な顔をしつつ電話を切った女は、深く溜息を吐きながら駐車場に停めてあった軽自動車を発車させた。


***


 死神とは冥府に属する役人・・


 今日、女が出向いたような、ちゃんとした葬儀に出される者を冥府へと導くのは楽な仕事である。



 厄介なのは、死を告げに行く事。



 どのような状況であれ、死を素直に受け入れられる者は少数派だ。


 故に希ではあるが、起きる。



 死神が撃退されてしまう事態だ。



 阻止する方法は様々であるが、一つ言えるのは、この世に生きる人間が、何らかの方法を講じたと言う事。そこらを漂っている霊は、戯れに手を貸したりしない。


 ――この世で起こった事は、この世で解決する事が摂理。怪力乱神かいりょくらんしんは、この世に相応しくない。


 死神と言う存在は怪力乱神に当たるのだが、だからこそこの世で力を自在に振るえない。


 本当に霊が戯れに助けたというのならば、死神も自らの力を行使するのだが、今はそうではない事態だ。



 故に、このような場合のみ、人間が非正規・・の死神として派遣される。



 この世で起こった事ならば、この世に生きている人間が解決しなければならないから。


 軽自動車を走らせつつ、女は今夜、呼び出せる人員を思い出していた。


***


 さて、非正規の死神が何をしているかと言うと――、


「お前、自分の事、どう思ってる?」


 喫煙のために隔離されたスペースで、厳つい顔の上司から睨まれている八頭やず時男ときおは、青い顔をして「はい……」と消え入りそうな声を出していた。


「いいから。どう思ってる?」


 上司の声が厳しさを増す。


「……劣等だと、思っています……」


 消え入りそうな小声を震わせた八頭に対し、「何?」と聞き返さなかった事が、強面こわもてに似合わず、上司も分別があったと言う所か。


 しかし、この無人の喫煙所に呼び出したのは、その一言を言わせるためだった。



 自分は劣等です――言わせてはならない一言を。



 それを言わせたこの男に上司である資格があるのかどうかははなはだ疑問であるが、周囲が無人では、「言った言わないは証拠がない」だ。八頭にICレコーダーを持ち歩く習慣などない。


「そうだな」


 フンッと強く鼻を鳴らし、上司は背を向けた。


「休む事ばっかり考えずに必死になれ! 携帯を見る暇があるんなら仕事を探せ!」


 最後の怒鳴り声はこたえてしまう。



 ――見ないと、死神の仕事が入ってきたのを確認できないんだよ……。



 スマートフォンに送られてきたメッセージを確認した事が、この上司の逆鱗に触れてしまった。普段から、非正規の死神である事を優先して有給休暇を取っているのも、上司に嫌われる遠因ではあるが。


 ――行かなきゃな。


 幸い、今日は有給休暇を使う必要はない。

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